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191年 反董卓連合12

荊州の大地を揺るがす江東の虎の咆哮が、冬の乾燥した空気を引き裂きながら、襄陽の目前まで迫っていた。


「漢升殿、その左肩の古傷がひどく疼くような寒さだな」


劉憲は、火鉢の縁で冷え切った手を炙りながら、隣に立つ巨漢の将に視線を向けた。


「うむ。若い頃西涼の兵から受けた古い矢傷が、この時期はどうにも骨の芯まで響きましてな。太守こそ、目元に深い隈が落ちておいでだ。少し仮眠をとられては」


「なに、最近は灯りの下だと竹簡の文字がどうにもぼやけて見えてな。無意識に目を細めるから、疲労が顔に出るのだろう」


そんなどうということもない愚痴を交わす彼らの背後には、数日おきに飛び込んでくる絶望的な報告書が山積みになっていた。

西陵が落ち、竟陵が包囲された。黄祖と蒯越が後退を余儀なくされ、劉表の安否すら定かではない。それでも、劉憲の双眸だけは、凍てついた湖面のように冷涼な平穏を保っていた。


「竟陵も、その北の鄀も、死守する必要はない。漢升殿、牛金、兵に伝えよ。

『無理に持ちこたえて無駄死にするな』とな。敵が通り過ぎた後、分散した敵の背後から逃げ散った兵を再編し、奪い返せばよい」


苦々しい顔で口を引き結ぶ将たちを、劉憲は静かに諭した。


「あの御仁は、落とした街を無闇に焼いて回るような男ではない。彼の狙いはあくまでこの襄陽と、そこにいる私だ」


劉憲は、盤上に置かれた木張りの駒を指先で滑らせながら、孫堅の底知れぬ焦りの正体を読み解こうとしていた。

駒の底が盤をこする乾いた音が、部屋の沈黙を際立たせる。孫堅は長沙をも所領としており、劉憲が進める南方の開発や交易は、本来彼にとっても多大な利益をもたらすはずだった。

それにもかかわらず、なぜこれほどまでに遮二無二、兵が凍え死ぬ冬の進軍を強行するのか。


「……袁術からの、無理な要求か。あるいは、あの灰の洛陽で見つけた『何か』が、彼を追い詰めているのか」


劉憲は首を振り、思考の泥沼から抜け出した。理由が何であれ、剥き出しの刃を向けてくる以上、今は敵として迎え撃つしかない。


「敵を宜城まで引き込む。襄陽の南、ここを最終防衛線とするぞ。蔡瑁殿、用意した火攻めの小舟は隠してあるか。

床弩の矢には、西涼の騎馬の装甲すら貫ける鉄の鏃を装填せよ」


「舟の底にはたっぷりと油を染み込ませ、菰を被せて水路の葦の陰に潜ませてあります。

ただ、この寒さで油に妙な粘り気が出ておりましてな。着火には少し骨が折れるやもしれません」


「火矢と松明の数を倍に増やせ。一瞬の遅れが命取りになる」


襄陽の街には、肌を刺すような物々しい緊張感が漂っていた。城壁には油を染み込ませた藁束や、見上げるほど巨大な弩が並べられ、凍りつくような水路の奥には、火を放つための伏船が息を潜めている。


「孫堅殿。貴殿の武勇、この劉憲が築き上げた『知の城塞』で受け止めさせてもらう」


かつて洛陽の灰の中で、互いの背中を預け合った二人の英雄。その邂逅は、もはや酒を酌み交わすためではなく、どちらかが血の海に沈まねば終わらぬ決戦として迫っていた。

冬のどんよりとした空を映す漢水の流れが、どす黒く染まる時を待っていた。


宜城の城壁は、飛び散る火花と鉄のぶつかり合う鈍い音、そして喉をかき切られる兵たちの断末魔の叫びに包まれていた。

孫堅の兵は飢えた虎の如き執念で梯子をかけ、雨あられと降り注ぐ矢を分厚い革盾で弾きながら肉薄してくる。

だが、城内から放たれる大型投石器の石礫が、空気を切り裂く唸りを上げて盾ごと兵の肉体を砕き、床弩が鎧や馬ごと兵を貫き、その狂気じみた勢いを強引に削ぎ落としていた。

粉砕された骨と内臓の生温かい匂いが、冬の乾燥した風に乗って城壁の裏側まで漂ってくる。


劉憲は、防壁の陰で自身の呼吸の数を数えながら、静かにその時を計っていた。


「劉憲様、江夏の黄祖殿より報。鄀を奪還し、敵の背後を完全に遮断したとのことです」


「……よし。鼠を袋に追い込んだな」


劉憲の瞳に、剃刀のような勝機の光が宿る。孫堅軍はあまりの突破力ゆえに、自らの補給線を維持できる限界をとうに超えて突出していた。

劉憲が敢えて無血で落とさせた都市群が、今度は孫堅の喉首を絞め上げる檻へと変わる。


夜が濃密な帳を下ろし、戦場に血と油の入り混じった不気味な静寂が訪れた頃、劉憲は動いた。


「蔡瑁殿に合図を。……始めよ」


突如、宜城の南門が、蝶番の軋む重々しい音を立てて開け放たれた。門の奥には、煌々と焚かれた篝火に照らされた数千の荊州兵が槍衾を整え、今にも打って出ようと野獣のような鬨の声を上げている。


