193年 洛陽の智者02
編み込まれた竹の籠に満たされた黒土は、昨夜から降り続いた微かな夜露を吸い込み、ずしりとした暗い重みを持っていた。
竹のささくれが掌の豆に食い込む荒々しい感触を確かめながら、復興作業のために再び土を担ごうとした劉憲の背に、ひんやりとした絹のような荀攸の冷静な声がかけられた。
「州牧、少し右肩が下がっておられます。昨夜はまた、木簡の束と睨み合って夜半過ぎまで起きておられたのでしょう。筋を痛めますよ」
「公達か。いや、これでも以前に比べれば眠れている方だ。
洛陽の風は夜明け前に骨まで冷えるからな、昔黄巾を追って野営した時の古傷が少しばかり疼くだけさ。そちらこそ、今朝は粟粥を半分残していたようだが、胃の具合でも悪いのか」
「お気遣い痛み入ります。ただの寝不足です。この地の土が放つ焦げたような匂いが、どうにも穎川の肥沃なそれとは異なりまして、まだ体が馴染まないのでしょう」
荀攸は目を伏せて淡く笑うと、衣の裾についた細かな土埃を払った。灰色の雲の切れ間から差し込んだ細い陽光が、彼の整えられた髪に微かな青い屈折の光を落とす。
「州牧。貴方が築き上げた荊州の豊かな田畑、南海からこの洛陽までを繋ぐ強靭な物流の道、そして堅固な城壁と精強な兵……。その全ては、乱世において奇跡に近い結実と言えましょう」
荀攸はそこで言葉を切り、鋭い眼光を、湿気を含んで乳白色に霞む南東の空へと向けた。風が微かに、遠くの森から湿った腐葉土の匂いを運んでくる。
「しかし、未だこの地には、南東に致命的な『防備の穴』が存在します」
劉憲は首を傾げた。籠を地面に下ろすと、どすりという鈍い音が湿った土に吸い込まれた。
自身の治める地は、地勢も民心も皮膚の裏側のように把握しているつもりだった。だが、軍略の天才には自分に見えていない綻びが見えているのかもしれない。
「穴、か。……公達、具体的にどう動くつもりだ?」
「私に、五百の兵を預けてはいただけませんか。必ずや、その穴を塞いで見せましょう」
「五百? それだけで何ができるというのだ。……いや、わかった。公達、やってみてくれ」
劉憲は荀攸の瞳の奥にある、氷のように澄み切った確信を信じ、兵を預けることにした。だが、手のひらにこびりついた土を払いながら、一つだけ強い口調で念を押した。
「ただし、零陵や武陵の深き山々に住む者たちは、皆我が民だ。未だ行き違いによる小競り合いはあるが、彼らを『蛮族』と断じて討伐してはならん。
交易所へ誘導するか、あるいは山の民の古き掟に詳しい者を呼び、対話を持って当たるのだぞ。あの山々に生える樟の樹液の匂いや、彼らが編む葛の丈夫さを、私は無駄にはしたくない」
「承知いたしました。州牧の慈悲、肝に銘じましょう」
荀攸は静かに一礼すると、わずかな手勢を引き連れ、水気を帯びて重く沈む南東の霧の向こうへと、足音すら吸い込まれるように消えていった。
四ヶ月後。
秋の熱気が洛陽の盆地に蓋をし、じっとりとした汗が首筋にまとわりつく季節も過ぎようとしていた。崩れた煉瓦の粉が空気に混じり、喉の奥をざらつかせる復興作業に明け暮れていた劉憲のもとに、荀攸が何食わぬ顔で帰還した。
「正方、お前のその水筒の中身はなんだ。さっきから微かに酸っぱい匂いが漂ってくるが、まさかまた青梅を漬けたものか」
「ご名答です。この肌にへばりつくような湿気が体に堪えまして。疲れを取るにはこれが一番です。孝子も一口いかがですか。塩を効かせてありますよ」
「いや、遠慮しておこう。お前の梅の漬け方はいつも塩の角が立ちすぎている」
