191年 反董卓連合11
洛陽の晩夏は、まるで粘り気のある獣の唾液のように肌にまとわりつく、焦げ付くような陽光と立ち上る灰の匂いと共に過ぎ去ろうとしていた。肺の奥まで侵入してくるのは、砕けた瓦の粉塵と、人の脂が木材と共に燻されたような古く生温かい異臭である。
「孝子、また首筋が赤く被れていますよ。この灰のせいでしょう。先ほど、南陽からの輜重に葛の葉が混じっておりましたから、後で絞り汁を塗っておきます」
「正方、お前の指も荒れすぎていて布より痛いんだ。葉のまま貼り付けてくれ。それにしても、この洛陽の夏は、息をするだけで喉の奥が泥を食ったように渇くな」
李厳が手渡してきた竹筒の水は、ひどく土の匂いがしたが、劉憲はそれを一気に飲み干した。喉仏が上下するたびに、細かい砂が食道をこすっていくような感覚があった。
袁紹と袁術の両巨頭から届くのは、現状を維持せよという無機質な命令ばかりである。
前線のひび割れた大地で血を流した者たちへの労いも、この黒焦げになった都を再建せんとする具体的な計画もそこにはなかった。
劉憲は、痺れを切らして長安へ突っ込もうとする孫堅をなだめつつ、水面下で驚異的な物流網を動かしていた。
荊州、さらには南方の交州から、米、麦、木材、石材をかき集め、南陽の集積所に巨大な山を築かせる。それはいつか来る復興のためではなく、中央が機能を失った際に荊州主導で天下を支えるための、静かなる宣戦布告でもあった。
しかし、その積み上げた水面下の努力に、氷水を浴びせるような急報が届く。
天幕の隙間から、熱風と共に砂塵が入り込んだ。
「袁紹、周昂を豫州刺史に任じ、潁川郡陽城県に進撃。袁術はこれに応戦すべく、公孫瓚の従弟たる公孫越将軍を差し向けました」
伝令の兵が、干からびた唇から血を滲ませながら叫んだ。
べたりと、嫌な汗が背中を伝う音が聞こえるような沈黙が流れた。
報告を聞いていた孫堅の顔は、一瞬にして茹であがったように朱に染まり、やがて急激に血の気を失って幽鬼のような蒼白さへと変わっていった。
分厚い掌が腰の剣の柄を握りしめ、古い革紐がギリギリと悲鳴を上げる。
「……潁川は、あの日、袁術殿が自らこの孫堅に認め、妻と子供らを移動した地。
我らは董卓という逆賊を討つために、同じ旗の下に集まったはずだ。それがどうだ。敵が退き始めれば、今度は身内で領地の奪い合いか……」
孫堅の絞り出すような声は、ひどく掠れ、震えていた。
「いったい、何を信じればよいのだ。何のために我らは、仲間の死を乗り越えてここまで来たのだ……。
劉憲殿、もはや一刻の猶予もない。某は己の地と豫洲に居る家族を守るため、ここを去る。……すまぬ」
「孫堅殿、せめて水だけでも」
向朗が差し出した水桶には目もくれず、孫堅は天幕を蹴破るようにして飛び出していった。制止する間もなかった。
孫堅は、洛陽奪還の立役者である精鋭たちを引き連れ、怒涛の勢いで東へと駆け去っていった。
劉憲は、遠ざかる砂塵を見つめながら、拳を血が滲むほど強く握りしめた。爪が手のひらに食い込み、じわりと鉄の匂いを持った血が滲む。
「……天下が焼けているというのに、あの名族どもはまだ自分の庭の広さを競っているのか」
劉憲は、喉の奥にこみ上げる憤りを無理やり飲み込み、背後に控える李厳と向朗に鋭い指示を飛ばした。
「嘆いている暇はない。孫堅殿が抜けた穴を埋めるぞ。直ちに函谷関を封鎖しろ。
長安からの逆襲を許すな。同時に、陽城へ続く轘轅関も周倉に命じ固く閉じよ。豫州の泥沼をこちらへ持ち込ませるな」
劉憲の目は、すでに最悪の事態、すなわち連合の完全崩壊と、四分五裂する群雄割拠の時代を見据えていた。
「魯陽から梁県に至る街道をさらに広げ、輸送能力を倍にしろ。洛陽を孤立させてはならん。
