↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
44/75

193年 涼州の韓遂と馬騰02

鈍く濁った渭水の流れを背に、一行は東へ馬を進めていた。先日までの粘り気を帯びた湿気は嘘のように消え失せ、代わって関中特有の荒削りな空気が肌の水分を容赦なく削いでいく。蹄が踏み砕く枯れ土からは細かい黄塵が巻き上がり、容赦なく照りつける陽光がその微粒子に乱反射して、視界全体に薄絹のような白い霞をかけていた。

馬のいななきと共に、軋む革鞍の手触りが股座に鈍い痛みとして伝わってくる。


「……酷い砂埃だ。喉が干からびて破れそうですよ。異度、そちらの革袋に水は残っていますか?」


蒯良が、手綱を持たない片手で口元を覆いながら、微かに掠れた声で隣を往く弟に声をかけた。


「泥水のように温いが、まだ少しはある。飲むか、子柔兄上」


「ありがたい。……しかし、この乾いた風はどうも喉や眼に障る。南の湿気も鬱陶しいが、ここの気候も人の眼をかすませる」


水袋を受け取りながら咳き込む兄を横目に、蒯越は忌々しげに手元の革手綱を握り直し、舌打ちと共に吐き捨てるように言った。


「……獣ですな」


その言葉の先にあるのは、言うまでもなく先日まで対座していた西涼の猛将たちである。毛皮に染み付いた獣脂と古い血の匂いが、蒯越の鼻腔の奥にはまだこびりついて離れないでいた。

劉憲は、眇めがちな目で前方の揺らぐ陽炎を見据えたまま、手綱を緩めて淡々と問い返す。


「どちらが?」


「どちらもです」


即答した蒯越は、赤く日焼けした額に浮かぶ汗を粗い麻の袖で拭った。


「例え同胞でも疑い、牽制し、利しか見ぬ。あれでは同盟など、とても成り立ちますまい!」


「成り立っているではないか」


劉憲が肩の力を抜いてそう返すと、不意に小さく顔をしかめた。


「痛っ……少し鞍の乗り心地が悪いな。あの天幕で、硬い木の椅子に長く座りすぎた。どうも腰の右側が張る」


「我が君が、あのような脂ぎった羊肉を無理して胃に流し込むからです。胃腸の疲れは腰に出ます。次の野営では薬湯を煎じましょう」


空になった水袋の口を布で拭いながら蒯良が静かに口を挟むと、劉憲は苦笑して短く頷いた。


「頼む。……だが、あの場では彼らと同じものを食らわねば、話の糸口すら掴めなかったからな。信じていないからこそ、今は離れられぬのだろう。互いに背を見せられぬ関係……というわけだ」


蒯良の気遣いに劉憲は鞍の上で姿勢を直し、乾いた風を正面から受け止めた。


「韓遂は馬騰を疑い、馬騰は韓遂を恐れる。だからこそ、一方が李傕へ近づけばもう一方が背を突く。彼らは互いを縛り合っているのだ」


蒯越は腕を組み、馬の単調な歩調に合わせて僅かに体を揺らす。どこまでも広がる抜けるような青空と、眼下に広がる黄土の荒野。その広大さとは裏腹に、そこに蠢く人心はひどく狭く、陰鬱に湿っている。


「いずれ割れます。今のうちに、どちらかを深く抱き込むべきでは?」


「抱き込まれたと思った側は、もう片方を斬るだろうな」


劉憲は小さく笑った。日差しを反射して黒曜石のように光る瞳には、冷徹なまでの観察眼が宿っている。


「西涼は、“信”でまとまる土地ではない。恐れと利だ」


「なおさら厄介だ」


蒯越が鼻を鳴らす。


「私の馬も、先ほどから右の前脚を引きずっております。この辺りの石は刃のように鋭い。全く、人も土地も剣呑でかないませぬ」


「次の村で馬を休ませよう。無理に走らせて脚を折られてはたまらんからな」


劉憲は穏やかに、しかし戦術の要を語るように断定して続けた。


「だからこそ、無理に従わせてはならないのだ」


蒯越は、主君の意図を測りかねるように怪訝な目を向けた。馬の蹄が、乾いた音を立てて小石を弾き飛ばす。


「州牧は、本当に西涼を支配する気が無いのですな」


「無理だな。……仮に長安を押さえ安定させたとしても、その先は広大な荒野と峻険な山々だ。兵站は伸び切り、異民族は動き、現地豪族は死に物狂いで反発する」


「統治費用が利益を食い潰すでしょうね」


蒯良が顎を撫でながら静かに頷くと、劉憲は眩しそうに目を細め、遥か遠く、黄塵に霞む西の空を見つめた。


「あの地は、中央が“所有”しようとするほど荒れる。支配しようとすれば反乱を呼び、放置すれば賊を生む」


蒯越はなおも不満げであった。現実的な軍略家として、不安定な隣人を背後にそのままにしておくことを本能的に危惧している。


「ですが放置すれば、再び董卓のような者が現れるだけです」


「だから、交易路という『利』と、互いの理解を繋ぐ『道』を作るのだ」


劉憲の声は、土煙を巻き上げる関中の風に溶けるように、どこまでも穏やかだった。


「荊州には南海の品が集まる。真珠や香料、象牙……西方で高値となる物も多い」


蒯越の目が、鋭く細まった。


「……それを、あやつらに?」


「彼らに西域交易を担わせる。西からの道を守り、東からの品を運ぶ。その流れの中に、彼らを組み込むのだ」


「まるで、襄陽で氾濫した水路を堰き止めるのではなく、新しい溝を掘って逃がした時のようですね」


蒯良がそこで、微かに口角を上げて相槌を打った。


「なるほど。戦より、商いへ目を向けさせるわけですか」


「馬騰も韓遂も、戦を好んでいるわけではないはずだ」


「いや、少なくとも韓遂は好きでしょう!」


蒯越が一切の思案も挟まずに即座に否定すると、劉憲はたまらず吹き出すように笑った。それはこの過酷で血生臭い旅路の中で、彼が珍しく見せた年相応の、屈託のない笑いだった。


「ふふ……かもしれないなあ」


一行の間に、刺々しい空気を和らげる微かな温もりが落ちる。だがすぐに、劉憲は再び真剣な面持ちに戻った。微風が彼の髪を揺らし、馬の鬣を撫でていく。


「それでも、利益が安定して流れれば人は変わりゆく。少なくとも、“全てを奪わねば生きられぬ”という飢餓の状態は減る。西涼を無理に削れば、必ず次の董卓が出る。ならば、“中央を壊した方が得”という状況そのものを減らすべきだ」


生温かい突風が強く吹き抜け、草もまばらな荒野の匂いを運んでくる。視線の先、渭水の向こうには、灰にまみれた長安の空が陽炎の中で不確かに揺らいでいた。


「我が君は、天下を郡県としてではなく、流れとして見ておられるのですね」


蒯良の静かな言葉に、劉憲は答えなかった。

ただ、布擦れの音を立てて手綱を握り直し、遥か西を見つめたまま、小さく、満足げに笑った。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。