李厳が苦笑しながら水筒を傾けている横を通り抜け、荀攸が近づいてくる。その旅装は驚くほど汚れておらず、歩くたびに上質な絹の擦れる音が微かな涼風を生み出しているかのようでさえあった。
「……報告いたします。揚州・豫章郡の太守である周術殿、および地元の有力豪族、山越の族長らと膝を突き合わせて語らった結果、彼らは快く豫章を譲ってくれることとなりました」
「……譲ってくれた、だと?」
劉憲は思わず耳を疑った。顎から滴り落ちそうになっていた汗を手の甲で拭う。豫章といえば、広大な面積を誇る揚州の要衝であり、複雑に絡み合う水路と鬱蒼とした森に守られた地である。そして周術は袁術派閥の重鎮。そう易々と自分の封地を譲ることなどありえない。
すなわち、荀攸の行ったひざを突き合わせた語り合い、とは……劉憲の顔が、乾いたように苦笑に歪む。
「はい。新たな太守には、人望厚き諸葛玄殿を据えてまいりました。また、廬江郡太守の陸康殿とも会談し、州牧が目指す世の在り方に深く感銘を受けられ、協力は惜しまぬとの約定を取り付けてございます」
荀攸は淡々と、卓の上に広げられた古い絹布の地図の一角を、白く細い指でなぞった。指先が擦れる乾いた音が、天幕の中に小さく響く。
「豫章、廬江。この二郡は深い山に囲まれた要害でありながら、長江の守りを盤石にする要。これで、東の袁術や袁紹の不穏な動きに対する『穴』は完全に塞がりました」
劉憲は、あまりの成果の大きさに、強烈な日差しをまともに受けたようなわずかな眩暈を覚えた。天幕の隙間から差し込む光の帯が、埃の粒子を黄金色に躍らせている。
五百の兵で、戦わずして、揚州の要衝を事実上の支配下に置いたのだ。周術や陸康といった一筋縄ではいかない名士たちを、言葉だけで心服させた荀攸の知略に、背筋を這い上がるような戦慄すら覚える。
「公達……。お前という男は、五百の兵で一国を獲ってくるつもりか」
「いえ、州牧。私はただ、穴を塞いだに過ぎません」
荀攸は相変わらず水面のように淡々と答えたが、その背後で李厳が水筒の栓を乱暴に閉め、「全く、とんでもない男を拾いましたね。私の胃が痛くなりそうだ」と呆れたように笑っていた。
劉憲は、自らの勢力が一気に長江下流域まで影響を及ぼした現実を前に、重く湿った溜息をついた。復興すべき範囲が、またしても際限なく広がってしまったのだ。
「……急ぎ、諸葛玄殿に支援物資を送らねばならんな。それと、陸康殿には最上の茶と香料を。
あの特有の甘く重い沈香の香りが、歳を重ねた彼の心をさらに和ませるだろう。礼を尽くさねば、顔向けができん」
劉憲の忙しない日常は、天才たちの合流によって、車輪の軋みすら置き去りにするほどの速度でより加速していくのだった。
翌年の三月中旬。
雪解け水が渭水を濁らせて激しく増水させる頃。復興途上の弘農の地は、霜が溶けて生まれた冷たく粘り気のある泥に覆われていた。足を踏み入れるたびに、靴が水を吸い込んでじゅるりと鳴る。
「孝子、足元の泥が冷える。これ以上は足の指が霜焼けになりそうだから、そろそろ分厚い藁沓に替えてくれ。お前が体調を崩すと、昭姫殿の視線が痛い」
「仲業、お前こそ手が真っ赤ではないか。火を焚いて少し炙ってこい。まだ風の中に冬の刺が混じっているようだ」
劉憲が文聘の悴んだ手を指差して笑ったその時、冷たい風を切り裂いて、西からの伝令が転がり込むように駆けつけてきた。馬の荒い息遣いと、汗と泥の強烈な獣の匂いが天幕の中に充満する。
「韓遂・馬騰の両将、長平観にて郭汜・樊稠の軍と激突。一万余の損害を出し、大敗を喫しました」
