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193年 洛陽の智者01

洛陽の風は、以前よりも土埃が少なく感じられた。生臭い血と黒煙の匂いも、今は遠い。晩夏の風が運んでくるのは、湿った土の匂いと、どこかで削られている新しい木材の青臭い香りだった。

復興が進み、見渡す限りの瓦礫が取り除かれ、露わになった地面が、絶え間ない槌の音と共に版築によって固められつつあるからだ。


益州・涼州という、気候も人の心も険しい外遊から帰還した劉憲の目に飛び込んできたのは、見慣れぬ、しかし極めて洗練された動きで図面を広げ、水路の修復を指示する官吏の一団であった。


「正方、随分手際が良い方々だが……彼らは?」


劉憲が目を丸くして問いかけると、泥だらけの麻布を首に巻き、陣頭指揮を執っていた李厳は、劉憲の姿を認め、どこか楽しげに、そして誇らしげに目を細めた。


「皆、貴方を待っていた方々ですよ。私がいくら言い宥めても、『自らの目で主を見定める』と聞きませんで。……詳しくはご本人たちから聞いた方が良いでしょう」


李厳に促されるように、水路の現場から一人の青年が進み出た。二十代半ば、仕立ての良い、しかし装飾の少ない絹の衣を纏っている。その理知的な光を宿した細い瞳が、正確な定規で測るように劉憲を捉えた。


「私は荀攸、字を公達と申します。そしてこちらは、同郷である穎川の友人で、郭嘉奉孝」


隣で、どこか焦点を結ばないような飄々とした空気を纏う青年、郭嘉が、羽扇を揺らしながら軽く会釈する。微かに、彼から酒の甘い匂いが漂った。さらに荀攸は、背後に控える二人の若者を指した。


「そしてこちらが、河内の司馬朗と、その弟である司馬懿にございます。皆、劉州牧を見極め、仕えたいと願い、ここに集いました」


その時、司馬懿と呼ばれた少年が、兄の影から劉憲をじろじろと眺め、ぼそりと、しかし周囲に響く声で呟いた。


「……なんとも頼りない。泥にまみれ、まるで野良仕事から帰ってきた凡夫のような見た目ではないですか。これが、あの徐栄を単独の軍で退けた男とは」


凍り付くような静寂。土を打つ杵の音すら、一瞬止んだように感じられた。

刹那、隣に立っていた司馬朗の拳が、弟の頭に容赦なく、そして凄まじい音を立てて落ちた。


「痛っ!」


「仲達! あなたは才覚こそあれど、物の表面だけを見て判断する悪い癖があります。いつか必ず、その傲慢さで手酷い失敗を犯しますよ。口を慎みなさい!」


「……痛いな、兄上。事実を言ったまでだ。嘘を言って取り繕うよりはマシでしょう」


頭を押さえて不貞腐れる少年を余所に、李厳が声を殺して笑った。


「孝子。確かに今の貴方は、一国の州牧というよりは、開墾を終えて一服している農夫そのものですね。威厳など欠片もない」


劉憲は思わず自分の姿を見下ろした。長旅の砂埃と、西涼の天幕で染み付いた羊の脂の匂い。それに加えて、先ほど簡単に視察したばかりの復興作業の泥が、簡素な直衣の裾にべったりと付着している。


「正方、やはり昭姫の言う通り、鬱陶しいからと泥に汚れた髭をバッサリ切ってしまったのはまずかったか?

