190年 反董卓連合09
秋の気配が完全に消え去り、北の山々から吹き下ろす容赦のない木枯らしが魯陽の陣営を厳しく吹き抜ける頃、劉憲が最も恐れていた最悪の懸念は、あまりにも唐突に、そして最悪の形で現実のものとなった。乾いた風が建物の隙間を鳴らし、土間にはどこからか紛れ込んだ枯れ葉が寂しげに舞っている。
「報告! 孫堅様、たった今、前線の物見に『ほんの少し董卓の奴らにひと当てしてくる』と言い残し、長沙の全軍を引き連れて北に向けてご出陣されました!」
血相を変えて飛び込んできた伝令の兵が、肺腑の底から絞り出すような叫び声を上げた瞬間、劉憲の指先からふっと力が抜けた。手にした上質な筆が卓の上に転がり、乾ききっていない黒い墨が、丁寧に引かれたばかりの兵糧の配分図の上に醜い染みを作っていく。
劉憲はしばしの間、言葉を失ったまま、呆然と天井の梁を見つめて天を仰いだ。連日の激しい政務と、膨大な荊州全域の兵站管理によって極限まで酷使し、割れるように痛む彼の頭にとって、そのあまりにも一方的な報告は、破壊的なまでに暴力的な刺激であった。
「……正方、済まないが、少し耳を貸してくれ。私はどうやら、ここ数日の寝不足のせいで、いよいよ最悪の幻聴が聞こえるようになってしまったらしい。
いま、あの獰猛で制御不能な暴れ馬が、私の指示を完全に無視して勝手に陣を飛び出したという、この世の道理ではあり得ない怪報告が聞こえた気がするのだが、気のせいだな。疲れているんだ、温かい粥でも食べよう」
「孝子! 現実から目を背けて逃避している場合ではありませんよ! あなたのその赤い充血した目を見れば、どれほど疲れているかは痛いほど分かりますが、今は一刻を争うのです!
早くどうするか方針を決めねば、あの御仁のことだ、今頃はもう董卓軍の鼻先に突っ込んで、大乱戦を始めているに違いありません!」
傍らで同じく徹夜の政務に付き合っていた李厳が、机を激しく叩いて劉憲を叱咤した。その鋭い声に、劉憲は泥のように重かった意識を、無理やり血生臭い戦場へと引き戻した。肺の底にあるすべての空気を吐き出すような深い溜め息を一つ吐くと、彼は即座にその眠たげな瞳から深い疲労の色を追い出し、冷静な一軍の指揮官の顔へと戻った。
「全軍に緊急伝達! いつでも出陣できるよう、ただちに兵装を整えさせよ。だが、各隊の将には決して功を焦って無理な強行軍はするなと厳命せよ。無駄に兵を疲れさせるな」
劉憲は墨の滲む机上に、実寸通りに描かれた精密な地図を乱暴に広げ、その細い指先で魯陽から真っ直ぐ北へと伸びる隘路の先、梁県の地点を強く叩いた。
「ここから北へ向かったということは、狙いは梁県か。いまから我らが急いでその後を追ったところで、あの長沙の俊足どもには到底追いつけまい。
むしろ、焦って無理に進軍すれば、目的地に着く頃にはこちらの兵の足腰も完全に疲弊し、それこそ平原で待ち構える西涼の強力な騎馬隊の格好の餌食になるだけだ」
劉憲は、頭痛を堪えながら的確に戦況の数字を分析し、頭の中で最善の、そして最も確実な後始末の盤面を組み立てていく。
「やむを得ん、方針を切り替える。すぐさま孫堅殿の背後に向けて、我が軍の輜重隊を繋げ。腹が減ってはあの男も戦えまい。こちらも本隊の準備が整い次第、後詰の軍として静かに出る。
……それから、夏の間から職人たちに命じて大量に準備させておいた、可搬式の頑強な鹿砦(馬防柵)を、一台残らず荷車に積み込め。絶対に忘れるなよ。
平地において、あの化け物のような西涼騎兵の突撃を正面から大盾だけで受け止めるのは、自殺行為に等しい愚策だ」
「無理なく進軍し、要所に小拠点を築きながら、確実に一歩ずつ歩を進めるのだ。もしも孫堅殿がその恐るべき勢いのままに運良く梁県を落とせればそれで良し。
