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190年 反董卓連合07

初夏の強い日差しが照りつけ始めた魯陽の陣営。吹き込む風はまだ少し冷たいが、確実に夏のむせ返るような青葉の匂いと、強い日差しに焼かれた土の匂いを孕んでいた。執務室の窓からは、眩しいほどの新緑が揺れるのが見える。


劉憲の座る卓の前には、上質な絹の衣服を纏った一人の男が、周囲の質素な設えを小馬鹿にするような傲岸な笑みを浮かべて立っていた。荊州屈指の名門、蒯家の次男であり、兄とは対照的に底知れぬ策謀に長けた男として広く知られる蒯越である。彼が僅かに身じろぎするたび、微かに高級な香の匂いが漂う。


「劉太守、初めてお目にかかります、お会いできて光栄です。わたくし、長安の朝廷より新たに荊州刺史の任を授かりました、高名なる劉表様より直々に使者の任を授かりました、蒯越と申します」


極めて流麗で丁寧な挨拶とは裏腹に、その切れ長の瞳には、目の前の若き太守を頭の先から足の先まで品定めするような、蛇のように冷徹な光が宿っている。劉憲の背後に静かに控えていた兄の蒯良が、まるでひどく苦い薬草でも噛み潰したかのように顔を顰め、吐き捨てるように小さく呟いた。


「我が君……あれは我が一族の恥、正しき王道を嗤い、ただ私欲と権謀術数による覇道だけを信奉する、救いようのない愚弟にございます。あのような輩の戯言に、わざわざその貴重なお耳を貸す必要など一切ございません」


「おお。こんな埃っぽい陣営に誰かと思えば、そこにおわすは世迷言の王道などというものをいまだに信じて疑わぬ、夢想家の愚兄ではありませんか。

あの静かな襄陽の庵から、わざわざこんな埃っぽい場所までご出張とは。まさか兄弟の再会が、このような滑稽な形になるとは思いもしませんでしたよ」


蒯越は兄の痛烈な言葉を、羽虫でも払うかのように軽く鼻で笑ってあしらうと、もったいぶった態度で本題を切り出した。


「まあ良いでしょう、無駄話はこれくらいにしておきましょう。偉大なる劉表様からのありがたいお言葉を伝えます。劉太守、貴殿はただちに現在掌握している軍権、および各郡への兵糧などの分配権をすべて速やかに劉表様に引き渡し、荊州全域の官吏の任命権もすべて引き継ぎなさい。

各地の名士への手厚い支援や、その才能の評価については、今後、州全体を預かる正統なる刺史である劉表様が直々に行います。貴殿はただ、その麾下で大人しく実務に励めばよいのです」


そのあまりに厚顔無恥な要求は、劉憲がこの数年、文字通り血の滲むような思いで泥にまみれ、一つ一つ積み上げ、築き上げてきた荊州の確固たる秩序と豊かな資源を、なんの苦労もせずにそっくり丸ごと差し出せという、野盗の強奪に等しいものであった。

しかし劉憲は眉一つ動かさず、冷めた茶を一口啜ると、蒯越のその傲慢な目を真っ向から見据え、静かな声で応じた。


「ほう。それは実によくできたお話だ。つまり、あの逆賊董卓よりありがたく任命された劉表刺史殿は、我らが血肉を削って反乱も無くこれほどまでに安定させたこの豊かな荊州を、そのまま綺麗に包んで董卓の手元へ貢ぎ物として差し出そうというのですね」


「な……何を馬鹿な!」


「成程、実に理にかなっている。洛陽の都を理不尽に焼き払い、強制的に住民を移動させたあの長安では、すでに深刻な飢餓が始まり、道端で餓死する者や、生きるために賊徒に身を落とす者が後を絶たないと、逃げてきた商人たちから聞き及んでおります。

今この絶好の時に、荊州が蓄えた豊かな食糧と莫大な富を長安の朝廷へ持ち込めば、董卓の覚えもさぞかし目出たくなり、劉表殿の刺史としての地位も、それこそ盤石の安泰というわけだ」


蒯良の、あまりにも痛烈な指摘に、蒯越は一瞬言葉に詰まり、顔を屈辱と怒りで朱に染めた。


「まさか! 八俊とまで謳われた気高き劉表様が、あの董卓のような野蛮な逆賊などに阿るわけがないでしょう!

