192年 群雄割拠01
年が明け、戦後処理の喧騒が遠く響く襄陽の政庁には、冬特有の粘り気を帯びた湿った冷気が淀んでいた。
壁の隙間から入り込む微風が、燻る炭火の白煙を舐めるように揺らし、部屋の隅に古い埃の匂いを押しやっている。劉憲は、目の前の文机に置かれた劉表の遺品、血に汚れた青銅の刺史の印綬を見つめ、ひび割れた指先でこめかみを強く揉みほぐした。
「太守様、少し目を休められては。その印綬についた血の匂いは、いくら拭っても落ちやしませんよ。長沙から届いたばかりの薬草を煎じましたので、一口どうぞ」
傍らに控える向朗が、細かな湯気を立てる陶器の碗を差し出した。
「すまない。どうも最近、底冷えが歯の根に沁みてな。熱い茶がありがたい」
薬茶を啜る劉憲の吐息が白く濁る。独特の苦味を舌の上に転がしながら、彼は再び鈍い光を放つ印綬へと視線を戻した。
「名士として、ただ象徴として座っていてくれれば、それでよかったのだ。死なせてしまっては、その権威の器がただの空洞になってしまう。
この底なしの穴を実務で埋めるのは、兵糧を十万集めるよりも数倍骨が折れるぞ」
劉憲のぼやきは、疲労から来る嘘偽りのない本心であった。劉表という、朝廷が認めた名士の看板が表にあったからこそ、劉憲は裏で一切の実務と軍備に専念できたのである。
それが失われた今、荊州は法的な空白地帯となり、虎視眈々と介入を狙う外部勢力へ、巨大な無防備の隙を晒すことになる。
「しかし、茶葉ももう底をつきそうですな。次は武陵から仕入れましょうか」
「呑気なことを言っている場合ですか、向朗。刺史も居ないこの荊州に、長安の董卓や、玉璽を握りしめた袁術が、次にどんな自称正当な刺史を送り込んでくるか。想像に難くありません」
それまで火鉢の灰を火箸で突いていた蒯良が、静かに、だが逃げ場を完全に塞ぐような鋭い声音で口を開いた。
「我が君、もはや看板のすげ替えで済む段階ではありません。決断の時です」
「背に腹は代えられぬか。劉表殿が死の間際、荊州の行く末を案じて私に印綬を託した、という形にするしかないだろう。
だが、独りよがりの自称では袁紹らが黙っておらん。使いを送り、袁術を牽制するための兵糧と軍資金を提示して、私の地位を追認させる」
劉憲の言葉に、蒯良は火箸を置き、衣の袖を払った。
「刺史、とんでもない。州牧に致しましょう」
蒯良がさらりと言ってのけた。刺史がただの監察官であるのに対し、州牧は軍事と民政の全権を掌握する、事実上の小皇帝とも呼べる官位である。
「州牧など、あまりに大仰すぎる。私はあくまで、漢の臣として」
「今、袁紹は北の公孫瓚と激しく争い、兵糧の一粒、矢の一本を血眼になって欲しております。そして袁術という共通の敵を叩くため、南の安定を喉から手が出るほど求めている。今こそ、最大の恩を売る時です。彼に劉憲を荊州牧に推挙すると言わせれば、それは天下の公論となります」
劉憲の口から漏れた溜息が、先ほどよりも深く、重く冷気に沈んだ。
「昔、まだ私が書を読んでいた頃、権力というものは毒杯だと学んだ。私はただ、この地の民が静かに麦を育て、暮らせる仕組みを作りたかっただけなのだがな。いつの間にか、その仕組みを守るために、私が最も忌避していた権力の塊にならねばならんとは」
「それが王道というものの、血生臭く残酷な側面でございますよ。さて、硯の墨が凍る前に、袁紹への親書を書き上げてしまいましょう」
蒯良は薄く笑い、すでに膠の固まりかけた冷たい筆を手に取っていた。孫堅の遺書に記された玉璽の行方、袁術の暴走、そして劉表の死。劉憲の意図に反して、時代の濁流は彼を一介の太守から、天下の天秤を左右する荊州牧へと強引に押し上げようとしていた。
