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193年 益州の劉焉

初平四年、春。蜀の山々は、冬の間に蓄えた雪解け水を吸い上げ、滴るような深い緑をたたえていた。峻険な山々に囲まれた盆地、成都の街には、柔らかな陽光が降り注ぎ、中原の殺戮や飢餓とは無縁の、どこか停滞した、しかし豊かな平穏が満ちていた。


荊州牧・劉憲は、その平穏のただ中にいた。傍らには、荊州の知恵袋である蒯良が静かに立つ。そして、「主君の器とやらを、この両目で確かめさせてもらう」と豪語し、半ば強引に同行を迫った異才、蒯越が控えている。


通された広間は、贅を尽くした錦の帳で飾られ、外の光を遮るように薄暗い。その上座に鎮座するのが、益州牧・劉焉であった。漢の宗室の重鎮であり、長安の混乱をいち早く見限ってこの豊かな蜀の地に根を張った老獪な主。その肌は艶やかだが、衣服の隙間から覗く肉体には老齢特有の重みが漂い、半眼に開かれた双眸の奥には、測り知れぬ野心が濁った澱のように沈んでいた。


形式的な拝礼と、時候の挨拶という名の探り合いがひとしきり続いた後、劉憲は、膝の上に置いた荒れ痩せた手を静かに開き、芯のある声で本題を切り出した。


「洛陽は、あまりにも荒れ果てておりました」


その一言が、贅沢な香煙が漂う室内の空気を、ぴりりと引き締めた。劉焉の傍らに控える一見して傲慢そうな蜀の将たちの視線が、一斉に劉憲へと注がれる。


「宗廟は崩れ、宮殿は灰燼に帰し、民は瓦礫を素手で掘り返しながら、わずかな草の根を齧って飢えを凌いでおりました。かつて天下の中心であり、万民の仰ぎ見る光であった都が、生きながらの地獄……いえ、盗賊すら寄り付かぬ、寒風の吹き抜ける廃墟と化しておりました。私は、あの血と灰に塗れた都に、再び漢室の灯火をともすべき、再建を志しております」


劉焉は、手元の見事な玉杯をゆっくりと傾けた。琥珀色の蜀の美酒が、杯の縁で揺れる。彼はその酒面を見つめたまま、視線を上げずに答えた。


「志は、立派ですな」


その声音には、まるで遠い異国の昔話でも聞いているかのような、あるいは若者の無謀な理想を憐れむような冷笑が混じっていた。だが、劉憲は動じない。その眼差しは、微塵も揺らがなかった。


「若輩者の夢物語や、机上の空論で終わらせるつもりはございませぬ。天下は乱れ、秩序は裂けました。されど、漢という四百年の大樹そのものが根絶やしにされたわけではない。

同じ劉氏の血を引く者として、倒れんとする漢室を支える不屈の柱となりたく存じます」


『同じ劉氏』


その四文字が投げかけられた瞬間、室内の空気がわずかに、しかし確実に波打った。劉焉がゆっくりと顔を上げ、細められた目が、獲物の重さを測る秤のように劉憲を凝視する。沈黙が重く場を支配し、ただ香炉から立ち上る煙だけが揺れていた。ややあって、老牧は喉の奥で低く笑った。


「若い」


その一言に込められた侮蔑と拒絶に、劉憲の背後に控える蒯越の眉が僅かに跳ね上がった。鋭い反論を口にしようとする弟を、蒯良が袖を引いて静かに制する。劉憲は、凪いだ冬の湖面のような表情を崩さぬまま、老人の言葉を待った。


「洛陽を興せば、失われた天下が戻るとでも? 廃れた宗廟の柱を塗り直し、崩れた壁を繕えば、人の胸に巣食う底なしの欲が消えるとでも思うておるのか。劉将軍、そなたはまだ、人の真実というものを見ておらぬ」


劉焉の問いは過酷な現実という名の、研ぎ澄まされた刃となって劉憲の胸元に突きつけられた。


「消えはしますまい」


劉憲は、息をも吐かせぬ速さで即答した。


「ならば、何故そこまで、あの死んだ都に拘る。今の洛陽は、兵を養う穀物も、財を生む民も、何一つ持たぬ抜け殻だ。なぜ、その不毛の地に足を踏み入れる」


劉憲は、劉焉の濁った瞳を真っ直ぐに見据え、一字一句を心に刻み込むように答えた。


「次の世に、『漢』という器を残すためです。天下は既に、義を忘れ、力のみで動いております。ならばなおさら、誰かがその狂気の中で、漢という正統の形を残さねばならぬ。

形さえあれば、いつか嵐が去った後、人は再びその下に集うことができる。もし、その道標さえもが歴史の闇に消えれば、民は永遠に暗闇を彷徨い、終わりのない略奪の世が続きましょう。私は、その器を作りたい」