不愉快極まりない。今日のところは、わたくしはこれで帰らせていただきます。ですが劉太守、この件の正式な返答は後日、確たる形でしっかりといただきますからね。その首を洗って待っていることです!」


けたたましい足音と共に捨て台詞を残し、蒯越はまるで不機嫌な嵐のように執務室から去っていった。その怒りに肩を震わせる背中を見送りながら、劉憲の疲れ切った瞳からは、一切の温度が完全に消え去っていた。


「……あの男が向かった方向は、南の江夏か。陳恭と連絡はつくか?すぐに数名の手垂れを連れて、あやつの後をつけさせよ」


劉憲の氷のような短い指示が飛ぶ。

劉表。皇族の古い末裔として天下に高名な八俊の一人。だが、その華麗な看板の背後に、あのように董卓のどす黒い影が少しでもちらついているというのなら、もはや礼を尽くして語り合うべき相手ではない。


「正方、少し腹が減ったな。干し肉を少し切ってくれ。それと、黄忠殿を至急呼べ。江夏の状況を根本から洗い直すぞ。……劉表が、ただの名声だけで荊州の名士たちの支持を求めているというのなら。

……我らが手塩にかけて育てているあの学舎の若者たちが、果たしてただの古い看板と、この確かな実績のどちらを真の主と仰ぐか、その身の程を痛いほど教えてやる必要があるな」


劉憲は、蔡邕から贈られ、襄陽の書士たちが命懸けで作成した貴重な写本が美しく並ぶ机を、細い指でトントンと静かに叩いた。知略と実利、そして名声という見えない武器。荊州という巨大な盤面を巡る、新たなる、そしてこれまでで最も厄介な敵との、息詰まるような暗闘が今まさに始まろうとしていた。


数日後。江夏に放った密偵からの詳細な報告をすべて聴き終えた劉憲は、窓の外に広がる初夏のむせ返るような濃い緑をじっと見つめ、喉の奥から低く、冷ややかな笑みを漏らした。


「劉表め、なるほどそう動いたか。あの黄祖を江夏太守という重要拠点に勝手に任じ、自らの息のかかった手駒だけで、強引に官吏の首をすげ替え始めたか。

いくら刺史とはいえ、朝廷の正式な追認も得ぬまま太守を私任するとは、完全に分を超えた越権行為だな。

結局のところ、あの高名な八俊様が本当に求めているのは、大義としての漢室の復興でも、この地で苦しむ民の安寧でもなく、ただ自分という存在を頂点とした、古臭い思想を受け継いだ新たな権力構造を築きたいという、ちっぽけな欲望に過ぎんというわけだ」


劉憲は静かに机に向かい、真新しい筆にたっぷりと墨を含むと、淀みない流麗な筆致で次々と書簡をしたため始めた。

その筆先が向かう先にあるのは、単なる名家としての虚像である劉表ではない。この数年間、共に泥にまみれて汗を流し、血を流してこの荊州という広大な地を守り抜いてきた、真の同胞たちへの重い問いかけであった。


「李厳。この書簡を、襄陽の名士たち、そして各県の県令らのもとへ、最も信頼できる伝令に託して届けてくれ。私のこの言葉を、一文字も違えず、その熱量のままに伝えてくれ」


劉憲が力強い筆致で書き連ねたのは、董卓という逆賊が傀儡の朝廷を通じて発行した「正統な官位」という名の、何の実体もないただの薄っぺらい紙切れへの執着などでは断じてない。

彼が心から信じ、その命を懸けているのは、この数年、自らの足で荒野を歩いて拓き、種を蒔き、古く崩れかけた霊渠を自ら鋤を振るって補修し、築き上げてきた、確かな実績そのものである。