「劉憲が打って出たぞ。孫堅を討て」


鼓膜を破らんばかりの激しい銅鑼の音が夜気を震わせ、孫堅の精鋭たちが反射的に、開かれた城門へと意識を向けた。そのわずか数拍の後だった。


孫堅の背後、漢水の黒い水面が、突如として地獄の底が抜けたかのように真っ赤に染まった。


「……船が、燃えているぞ」


兵たちの絶望に満ちた悲鳴が上がる。蔡瑁率いる水軍が、油を満載した火船を上流から放流して火矢を放ち、孫堅軍の退路であり命綱でもある艦隊を完全に包囲し、炎上させたのだ。水面に反射する炎の光が複雑に屈折し、夜空を毒々しい朱色に染め上げる。


「馬鹿な……城門は……」


孫堅が振り返った時、先ほどまで開いていた南門は、彼らを嘲笑うかのように再び固く閉ざされていた。


燃え上がる篝火も、開け放たれた城門も、腹の底を震わせる鬨の声も。その全ては、孫堅らの目を正面に釘付けにし、背後の「逃げ場」が失われるその一瞬を稼ぐための、劉憲が仕掛けた残酷なまでの巨大な囮であった。


暗闇の中、燃え盛る船団の熱波に照らされた孫堅の顔に、初めて取り返しのつかない揺らぎが走る。

補給を断たれ、退路を焼かれ、幾重にも包囲された敵地の真っただ中で、孤立無援の虎が虚空に向けて牙を剥き出しにした。


夜明けの青白い光が、焦げ付いた船団から立ち上る煙を白く染める中、宜城の城門が静かに開いた。

現れたのは、整然と並んだ騎馬の一団である。その中心で、劉憲は冷たい鉄の鎧の上から毛皮の羽織をかけ、手にはいかなる武器も持つことなく、かつての友に語りかけた。


「孫堅殿、もうよいだろう。退路はなく、やがて兵糧も尽きるはずだ。このまま降伏してはもらえないだろうか。

……長沙太守として再び手を取り合い、共に洛陽を復興し、天子を迎えよう。貴殿の武勇は、こんな澱みの中で腐らせていいものではない」


劉憲の吐く白い息と共に紡がれた声には、偽らざる哀惜の念がこもっていた。だが、馬上の孫堅は、ボロボロに千切れた赤幘を締め直し、血と煤に汚れた顔で不敵に笑った。笑うたびに、ひび割れた唇から血が滲む。


「……劉憲。あんたは、やはり甘い男だ」


孫堅はそれだけを言い残すと、刃こぼれだらけの古錠刀を高く天へと掲げた。


「江東の虎は、檻の中では死なぬ。突撃せよ」


わずか数十騎。死を覚悟した猛将の、命を燃やす最後の一撃。その凄まじい威圧感と獣のような気迫に、歴戦の荊州兵たちが一瞬気圧され、後ずさる。劉憲は悲痛に満ちた目を固く閉じ、静かに手を挙げた。


「放て」


傍らに控える黄忠の裂帛の号令と共に、城壁と陣から無数の矢が放たれた。空を覆い尽くす鉄の雨の中、矢羽が風を切る鋭い音が鳴り響き、孫堅に付き従う将兵が次々と血飛沫を上げて大地に沈む。

そしてついに、孫堅自身も数条の矢をその身に受け、巨大な樹木が倒れるように馬から崩れ落ちた。


凍てつく冬の土の上に倒れた孫堅に、劉憲は馬を飛び降りて駆け寄った。

孫堅はすでに事切れる寸前だったが、震える分厚い手で懐をまさぐり、血に濡れた一枚の布を取り出すと、それを劉憲の手に無理やり握らせた。そして、全てを託したような満足げな笑みを浮かべ、静かに息を引き取った。


「……孫堅殿……」


劉憲が、生温かい血の匂いが染み付いたその布を広げると、そこには乱暴ながらも魂の籠もった筆致で、驚くべき事実が記されていた。


洛陽の宗廟を清めた際、偶然にも伝国玉璽を発見してしまったこと。

しかし、その噂を聞きつけた袁術によって妻子を人質に取られ、玉璽を奪われただけでなく、心ならずもその走狗として荊州を攻めることを強要されたこと。


武人としての誇りを何よりも重んじる孫堅にとって、それは千度殺されるよりも耐え難い屈辱であったに違いない。

布の最後には、血が混じった墨の滲みと共に、ごく短く、走り書きのような文字が残されていた。


「すまぬ、孝子。俺の死をもって、この因縁を終わりにしてくれ。……後を、頼む」


劉憲は、急速に熱を失い硬直していく孫堅の骸を強く抱きしめ、重たい灰色の天を仰いだ。

かつて共に灰の都を見つめ、漢室の再興を誓い合った英雄は、名族の浅ましき欲望の犠牲となり、孤独な戦場に散った。

喉の奥から込み上げる慟哭を噛み殺した劉憲の静かな決意が、冬の冷たい風を鋭く切り裂くように響いた。


「……この乱世を、終わらせる」

史実メモ:冬、襄陽の戦い。孫堅が袁術に命じられ荊州に侵攻し、緒戦で黄祖を打ち破り襄陽を包囲したが、黄祖の矢に当たり死亡。

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