遠くで、春を告げる鳥の鋭い鳴き声が響き、かえって室内の静寂を際立たせた。劉焉はゆっくりと、胸の奥の澱みを吐き出すように深く息を吐いた。劉憲の瞳の奥にある、狂気とも言える揺るぎなき覚悟。それを測りかねたように見つめ返していたが、やがて視線を杯へと戻した。


「そなたの志は……しかと理解した」


その言葉に、蒯越が期待を込めて僅かに身を乗り出した。益州の財が動くか、と。しかし、老獪な主の口から出た次の言葉は、やはりぬらりとした鰻のように、慎重に濁されたものだった。


「……されど、我が益州もまた平穏とは程遠い。漢中には五斗米道という不逞の輩がはびこり、州内の豪族どもも、未だ一枚岩とはいかぬのだ。連中を宥めるだけでも、我が蔵の兵糧には限りがあってな」


「承知しております」


「今の私には、軽々に兵も財も、この山を越えて動かすわけにはいかぬ。分かってくれい」


劉憲は席を正し、静かに、深く一礼した。最初から、この老人から一粒の米、一筋の絹も引き出せぬことは織り込み済みであった。


「援助を強いるつもりは毛頭ございませぬ。ただ、我が洛陽再建の志に、御理解をいただければ……それだけで十分でございます」


劉焉はそこで、初めてその老顔に、意味深な、すべてを見透かしたような笑みを浮かべた。


「……長安の、李傕らの暴挙に、私が与する気は無い。それだけは、ここに約束しよう」


その一言を聞いた瞬間、蒯良は静かに目を伏せ、会心の笑みを心の奥に隠した。劉憲もまた、深く拝礼する。


「その御言葉だけでも、洛陽の民には、何よりの光となりましょう」


劉焉はそれには答えず、ただ静かに、空になった玉杯を卓に置いた。それが、会談の終わりを告げる合図だった。


益州を発った一行は、天をつくような峻険な山道を、ゆっくりと北へ向かって進んでいた。

蜀は春といえど名ばかりで、深い谷間には冬の名残の冷気が淀み、馬の鼻から吹き出す息が白く濁っては、冷たい風にかき消されていく。切り立った崖の合間を縫うように進む道中、しばらくは蹄の音と、遙か足下を流れる川の轟音だけが響く沈黙が続いた。


やがて、その沈黙に耐えかねたように、蒯越が胸に溜まった不満を吐き出すように口を開いた。


「……劉焉、存外に臆病な老人ですな。あれほどの豊かな土地を抱えながら、天下を語る口が小さすぎる」


劉憲は手綱を握ったまま、視線を前方の険しい道に据えて淡々と答えた。


「臆病だからこそ、この乱世で傷一つ負わずに生き残っているのだよ、異度」


蒯越は鼻で小さく笑った。その瞳には、実利と効率、そして力による再編を重んじる彼らしい光が宿っている。


「漢室の宗親を名乗り、大義を掲げながら、洛陽の再建には及び腰。金が無いと嘯きつつ、その実、成都では天子を模した車馬を密かに造らせていると風聞が届いております。

五斗米道が州を荒らすと嘆いてはみせても、その裏で手綱を握り、朝廷への道を塞いでいるのはあの老人自身だ。あれでは、天下を論ずる資格など、最初から……」


「それは違いますよ、異度」


隣を歩ませていた蒯良が、静かだが、有無を言わせぬ響きを含んだ声で弟の言葉を遮った。


「彼は天下を取りたいのではない。“天下が自分へ頭を下げてやって来る”時を待っているのですよ。あの老人は、自ら泥を被って覇を唱える気などない。ただ、中原の諸侯が互いに食らい合い、全滅した後に、唯一無傷で残った自分が天命を受ける、そういう夢をあの深い山の中で見ているのです」


蒯越は不快そうに眉を寄せ、手綱を引き絞った。


「なお悪い。座して漁夫の利を狙うなど、骨の髄まで腐った平穏の毒に侵されている」


「だからこそ、動かぬのだろう」


劉憲がそこで、薄く、どこか達観したような笑みを浮かべた。


「益州は閉じている。天険の山々に囲まれ、外敵を寄せ付けぬ土地の主は、自ら打って出るより、門を固く閉ざして座す方を選びやすいものだ。環境が人を、そして王の器を決めることもある」