「正方、文官を呼べ。地位に見合うだけの正当な法を早急に完成させる。看板が変わるのなら、中身もより強固にせねばならんからな」
観念した劉憲の瞳には、重責を背負う者特有の、暗く沈みながらも決して消えることのない強い光が宿っていた。
しばらくのち、執務室の窓枠に手をかけ、豫州に放った密偵からの報告を聞き終えた劉憲は、寒々とした鉛色の空を見上げた。古びた木枠から染み出す湿り気が、掌の皮をふやかすように冷たい。
「見つからなかったか。袁術の魔の手から、せめて家族だけでも救い出したかったのだが」
孫堅の遺書にあった人質の存在。袁術がその妻子を盾に孫堅を操っていたことは明白だったが、もぬけの空となった潁川の屋敷に、血の跡や争った形跡が一切なかったことは、暗雲の中の唯一の救いでもあった。
孫家の者たちが自力で、あるいは忠臣の手引きによって、袁術の監視の目をかいくぐり見事に逃れたことを示唆していたからだ。
「太守、窓辺は冷えます。それに、足袋の先が擦り切れておいでだ。新しいものをお出ししましょうか」
密偵を下がらせた後、部屋の隅で破れた図面を整理していた小間使いが声をかけた。
「いや、まだ履ける。今は一寸の布でも惜しい時だ。それより、あの御仁の家族だ。ただでは捕らわれぬ強さを持っていると信じよう。だが、行方が知れぬ以上、今はこれ以上の手出しはできぬか」
劉憲は悔しさを噛み締めるように拳を握りしめた。爪が手のひらに食い込み、微かな痛みが走る。だが、すぐに次なる礼へと意識を向けた。
「仕方ない。せめて、武人として最期まで駆け抜けた孫堅殿と、彼に殉じた勇将たちの亡骸だけは、安らかに眠らせてやらねばならん。彼らを丁重に揚州の故郷へと送り届けよ」
数日後、凍てつく漢水の川べり。
水面は薄く氷を張り、足元の泥は霜柱で無数にひび割れていた。劉憲は、捕虜となった孫堅の旧臣たちや、行き場を失い軟禁されていた将たちを集めた。彼らの前で孫堅の最期を、敵としてではなく、一人の英雄に対する痛切な敬意をもって語り、主君の遺体を託した。
「これは、孫堅殿への弔いと、故郷での祭祀のための費用だ。どうか受け取ってほしい。私は彼と刃を交えたが、その志までを否定したわけではない」
劉憲の声は、川面を撫でる冷たい風に掻き消されそうになりながらも、確かな熱を帯びていた。多額の路銀と、分厚い白木で丁重に棺を収めた船を用意し、劉憲は自ら泥濘む港まで足を運んで見送った。
「あの白木、なかなかの値が張りましたな。削り屑からは、むせ返るような生木の香りがしましたよ」
「友の眠る箱だ。香の匂いより、故郷の木立の匂いの方がよかろう」
傍らで外套の襟を合わせる向朗にそう返し、劉憲は船を見つめた。かつて洛陽の灰の中で、共に漢復興の理想を語った男の帰郷。それが物言わぬ骸となってのものだったことに、劉憲の胸には、肺が凍りつくような言いようのない寂寥感が漂う。
船が漢水の深い霧の向こう、水と空の境界が曖昧に溶け合う場所へと消えていくのを、劉憲はいつまでも立ち尽くして見守っていた。寄せては返す泥混じりの波の音が、死者の残響のように響く。
「文台殿、約束しよう。貴殿の愛した長沙も、そしてこの荊州も、決して袁術のような腐肉を漁る者たちに蹂躙させはしない」
背後の政庁では、蒯良たちが荊州牧就任への煩雑な準備を、着々と進めているはずだ。友を葬り、巨大な権威の重みを背負い、劉憲は一人、孤独な頂へと足を踏み出そうとしていた。冬の重たい風が、彼の纏う簡素な麻の衣を、まるで鞭のように激しく打ち据えて揺らしていた。