しかし昭姫も、髭の立派さや身なりで士大夫の価値は決まらないと、あんなに熱弁していたしなあ……」


劉憲が顎を撫でながら苦笑すると、微妙な沈黙が流れた。


その沈黙を切り裂くように、荀攸が再び口を開いた。その声は、冗談を許さぬ、冬の氷のような重みを持っていた。


「私は長安で董卓が討たれた後、牢から解放されました。その後、故郷からこの郭嘉を引き連れ、天下の帰趨を見定めるべく、各地の燦然たる群雄を見て回りました。

……袁紹殿は、名族らしく誇りと教養に溢れておられ、その威容は天下の主たるに相応しいものでした。

だが、その心根はひどく疑り深く、小人物そのもの。自らの保身を何よりも優先する男に、到底、仕えるに値しませんでした」


劉憲は、反董卓連合の折、兵糧を惜しんで戦機を逸し、互いに牽制し合っていた袁紹の所業を思い出し、苦々しく頷いた。


「では、曹操殿はどうであったか。叔父の荀彧殿が仕えていると聞くが?」


「曹操孟徳は……」


荀攸は言葉を切り、郭嘉と一瞬だけ視線を交わした。


「覇気に溢れ、正に乱世を切り裂く覇王の風格を備えた御仁でした。現に小叔父は『我が子房』と手放しで迎えられ、彼の片翼を担うほど重用されております」


「……ならば、なぜ彼のもとへ行かなかった?」


劉憲の問いに、荀攸は目を細め、遥か遠く、長安の方角……西の空を見つめた。


「あの御仁は、強すぎる炎なのです。あまりに純粋で苛烈な炎。正面から見た者は、その光に魅入られ、炎に引き寄せられる蛾の如く身を焦がす。

あの者の通る場所には、無数の焼けた骸が転がるでしょう。

……腐りきった漢を終わらせ、全く別の何かを作り替えるならば、あの者しかいない。それほどに巨大な器です」


劉憲は思わず唾を飲み込んだ。荀攸の言葉は、単なる評価を超えた、予言にも似た確信に満ちていた。


「対して、劉州牧。貴方は炎ではない。貴方は、一度粉々に壊れた器を、見苦しくとも丁寧に継ぎ合わせる漆であり、ひび割れた枯れた大地に、じわりと染み込む水のようだ。

曹操が古きを焼き払う者なら、貴方は古きを愛し、慈しみ、その灰の中から新しき芽を土にまみれて育てる者……。

私が、そして我らが見たいのは、その芽が育つ『先』にございます」


郭嘉が、扇で口元を隠してふっと口元を緩め、司馬懿が不承不承ながらも、その小さな双眸で劉憲の瞳を射抜くように凝視する。

曹操孟徳。いずれ必ず相対することになるであろう、強大で、あまりに苛烈な英雄の名。その重圧が、劉憲の肩にずしりと乗る。

劉憲は、自分の泥に汚れた手を見つめた。爪の間には、洛陽の黒い土が入り込んでいる。


「私はただ、瓦礫を片付けたいだけなのだがな……。どうやら、随分と恐ろしい蛾たちが、こんな泥臭い場所に集まってしまったようだ」


劉憲の苦笑に、洛陽の空を渡る風が、彼の短い髪を揺らして優しく応えた。


「他に、気になる者は誰か居たかな?」


劉憲の問いに、荀攸はわずかな沈黙を置いてから、思い出したように一人の男の名を挙げた。


「劉備玄徳。中山靖王・劉勝の末裔を自称し、劉州牧と同じく漢室復興を掲げている男にございます」


「……同じ志を持つ、一族の者か」


「あの者は、人の心に忍び込むのが恐ろしく上手い。その耳目の良さと、どこか放っておけぬ人徳により、多くの者が彼に惹かれ、彼が掲げる大義のために命を賭します。あれもまた、恐ろしい才能です」


「立派な志ではないか。この乱世、大義のために人が集まるのは得難いことだ」


劉憲の言葉に、荀攸はゆっくりと、そして一切の感情を排した断定的な動作で首を振った。


「いいえ。あの者の根底にあるのは、果てなき虚栄心に過ぎません。

……本当に漢室の復興を願うのであれば、なぜ今、ここ洛陽にいないのか。貴方のように土埃に塗れ、天子を保護すべく奔走し、董卓に焼き出された民を一人でも多く救おうとしないのか。

彼が求めているのは漢の再興ではなく、再興を掲げる『高潔な劉備』という己の虚像に他なりません」


荀攸の言葉は、観察者としての冷徹な刃となって、劉備という男の皮を剥き出しにする。


「劉備という劉姓の看板と、心地よい大義に靡く者は後を絶たないでしょう。しかし、かの者の行き着く先は虚栄で固められた地……。

それは黄金に塗られた石塊を、本物の金と信じて崇めるようなものです」


一呼吸おいて、これまで腕を組んで静かに聞き入っていた司馬朗が口を開いた。その瞳には、劉憲の本質を試そうとする鋭い光が宿っていた。


「劉州牧。貴方は高祖劉邦の末裔であると伺いました。洛陽に天子をお迎えした後、功績を認められれば公や王の地位さえ望めるでしょう。……貴方は、その尊き『劉姓』という血を、どう考えておいでですか?」


劉憲は、ふっと息を漏らした。それはかつて、黄巾の乱の中で李厳や文聘らと共に義勇軍を立ち上げた、あの泥だらけの夜にも聞かれた問いだった。


「これは、正方や仲業にも昔話したことだが……。高祖劉邦、中山靖王劉勝のみならず、歴代の天子やその傍系の劉氏など、この四百年の間に星の数ほど生まれている。私もその一人に過ぎない」


劉憲は自分の泥のついた手のひらを再び見つめ、静かに、しかし力強く断じた。


「劉姓は看板にはなれど、そこに意味など無い。重要なのは、その名を継ぐ者が『何を成したか』……ただそれだけだ。

血筋が人を救うのではない。血筋を背負う者の振る舞いこそが、世を変えるのだ。看板を磨く暇があるなら、私は瓦礫を一つでも多く片付けたい」


その答えを聞いた司馬朗は、満足げに笑みを深めた。

彼自身、司馬防という偉大な父を持ち、名門・司馬一族の長兄として生まれた身だ。

しかし彼は、血筋という温室に安住することを拒み、自らの足で立つことを何よりも良しとしていた。


「……なるほど。看板を磨くことに腐心する劉備とは、正反対というわけだ。面白い」


司馬朗はそう言うと、傍らでまだ不貞腐れている弟・司馬懿の肩を叩いた。


「聞いたか、仲達。凡夫に見えるこの御仁は、血筋という呪縛をとうに脱ぎ捨てておられる。看板ではなく、中身で勝負しておられるのだよ」


「……わかっている。言われずとも、そのくらいの器の大きさは見て取れる。だが、やはり髭くらいは整えるべきだ」


司馬懿は毒づきながらも、劉憲に向ける視線をわずかに和らげた。


洛陽の空を渡る風は、新たな知勇たちが加わったことを祝うかのように、一段と力強く吹き抜けた。血筋や虚栄を超え、ただ「成すべきこと」を見据える劉憲の周りに、時代を動かす真の星々が集い始めていた。

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