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190年 反董卓連合08

魯陽の陣営を包み込む空気は、じりじりと肌を焼く初夏の猛烈な陽光によって、まるで沸騰した湯のように重く澱んでいた。

窓から差し込む光の束には、無数の塵が白く浮き上がり、外からは兵たちの荒い息遣いと、馬糞や干し草が放つ特有の強い匂いが、熱気と共に容赦なく執務室へと流れ込んできている。

前線から届いたばかりの、曹操軍大敗という最悪の報は、ただでさえ停滞する戦況に苛立っていた者たちの心を、さらに暗く沈めさせていた。


劉憲は、卓の上に広げられた戦況図を見つめたまま、静かに、そして深く目を閉じた。こめかみを指先でそっと押さえる。連日の暑さと心労のせいか、頭の奥が重く脈打っている。


「……やはり、曹操殿は負けたか。兵の質も絶対的な数も、あの董卓軍が誇る最強の精鋭、特に平原において無類の突破力を誇る西涼の騎馬隊を相手に、まともな遮蔽物のない平地で正面から挑むには、あまりにも無謀が過ぎる戦いであったな。

だが、私が真に恐れるのは、その手痛い敗戦そのものよりも、それを見て見ぬふりをして全く動こうとしない、酸棗に屯する諸侯たちの冷酷な沈黙の方だ」


劉憲の感情を排した的確な分析に対し、その傍らに立っていた孫堅が、忌々しげに鼻を鳴らした。彼が身じろぎするたびに、油の染み込んだ重厚な鉄甲の破片がカチカチと硬い音を立てて擦れ合う。孫堅は、埃っぽい床を頑丈な軍靴で乱暴に蹴りつけた。


「臆病風に吹かれた、口先ばかりの腑抜けた連中のことだ。盟主だの、名門の誉れだのと分不相応な肩書きばかりを誇らしげに並べ立てて、その中身は驚くほどに空っぽよ。

今頃は、命懸けで突撃して敗れた曹操の負け戦を、美味い酒の肴にでもして笑い飛ばしているのだろう。反吐が出るぜ!」


孫堅の言葉はひどく乱暴で、容赦のないものであったが、それだけに事の本質を痛いほどに突いていた。

劉憲は少し息を吐き、卓の上に置かれた、冷めきって苦味の増した薬茶の杯を取り上げた。指先に伝わる陶器の冷たさが、僅かに思考を落ち着かせる。


「……仮に、だがな。これが盟主たる袁紹殿の、極めて冷酷な計略であるとすればどうだ。あえて血気の多い曹操殿を都合のいい生贄として最前線へ放り込み、董卓側に、連合軍など所詮は烏合の衆に過ぎないと強烈な先入観を植え付ける。

本陣で繰り広げられている連日の酒宴も、すべては敵の油断を誘うための、大掛かりな芝居であるとしたら……。

敵が勝ち誇って戦線を広げ、こちらの陣の深くまで誘い込まれたその決定的な瞬間、左右から精鋭の伏兵で包囲し、一気に殲滅する……」


そこまで一気に口にしてから、劉憲は自嘲気味に小さく首を振った。


「いや、有り得んな。買い被りすぎた。もし本当にそのような高度な誘引策を狙うのであれば、周囲の兵力を徹底的に隠匿し、もっと徹底して自らの弱さを装うはず。

今の酸棗の連合軍は、ただ単に、己の兵が減るのを恐れて動けないだけだ。大義という名の華美な虚飾を剥ぎ取れば、その中にあるのは、浅ましい保身と、他人の失脚を願う醜い功名心だけというわけか」


