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193年 涼州の韓遂と馬騰01

初夏とはいえ、眉県近郊の夜気は渭水の水温を吸い上げてじっとりと重く、肌にまとわりつくような不快な湿気を孕んでいた。絶え間なく流れる鈍い水音が遠くに響く中、風に煽られた簡素な天幕の一角で、獣の脂を燃やす灯火がオレンジ色の奇妙な影を幕に揺らしている。獣の脂特有の生臭さと、古びた革鎧が発する饐えた汗の匂いが混じり合い、幕内にはむせ返るような野戦の空気が立ち込めていた。


帳中には、分厚い毛皮に身を包んだ西涼の猛将たる馬騰と、枯れ木のような長躯を粗末な椅子に沈めた老獪な策士、韓遂。彼らと粗削りな卓を挟んで対座するのは、荊州牧・劉憲である。その背後には、まるで壁と同化したかのように、呼吸音すら殺して静止する蒯越と蒯良が控えていた。帳の外からは、焚き火を囲む西涼兵たちの泥酔した荒い笑い声と、時折いななく戦馬の甲高い声が、夜気に混じって響いてくる。


「おい寿成、お前の杯は底が割れているのか。酒の減りが早すぎるぞ。この安い濁り酒は、腹を下すから気をつけろとあれほど言ったはずだ」


韓遂が、卓の上に散らばった乾し肉の欠片を指先で弾きながら、横に座る馬騰にぼやいた。


「文約こそ、先ほどから膝をさすってばかりではないか。初夏の湿気は骨に障る。酒でも飲まねばやっておれんのだ」


馬騰が太い指で顎髭を撫でながら笑う。それから、二人の視線は申し合わせたように、目の前に座る劉憲へと突き刺さった。先に沈黙を破ったのは、韓遂だった。


「それにしても、わざわざ関中まで、鼠のように身を隠しながら来るとは。豊かな荊州の牧殿は、よほど暇人と見える」


その声音には、客人を迎える歓迎の響きもなければ、露骨な敵意もない。ただ、目の前の獲物の骨格と肉の付き具合を品定めするような、値踏みの響きだけがあった。劉憲は、煤で黒ずんだ灯火の芯を穏やかに見つめ、静かに答えた。


「暇であれば、洛陽の終わりの見えない瓦礫の山に、頭を悩まされることなどございませぬ」


「……我が君、杯に小さな虫が入っております。新しいものと替えましょう」


背後に控えていた蒯良が、素早い手つきで劉憲の前の素焼きの杯を退けようとしたが、劉憲はそれを手で制した。


「構わん。長旅で喉がひどく渇いている」


劉憲が虫を指で弾き出し、底の浅い酒を一口煽ると、それまで石像のように硬い表情を崩さなかった馬騰が、わずかに口元を緩めた。


「洛陽……真に再建しておるのか。あそこはもはや、野犬と烏しか住めぬ場所であっただろうに」


「まだ半ばにございます。焼け落ちた宮殿の柱は後回しにし、まずは井戸の泥浚いと、水路、そして民家の修復を急がせております」


「……宮殿より先に、民家をか」


馬騰の問いに、劉憲は迷いなく頷いた。


「都とは、そこに人が居て、飯を炊く煙が上がって初めて都となるのです。豪華な壁だけを繕っても、それはただの巨大な骸に過ぎませぬ」


「綺麗事だな」


韓遂が鼻を鳴らし、杯に残った酒を土間に吐き捨てた。背後で蒯越の冷ややかな眉がわずかに動いたが、劉憲は柳に風と受け流した。


「ええ、綺麗事です。ですが、その綺麗事で瓦礫は少しずつ片付き、人は着実に戻りつつあります。それが、誰にも覆せぬ事実でございます」


韓遂は深く被った頭巾の奥で目を細め、劉憲の瞳の奥を射抜くように見た。灯火が揺れ、韓遂の顔に刻まれた深い皺が、刃物の傷跡のように浮かび上がる。


「で、本題は何だ。そのよく回る口で、我らに何を語りに来た。李傕の首の値段か?」


劉憲は姿勢を正し、静かに二人の顔を交互に見つめ返した。


「私は、お二方を逆賊とは思っておりませぬ」


空気が、一瞬で凍り付いた。外の焚き火が爆ぜる音や、兵たちの笑い声が、分厚い水の壁の向こう側にあるように不自然なほど遠く感じる。


「涼州兵が霊帝の治世で反旗を翻されたのは、度を越した宦官や地方官の苛政への義憤ゆえ。董卓に従ったのは、過酷な辺境で生き残るため。そして少なくとも私は、そのように理解しております」


馬騰は黙ったまま、ずしりと重い青銅の杯を卓に置いた。韓遂は逆に、薄く、凍りつくような冷たい笑みを浮かべた。


「荊州牧は、人を安心させる甘い言葉をよく知っておる。ならば聞こう。我らがあんたの口車に乗り、李傕ら逆賊を誅し、長安を奪還した後、我らをどうする。功臣として長安の宮殿に迎えるか、それとも用済みとして、背後から毒矢で始末するか?」