だが……もしも敵の凄まじい伏兵に遭って無惨に敗退し、命からがら逃げ戻ってくる場合には、我らがその強固な防壁となって敵の追撃を喰い止め、荊州軍の被害を最小限に食い止める」
劉憲はすぐに宿将の黄忠と、李通を執務室に呼び寄せ、沈痛な面持ちのまま、しかし確固たる声で告げた。
「これは、華々しい勝利を求めるための華麗な戦ではない。一人の偉大な猛将の身勝手な失策を、我が荊州の致命傷にさせないための、軍の忍耐力を試される戦いだ。漢升殿、文達、お前たちのその確かな腕に、我らの未来を委ねるぞ。頼んだ」
荊州の命運を賭けた、対董卓軍との本格的な実戦。それは、劉憲が頭の中で緻密に描いていたはずの、北方が凍りつく冬の計算を大きく置き去りにし、孫堅というあまりにも無謀な火種によって、危うい形で唐突に幕を開けたのであった。
梁県の城から南西に数十里離れた、枯れ草の混じる乾いた荒野。冷たい風が吹きすさぶ大地の向こうから、凄まじい勢いで敗走してくる長沙兵たちの、天を突くような白い土煙が急速に近づいてくるのが見えた。
劉憲は、愛馬の背の上で手綱をしっかりと握り締め、冷ややかな目でその絶望的な光景を静かに見据えていた。
「敵の追撃はすぐそこまで来ているぞ! 全軍、直ちに可搬式の鹿砦を展開せよ! 前列は大盾を隙間なく並べて槍衾を構え、後列は弩の矢を限界までつがえろ!」
劉憲の鋭く高い号令が戦場に響き渡り、日頃から過酷な訓練を重ねてきた精鋭たちが、一糸乱れぬ迅速さで動いた。
荷車から降ろされた頑丈な竹製の柵が、次々と大地上に牙のように突き立てられていく。劉憲は、恐怖に顔を歪めて逃げ戻ってくる味方の長沙兵を、あえて陣の中央には入れず、左右の翼へと滑り込ませるようにして受け流した。
その動きに伴い、劉憲の陣は、まるで巨大な鶴がその純白の翼を大きく広げたような、美しい鶴翼の陣へとその形を滑らかに変えていった。
そこへ、全身泥塗れになりながら、孫堅の象徴である鮮やかな赤幘を頭に深く被った一人の将が、息を切らせて馬を走らせ、劉憲のもとへと駆け寄ってきた。
「孫堅殿、よくぞご無事で! 敵将の名は誰だ! 敵の正確な規模はどれほどだ!」
鋭く声をかける劉憲だったが、近づいてきたその男が自ら赤幘をバサリと脱ぎ捨てた時、その顔は劉憲のよく知るあの孫堅の顔ではなかった。
「……申し訳ござらん、劉太守。拙者は孫堅様の配下、祖茂と申す者にございます……。我が主君、孫堅様はあちら、すでに陣の中央の雑兵の中に紛れておられます」
祖茂が、傷だらけの指で必死に指差した先。そこは、鶴翼の陣のまさに最前線、最も激しくぶつかる中央部であった。長沙の一般の歩卒たちに完全に混じり、わざと薄汚れた粗末な鎧を纏って、平然と長い槍を構えている孫堅の不敵な姿があった。
執拗に己の命を狙う敵の目を欺くため、忠義の将である祖茂に己の赤い頭巾を被せて囮として逃がし、自らは雑兵の真似事をして敵の目を完全にくらましたのか。
劉憲は、その無事を知って胸を撫で下ろす安堵と同時に、忠義ある将の命を軽んじるその無茶苦茶な戦い方に、呆れを通り越したある種の深い敬意を抱かざるを得なかった。
「敵の総大将は、猛将・徐栄! 数は万を下らず、まもなくその恐るべき追撃の騎馬隊が、この平原を埋め尽くして参ります!」
祖茂の言葉が終わるか終わらないかのうちに、大地を激しく揺るがす地鳴りのような鉄蹄の響きと共に、数百の鋭い先遣騎馬隊が猛烈な風圧を伴って襲来した。
しかし、彼らが勝利を確信して突っ込んできたその瞬間、劉憲が用意させていた強固な木と竹製の鹿砦が、その自慢の馬足を無惨に、そして物理的にへし折って止めた。突撃の速度を完全に失い、激しく転倒した騎兵たちは、後方から容赦なく降り注ぐ弩の斉射の前に、次々と血飛沫を上げて泥を舐め、生き残った僅かな兵たちは恐怖に怯えて散り散りに逃げ去っていった。