「当たり前のことを言うな、劉憲。戦のいろはも知らぬ名士崩れや、口先だけの文官が集まったところで、まともな軍になどなるものか。

命のやり取りを舐めるなよ。……なぁ、そこに置物のように座っている刺史様よ。あんたもそう思うだろう」


孫堅のぎらついた猛獣のような鋭い視線が、部屋の隅でまるで借りてきた猫のように小さくなって座していた劉表を容赦なく射抜いた。

荊州刺史という尊き身分でありながら、実質的に劉憲たちの監視下に置かれている劉表は、その鋭い声に目に見えてビクリと肩を震わせた。

彼は持っていた杯の手元を狂わせ、上質な酒を衣服に僅かにこぼしながら、助けを求めるように視線を激しく泳がせた。


「……孫堅殿、それほどまでに劉表殿を脅さないであげてください。ただでさえ、この魯陽の夏の暑さにまだ身体が慣れておられないのですから。昨日も胃の腑の調子が悪いと零しておられた」


劉憲が、穏やかではあるが、決して反論を許さない断固とした口調でその間に割って入った。劉表は救われたような顔をして、慌てて衣服に染みた酒を指先で拭っている。劉憲は再び戦況図に視線を戻し、話を続けた。


「我らとて、ただ勇猛さに任せて闇雲に突っ込めば、あの惨めな曹操殿の二の舞を演じるだけだ。西涼騎兵の恐るべき突進力は、開けた場所においては文字通り無敵に近い。

連合軍の本隊がようやく重い腰を上げて前進し、敵の主力である呂布や徐栄の意識が完全に酸棗の方向へと向くか

……あるいは、これからの季節、激しい豪雨や積雪によって地形が馬の足を無慈悲に奪う泥濘へと変わるか、我々に有利な狭い隘路へと敵を誘い込める好機が来なければ、我らのような限られた少数精鋭がわざわざ無駄に動く意味はありはせん」


劉憲は、白く乾いた地図の上、洛陽へと細く続く険しく曲がりくねった進軍路を、静かに指先でなぞった。


「焦ることは何もないだろう。連合軍が動かないというのであれば、事態が動くまでじっくりと腰を据えて待つだけのこと。

……孫堅殿、貴殿のその比類なき武勇を、最も高く売りつけることができる最高の瞬間まで、その自慢の古錠刀を徹底的に研いでおいてください。劉表殿には、そのための誰もがひれ伏す大義の看板を、後ろできちんと背負っていただきますからな」


劉憲の含みを持たせた言葉に、劉表は自分の未来を予感したのか、顔色をさらに青白くしてガチガチと歯を鳴らした。

一方で孫堅は、その野獣のような鋭い牙を剥き出しにして、満足げに低く笑った。停滞し、腐敗していく連合軍の本隊を余所に、魯陽の地に潜むこの小さな軍勢は、獲物の喉笛に最も深く、最も確実に食らいつくための牙を、暗闇の中で着々と研ぎ澄ましていた。


それから数週間が経ち、執務室に差し込む夕日は、ますますその色を濃くしていた。窓から流れ込む斜光は、劉憲が卓の上に広げた無数の書簡や、古びた荊州の地図を、まるで血のように赤く染め上げている。

外からは、家路を急ぐ鳥の羽音と、執務室から聞こえてくる絶え間ない筆の擦れる音だけが響いていた。

酸棗の諸侯がいまだに現実から目を背けて豪華な酒宴に興じ、曹操が敗北の苦汁をなめながら兵を再編している中、劉憲の澄んだ瞳が見据えているのは、数カ月後に訪れるであろう冷酷な冬の戦場、そして、そのはるか数十年先にあるべき、荊州の絶対的な安寧の姿であった。


「魯陽の軍を単独で派兵するのであれば、北方の強力な騎馬がその自慢の機動力を完全に失う、凍てつく冬の時期をおいて他にない。

……だが、それまでに、この荊州という地の骨組みを、誰の手にも壊せぬほど頑強に完成させねばならんのだ」


劉憲が静かに指し示した竹簡には、既存の漢王朝の古い官制を完全に換骨奪胎した、恐るべき新たなる統治の設計図が、緻密な文字でびっしりと書き連ねられていた。


それは、荊州独自の官制改革と、実務に特化した専門官の設置案であった。

劉憲が数日も寝る間も惜しんで構想したのは、中央の腐敗した朝廷から気まぐれに派遣されてくる刺史や太守といった、個人の器量や才覚の有無に決して依存することのない、実務そのものを着実に遂行するための組織構造である。