「しかし、州牧」


蒯越は不満を隠しきれず、馬の腹を蹴って劉憲の真横に寄せた。その声が熱を帯びる。


「今なら、あの益州の豪族どもを動かせます。劉焉の強引な統治に、反感を持つ地元の有力者は少なくない。こちらが裏で糸を惹き、内から崩して反乱を誘発させれば、あの豊かな蜀の地を丸ごと荊州の版図に取り込むことも、決して不可能では……」


「取って、どうするのだ?」


あまりに迷いのない、冷徹なまでの即答に、蒯越は一瞬、次の言葉を喉に詰まらせた。劉憲は歩みを止めず、揺れる馬上の人として淡々と続けた。


「あの険しい山を越え、不服従を貫く豪族どもを一人ずつ抑え、常に背後から狙う漢中の張魯を睨み、南方の蛮族とされる民族を鎮める。その上で、長安の李傕とも対峙し続けねばならん。異度、我が荊州は、そこまで万能ではないのだよ」


蒯越は黙り込んだ。しかし、一度狙った獲物を決して諦めぬ鷹のような執念が、彼を突き動かす。


「ですが、益州の富は、我らの悲願にどうしても必要です。あの溢れんばかりの兵糧と銅、鉄があれば、洛陽の復興は数倍、いや十倍は早まる」


「そうだな。それは事実だ」


「ならば、何故!」


「だからこそ、敵にしないのだ」


冷たい突風が谷底から吹き上がり、三人の外套を激しく翻した。轟々という川音が周囲を圧する中で、劉憲の声は、その風よりも鋭く、そして深く静かだった。


「益州は、攻めればその戦火によって荒れ果て、豊かなはずの土地は、我らが手に入れた時には食えぬ荒野に変わる。あの閉ざされた山国は、たとえ勝ったとしても、我らの貴重な兵の命と、そして何より取り戻せぬ『歳月』を際限なく呑み込む底なしの沼だ。我らは今、そんな沼に溺れている暇はない」


蒯良が深く頷き、主君の言葉の裏にある大局を補足した。


「異度。今の我らは、洛陽の再建にすべての人と銭を注ぎ込まねばなりません。西へ深入りし、泥沼の統治に足を取られれば、それこそ袁紹や曹操、東の袁術に背後から易々と喰い破られます」


蒯越は腕を組み、不承不承といった様子で、しかし己の負けを認めざるを得ない苛立ちと共に問いを重ねた。


「……では、今回の命懸けの旅で、一体何を得たと仰るのです」


劉憲は少しだけ顔を上げ、灰色の空を仰いだ。重く垂れ込めた雲の切れ間から、わずかに黄金色の陽光が差し込み、遠くの雪が残る峻険な山肌を、一筋の閃光のように照らし出している。


「李傕は、益州を味方にできない。私が劉焉と不戦を約束した。それだけで十分だ。劉焉は、自ら天下へ打って出る覚悟も、その牙も持っていない。ならば彼は当分、あの温かい蜀の殻に籠もり続け、我らの背を突くこともない」


「だとしても、こちらへは何も寄越しません。一粒の米も、我らのものにはならなかった」


「寄越させぬ方が良い場合もあるのだよ、異度」


蒯越が怪訝そうに目を向けると、蒯良が微かに口角を上げ、馬を並べた。


「大きな援助を受ければ、こちらもまた、劉焉の隠された野心や泥沼の争いに付き合わねばならなくなる。世における貸し借りは、時に、首を絞める強固な鎖となりますからね」


劉憲は短く頷いた。


「今の益州は、“遠い親類”くらいの距離で丁度良い。互いに不可侵であれば、私は全力を、東の袁氏と、西の不穏なる者たちへと向けられる。背後を憂う必要がなくなったことこそ、最大の戦果だ」


しばし、馬の蹄が岩を叩く音だけが響いた。やがて蒯越が、胸の熱をすべて吐き出すような重い溜息とともに、苦笑を漏らした。


「……我が州牧は、随分と欲が薄い。天下の諸侯が狂ったように土地を奪い合っているというのに」


「逆だろう。私は、誰よりも欲深いのだよ。欲深いからこそ、一度飲み込んだ物は手放さないし、一度に呑み込めぬ物へは、決して手を出さんのだ」


その言葉に込められた、果てしない大欲の深淵に触れ、蒯越はようやく、参ったと言わんばかりに肩をすくめ、口元を歪めた。


山道を進む一行の背後で、蜀の峻険なる山々は深い霧に包まれ、その豊かな輪郭を、静かに白き闇の中へと霞ませていった。

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