劉憲は持っていた樫の杭を、ぬかるんだ地面に深く突き立てた。泥が撥ねて衣の裾を汚すのも構わず、険しい表情で息を呑む伝令を直視した。
「二人は無事か。長安での不穏な動きは察していたが、何故この時期に強行したのだ」
「御二方は退却し、命に別条はございません。
……敗因は、涼州を襲った深刻な食糧不足にございます。馬騰は李傕に支援を乞うたものの、李傕はこれを冷酷に拒絶。飢えに窮した涼州軍は、生きるために長安へ打って出るしかなかったのです」
「……食糧か」
劉憲は、重い鉛色の空を仰いだ。先日の会談で、彼らが「利」を求めていることは、その切実な声の調子から痛いほど分かっていた。だが、その利が得られぬまま飢餓が訪れれば、猛獣は共食いを始めるか、血走った目で死に物狂いに檻を破るしかない。
「李傕の支配する関中を抜けて食糧を送るのは不可能だ。南の連なる山を越えるしかない……。漢中か」
劉憲は即座に、古くから益州や漢中の情勢に詳しい者を天幕に呼び寄せた。湿気を吸って波打つ古い地図を広げ、指の腹で険しい秦嶺山脈の街道をなぞる。墨の匂いと、カビの微かな匂いが混ざり合う。
「漢中の五斗米道、今の首領はどのような男だ。かつての反乱者、張脩はどうなった」
「州牧、五斗米道は変質しております。教団内の血で血を洗う権力争いの末、張脩は既に亡く、今は張魯が『師君』として君臨しております。
その教えは以前より穏健で、行き倒れの者に温かい粥や肉を与える『義舎』を設けるなど、独自の統治を敷いているようですな」
「張魯か……。宗教的な狂熱の煙に巻かれるだけでなく、民の空腹を満たす現実的な目を持っているというわけか。ならば、交渉の道はある」
劉憲の目は、薄暗い天幕の中で既にその先の光明を見据えていた。
「正方、仲業。すぐに南陽へ伝令を飛ばせ。倉にあるありったけの穀物を集め、輜重隊を編成しろ。私は一足先に少数の護衛のみを連れ、漢中へ入る」
「孝子、御自身で行かれるのですか。漢中は蜀への入り口、未だ劉焉の目も光っておりますし、何より呪術めいた宗教勢力の本拠地です。
薬香の煙に巻かれて何をされるか分かったものではありません」
李厳が思わず前に出て制止するのを、劉憲は土に汚れた手で力強く遮った。
「馬騰や韓遂をこれ以上追い詰めれば、彼らは本当に長安を火の海にし、天子の身に何が及ぶか分からん。
も張魯が『義』を重んじる男なら、私が直接会って説く。食糧を右から左へ流すだけで、漢中にも富の雫が落ちる仕組みをな」
劉憲は腰の剣の柄を握り、冷たい金属の感触を確かめると、泥のついた直衣を脱ぎ捨て、より身軽で風除けとなる革をあしらった旅装に身を包んだ。
西涼の飢えを救い、漢中を「物流の関門」として手なずける。それは武力による軍事的な征服よりも薄氷を踏むように危うく、しかし成功すれば天下の形を根底から変える、劉憲ならではの鋭い攻勢であった。
「仲業、あとは頼む。洛陽の守りを、一分の隙もなく固めておいてくれ。このところの雨で城壁の漆喰が緩んでいる箇所があるはずだ」
文聘の沈着で力強い頷きを背に、劉憲は馬の腹を蹴った。濡れた泥を跳ね上げながら進む一行の目指す先には、雨雲と霧に深く沈み込む秦嶺山脈が、まるで巨大な獣の背中のように黒々と横たわっていた。
その向こうには、得体の知れない熱気を孕んだ宗教国家・漢中が待ち構えている。
史実メモ:194年3月、長平観の戦い。穀物の窮乏により馬騰らが李傕に食糧を要請するも拒否。劉焉の息子、劉範らと共謀し反乱を起こすも敗北。