袁家が助けぬというのなら、我らだけでこの都を、そして荊州の盾としての機能を維持してみせる。急げ」
時代は、義憤に燃えた連合軍という虚飾の季節を終え、己の生存と利権を賭けた軍雄割拠の、血生臭い秋へと一気に加速を始めていた。
初平二年冬、襄陽。
鉛色の空から、白い破片のような雪が舞い落ちては、政庁の黒い石畳の上で溶けていく。吐く息は白く、部屋の隅で赤々と燃える炭火の熱も、分厚い壁から染み出す冷気を完全には遮れない。
劉憲は、火の気の傍に置かれた書簡の山に目を落とし、冷えた指先をこすり合わせた。
「どうにも、冬の硯は墨の伸びが悪い。子柔、そちらの筆はどうだ」
「私の筆も、膠が冷えて石のように硬うございますよ。どうです、少し炭火で炙ってみては」
「毛が焦げて使い物にならなくなるだけだろう」
そんなどうということもない世間話を交わしながら、劉憲は雪の舞い始めた襄陽の政庁で、荊州の、そしてこの国の未来を設計していた。
「名族が都を捨て、利を求めて争うというのなら、我々が新たな土台を作るまでだ。来春より洛陽の復興を本格化させる。
天子をお迎えしたとき、そこが二度と奸臣の巣窟にならぬよう、法と人で城壁以上の守りを固めるぞ」
李厳、蒯良、向朗、そして韓嵩。荊州が誇る知性が一堂に会し、行政と教育、軍制の抜本的な改革を議論していたその時、門扉を突き破るような勢いで伝令の兵が飛び込んできた。外の冷たい風が、室内の暖気を一瞬にして切り裂く。
「袁術軍、荊州に侵攻」
その一報に、室内の温度がさらに数度下がったかのような錯覚を覚えた。炭の弾ける音だけが妙に大きく響く。袁術は先日の陽城での戦いで袁紹を退けた勢いのまま、矛先を南、盟友であったはずの劉憲へと向けたのだ。
「敵軍の所在は。誰が率いている」
劉憲の問いに、兵は顔を伏せ、凍りついた息を吐き出しながら絞り出すように答えた。
「現在、江夏郡西陵にて黄祖殿が応戦中。敵の将は……孫堅殿にございます」
「……何ですって」
劉憲の傍らで、蒯良が短く絶句し、手にしていた竹簡を取り落とした。カランという乾いた音が床に転がる。
あの日、洛陽の灰の中で名族の身勝手さを嘆き、義に殉じようとしていた江東の虎が、あろうことか袁術の走狗となってかつての戦友を討ちに来たというのか。
「……納得がいった。袁術は洛陽を落とした我らが目障りとなり、我らが董卓への備えとして要塞化した南陽を避けたのだ。水運を使い、長江を遡ってこの襄陽、荊州の心臓部を直接抜きに来る気か」
劉憲は瞬時に私情を押し殺し、戦術家としての思考を加速させた。卓の上に広げられた大きな地図を引き寄せ、冷たい指先で襄陽を囲む水網を強く叩く。古い絹布が擦れる音が、異様に鋭く耳に響いた。
「黄祖殿に至急、兵糧と救援を送れ。江夏には劉表殿もいらっしゃるはずだ。
あの方を死なせてはならん。蒯越の知略があれば、容易に崩れはせぬだろう。だが相手は孫堅殿だ、一刻の猶予もない」
劉憲は再び地図の上を指でなぞった。
「南郡全域に動員令。敵には程普、黄蓋、韓当といった水戦の猛者たちが揃っている。こちらも水軍を整えねばならん。蔡瑁殿を指揮官に据え、長江と漢水の防衛線を構築せよ」
蔡瑁。襄陽の名士であり、水軍の扱いに長けた男である。彼を抜擢することで、襄陽の有力者の結束を固める狙いもあった。
「……孫堅殿。貴殿の事情は知らぬ。だが、この荊州は、私が民と共に耕し、守り抜くと決めた地だ。たとえ貴殿であっても、土足で踏み荒らすことは許さん」
劉憲の瞳に、炭火の赤い光を反射した峻烈な覚悟が宿る。かつて洛陽を共に奪還した英雄たちが、今度は冬の冷たい風の中、互いの喉笛を狙って刃を交える。時代の濁流は、もはや誰も止めることのできない悲劇へと突き進んでいた。
史実メモ:冬、袁紹が豫洲に侵攻し、袁術と孫堅がこれを撃退。反董卓連合は事実上崩壊した。