だが、真の脅威はそのすぐ後に控えていた。地平線を真っ黒に染め上げる、千を超える西涼騎馬の本隊。その中央には、一際豪華で重厚な黒鉄の鎧に身を包んだ冷徹な将、徐栄が率いる、本物の精鋭たちの姿があった。
「来るぞ! 中央の部隊は無理に耐えようとするな、敵の圧力を適度にいなせ!」
左翼の安全な高みから叫ぶ劉憲の、裂くような声が戦場に響いた。馬防柵をその凄まじい質量で強引に乗り越え、あるいは肉体ごと叩き壊して突っ込んでくる西涼騎兵の破壊力は、想像をはるかに絶していた。
強固なはずの鉄で補強された大盾が木端微塵に砕かれ、鋭い槍が何本もへし折れる。悲鳴と怒号が飛び交う中、鶴翼の中央部は、まるであらかじめ道を開けることが決まっていたかのように、脆くも崩壊を始めた。徐栄の騎兵たちは、中央を突破したと確信し、さらにその奥へと深く突進していく。
「――今だ! 堅守の構え、左右より伏兵、一斉に放て!」
劉憲の合図とともに、前線の兵たちが打ち鳴らさせた銅鑼の、カーンという高く鋭い金属音が戦場の乾いた空気を激しく震わせた。
陣を完全に突破したと思い込み、密集してその前進速度が急激に鈍った騎馬たちの左右、まさに広げられた鶴の翼の、さらにその死角にあたる内側の茂みや窪地から、息を潜めていた劉憲の伏兵たちが一斉に姿を現し、猛烈な勢いで弓を放った。
退路を完全に断たれ、巨大な袋の鼠となった徐栄の騎馬隊は、至近距離から次々と放たれる無慈悲な弩と弓射の雨によって、その肉体を容赦なく削り取られていった。馬の悲痛ないななきと、兵たちの絶叫が荒野に響き渡る。
「……流石に引き際をよく弁えているな、徐栄。見事な決断力だ」
中央の突破口が罠であると瞬時に見抜いた徐栄は、甚大な被害を出しながらもそれ以上の交戦を避け、即座に優秀な殿軍を残して全軍の撤退を開始した。西涼の百戦錬磨の猛将を相手に、これ以上の追撃は逆にこちらが手痛い反撃を喰らう可能性がある深追いとなるが、これほどの打撃を与えたのは、千載一遇の好機に違いなかった。
「全軍、陣形を直ちに戻せ! 崩れた中央の箇所を速やかに修復し、そのまま全軍前進! 敵の足の遅い後続の歩兵部隊を徹底的に蹴散らし、この勢いのまま、梁県の城を完全に落とすぞ!」
逃げ去る徐栄の本体の背中を激しく追うように、劉憲の率いる荊州軍は、恐ろしいほどの規律を保ったまま一丸となって北上。総大将を失って完全に戦意を喪失していた敵の歩兵部隊を各個撃破しながら、逃げ込む敵と共に梁県の巨大な城門へと突入し、その重い門を力強く叩き壊した。
戦いが終わり、飛び散った敵の返り血を全身に浴びた孫堅が、使い古された槍を太い肩にどっかと担ぎながら、劉憲のいる本陣へと大股で歩み寄ってきた。衣服からは、まだ生々しい鉄錆のような匂いが漂っている。
「いやあ、劉憲、本当に大したもんだ。実に見事な盾だったぜ。お陰で、俺のこの頑強な首が、胴体から離れずに繋がったままで済んだ」
「……孫堅殿。次に私の許可なく勝手に出陣される際は、せめて私宛てに、懇切丁寧な遺書でもしっかりと書き残してからにしてください。何も知らされず残された者の身にもなっていただきたい」
劉憲は、怒りを通り越して冷たく突き放すように皮肉を言い放ちながらも、その白い手は休むことなく、すでに梁県の防衛体制の即座の補強、および無数に出た負傷者たちの治療のための薬草の配分という、次なる地味で最も重要な実務へと忙しなく動いていた。
初戦として、これ以上ない最悪の幕開けとなった冬の戦いは、劉憲の冷静で狂いのない戦術によって、天下に対して辛うじて勝利という名の確固たる既成事実に書き換えられたのであった。
史実メモ:孫堅は梁県の東で徐栄と遭遇戦を行い、敗北。祖茂に自らの赤い頭巾を被らせ、逃亡。孫堅は讒言により袁術からの兵糧を絶たれるも、のちに和解。