単なる強引な徴税を行うのではなく、その土地ごとの性質や土壌の肥え具合に応じた適切な作付けの指導を行い、貴重な種籾の徹底的な管理や、開墾を進める屯田兵の効率的な配置を専門に行う農官。

南陽の豊かな鉄鉱山や、零陵の広大な鉱山資源を厳密に管理し、民への農具の速やかな普及と、軍備の質を一律に均一化することを目的とする鉄官。

そして、長江とその無数の支流、さらには南方へと続く霊渠を一本の線で繋ぐ巨大な物流網の整備を担い、各関所における通関の手続きを劇的に効率化させる水運官。


これらの専門的な官吏を配置するだけでなく、その採用方式には、長年名門の癒着の温床となっていた郷挙里選という不透明な推薦制度を完全に排し、学舎での日々の成績と、実際の実務を模した厳格な試験の点数を組み合わせた、独自の客観的な評価軸を盛り込んでいた。


「この制度さえ盤石に機能していれば、たとえ将来、上に立つ者がどれほど凡庸で愚かな男であっても、民のささやかな暮らしだけは確実に守られる。

仮に董卓のような残虐な者が再び中央に現れたとしても、地方の組織の歯車そのものが、その不当な支配を自動的に拒絶するのだ。

……これが、たとえこの先どこかの戦場で私が呆気なく斃れようとも、愛する民のために遺すことができる、私なりの最大の防壁なのだよ」


劉憲の口から漏れた言葉には、自己の権力への執着など微塵もなく、ただ一人の謙虚な行政官としての、狂気にも似た執念が満ち満ちていた。その文字が書かれた竹簡に一通り目を通した蒯良は、静かに顔を上げると、その喉の奥からふふ、と低く、感嘆の入り混じった笑い声を漏らした。


「……非常に荒削りではありますが、実に見事な出来栄えです。ならば、官吏同士が相互に監視し合い、決して不正を行えないような監査の仕組みも、私の手でいくつか追加しておきましょう。

……かつて、この果てしない荊州の大地には、中原の小賢しい理とは全く異なる、独自の豊かな文化を持った楚という強大な国がございました。

我が君が今、この手で進めようとしている緻密な法と組織の構築……そのお姿はさながら、新たなる楚王の誕生を見ているようですな」


「馬鹿なことを申すな、子柔。聞き捨てならん。私はどこまでいこうとも漢室の忠実なる臣だ。

己のくだらぬ欲得のために、王の座を名乗る気など毛頭ない。そんな大それた真似をすれば、それこそあの董卓と同類ではないか」


劉憲は顔を僅かに火照らせて慌ててその言葉を否定し、困ったように眉を八の字に寄せた。しかし蒯良は、その主君の生真面目な慌てぶりすらも、まるですべて見透かしているかのように楽しそうに眺め、意味深な笑みをその口元に浮かべたままであった。


「ええ、分かっておりますとも。我が君が本当に望んでおられるのは、豪華な王の座などではなく、ただ民たちが何に怯えることもなく、安らかに枕を高くして眠れる静かな夜なのでしょう。

……ですが、我が君が漢室のためにと信じて作り上げたこの地方の制度という名の楔こそが、いずれ貴方という存在を、ご自身が望まぬほどの遥かなる高みへと押し上げてしまうかもしれません」


蒯良は、夕日の光を浴びて長い影を引きながら、そう静かに言い残した。そして、完成したばかりの画期的な法案の竹簡をその両手で大切に抱え、襄陽の書士たちが待つ写本室へと、軽やかな足取りで向かっていった。

主君が、どこまでも漢王朝のためにと純粋に信じて作り上げたその強固な制度が、皮肉にも、漢王朝という古くひび割れた枠組みを内側から完全に作り替え、全く新しい時代の扉を抉り開けるための鋭利な刃になろうとしている。

その巨大な歴史のうねりの予感に、荊州が誇る天才策士の胸は、抑えきれない高鳴りを覚えていた。

史実メモ:卞水の戦い。曹操が徐栄に敗北する。

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