蒯越が一瞬だけ視線を上げ、袖口に隠した手に微かな力を込めたのが分かった。劉憲は、即答を避けるように、小さく息を吸い込んだ。


「……天子様をお救いした後、西涼諸将と兵たちの罪をすべて赦すよう、私から朝廷に強く取りなしましょう」


「取りなす、か」


韓遂は笑った。乾いた、砂漠の砂を噛むような冷笑だ。


「その美しい約定、次の権力者が現れた時も守られるのか? 今のあんたは本気でそう思っていても、十年後、二十年後はどうだ? 『西涼の野蛮な狼藉者ども』と呼び、結局は我らに刃を向けるのではないか? 中原の連中の言葉は、いつもそうだ」


「文約。客人をあまり責めるな。この者は、洛陽の汚濁を自ら正しているというではないか」


たしなめるような馬騰の低い声を、韓遂は鋭く遮った。


「寿成、お前は人が良すぎるのだ。都を焼いたのは確かに董卓だ。だが、中原の士人どもは、十把一絡げに西涼の者を『獣』扱いする。

約束など、政の風向きが変わればただの紙切れよ。我々は、信じては裏切られるのを、嫌というほど見てきた。洛陽の焼け跡より、我らの心の荒野の方が深いのだ」


その目にあるのは、単なる怒りではない。長年、過酷な辺境で見捨てられ続け、利用されるだけだった者たちの、深く、どうしようもなく重い不信の塊であった。


「だからこそ」


劉憲の声が、微かな震えを含みながらも、確かに帳の中に響いた。


「私は最初から、西涼を無理に従えようとも、滅ぼそうとも思っていないのです。涼州はあまりに広く、そして険しい辺境。力で無理に縛れば、必ず反発を招き、無尽蔵に血が流れる。……だが、あの地には、西へと続く道がある」


馬騰が、杯に伸ばしかけた手を止め、興味深そうに目を細めた。


「我が荊州には、南海の莫大な交易の利益がございます。真珠、香料、象牙、そして透明な玻璃……西方で、馬や武具の何倍、何十倍という価値を持つ品々が、私の手元には集まる仕組みができつつある」


劉憲は卓に身を乗り出し、静かに語りかける。


「無理に中央の型に嵌めずとも、我らは利益を交わせばよいのです。西涼の無双の良馬と、西域へと続く果てしないその道は、これからの天下の再編に不可欠なもの。私は貴殿らと、その莫大な富を分かち合いたい」


韓遂はしばらく、灯火の炎を見つめながら沈黙を守っていた。やがて、喉の奥にこびりついた痰を吐き出すように、低く呟いた。


「……面白いことを言う。儒者のような顔をして、商人のような計算もできるというわけか」


だが次の瞬間には、その瞳は再び、冬の凍てつく夜空のような冷たい光を取り戻していた。


「だが、人は莫大な利益のためにも、平気で裏切る生き物だ。何故、我らを信じる。何故、我らを討たぬと言える」


劉憲は、そこで初めて、口元にわずかな微笑みを浮かべた。


「信じ切ってはおりませぬ。……ここにいる蒯越にも、出立の前に、決して西涼を信じすぎるなと、耳に痼りができるほど釘を刺されておりますゆえ」


そのあまりに率直すぎる言葉に、韓遂がわずかに気圧され、目を丸くした。背後で蒯越が呆れたような短い吐息を漏らす。


「ただ、獣を壁際に追い詰めれば、必ず死に物狂いの敵になる。ならば、追い詰めぬ方が良い。互いに利で繋がっている間は、少なくとも無用な血は流れますまい。私は、血の匂いにはもううんざりしているのです」


馬騰が、そこで初めて、腹の底から湧き上がるような深く大きな溜息をついた。


「……少なくとも、長安で己の影に怯えている李傕よりは、随分と話が通じる男のようだな。文約、どうだ。この商談は」


韓遂が、薄い唇を曲げて馬騰を横目で睨む。


「もう乗る気か? お前は新しい馬具を見るとすぐに買いたがる癖がある」


「乗るとは言っておらぬ。だが、一考の余地、検討する価値はあると言っているのだ」


二人の間に流れる、死線を幾度も共に越えてきた連帯と、それ以上に深い相互への根深い警戒。劉憲はそれ以上、言葉を重ねて踏み込むことはしなかった。ここで無理に盟約の印を迫れば、この繊細な細工物のような均衡は一瞬で崩れ去る。


やがて韓遂が、音もなく、幽鬼のように立ち上がった。


「今日は、話だけ聞こう。長旅で疲れただろう。奥の天幕に、羊の肉と干し葡萄を用意させてある。食って寝るがいい」


それは明確な拒絶ではなく、かといって手放しの承諾でもなかった。だが、最初幕屋に満ちていたような、凍り付いた敵意は、そこにはもうなかった。


深夜、劉憲が会談を終えて自らの軍営へと戻る時、渭水の向こうから吹く風は、ほんの少しだけ柔らかく感じられた。

西涼という獰猛な猛獣を、冷たい鉄の鎖ではなく利という見えない糸で繋ぎ止める。それは剣を振るって敵を斬るよりも遥かに繊細で困難な道だが、劉憲の疲労の色濃い瞳には、暗い荒野の先に続く、細くとも確かな一筋の道が見えていた。

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