共に飢えを凌ぎ、苦楽を共にしてきた民たちの確かな暮らし、襄陽や零陵の学舎で毎夜熱く夢を語り合う若者たちの真っ直ぐな熱量、そして、戦火の危機から必死に守り抜いた、この荊州の各地にある巨大な穀倉地帯の命の重み。


「この豊かな荊州の、真の主が誰であるか。それを最終的に決めるのは、遠く長安に居座るあの醜い董卓でも、名族という色褪せた看板を背負っただけの劉表でもない。

この土を自らの手で耕し、この地の掟を血を流して守り、共に新しい未来を築こうとしている、我ら自身だとな」


何十騎もの早馬が、次々と凄まじい土煙を上げて魯陽の門を蹴り、荊州各地の主要な拠点へと散っていく。

劉憲が放ったその分厚い書簡は、形だけの権威を強欲に求める劉表の浅はかな策動に対し、すでに地に深く根を張った巨大な共同体としての絶対的な結束を呼びかける、静かで、しかしこの上なく峻烈な宣戦布告であった。


「子柔、どうやら貴殿の弟君には、少しばかりこの世の現実というものを、骨の髄まで学んでもらう必要があるようだ。

私が歩む王道が、ただの夢想だと言うのなら。我らがこの数年で築き上げたこの地が、いかに強固で決して揺るがぬ現実であるかを、その目に焼き付けてやろう」


劉憲の切れ上がった瞳の奥底には、かつての「零陵の一太守」という小さな枠を完全に超え、これから始まる一つの時代を、自らのこの手で根底から定義せんとする、恐るべき守護者の光がギラギラと宿っていた。


それから数週が過ぎ、むっとするような初夏の湿気が陣営を覆う頃。魯陽の陣を再び訪れた蒯越は、前回よりもさらに上質な平服を纏いながらも、その奥底に鋭い眼光を隠した男と、粗野で不作法だが、獣のような力感に溢れた大柄な武人を伴って、執務室へと足を踏み入れた。

一人は、天下にその名を知られる八俊の一人であり、皇族の末裔という高貴な血筋を引く劉表。もう一人は、その新たな懐刀として江夏の地を武力で握らんとする、血の匂いを漂わせた黄祖である。


蒯越は、自身の背後に控える劉表という巨大な権威を笠に着て、まるで勝利を確信したかのように傲岸に言い放った。


「さて劉太守。先日の無礼な態度は、まあ若気の至りとして不問に付してあげましょう。

どうです、朝廷より正統なる刺史として任官された偉大なる劉表様に、貴殿がいまだ不当に保持している荊州の全指揮権、および兵糧の分配権を、素直に譲り渡す気になりましたかな?」


そのすぐ後ろで、黄祖が劉憲の細身の体を品定めするように、ニヤニヤと下卑た笑いを浮かべて太い腕を組んでいる。だが、劉憲の表情は、風一つない真冬の湖面のように、恐ろしいほど静かであった。


「左様ですね、刺史たる劉表様こそ、この混迷極まる天下において、今こそ義の旗を真っ先に体現すべき尊き存在にございます。

当地の些末な雑務や、泥臭い防備などというものは、我ら地に根を張る下々の者が、責任をもって命に代えても守り抜きますゆえ、どうかご安心ください。劉表様には、洛陽方面での大義を果たすべく、反董卓連合軍の栄えある先頭に立ち、その威光を天下に示していただきたい」


「……何だと? 貴様、耳が遠いのか! 我々は貴殿が朝廷の絶対的な命に従うか否かを、今ここで聞いているのだ!」


蒯越が顔を真っ赤にして声を荒らげるが、劉憲は氷のように淡々と、しかし相手が絶対に逃れようのない、論理の刃を突きつける。


「朝廷への叛意など、この劉憲、毛頭ございません。ですが、今は国難とも言える非常時。あの袁紹殿も正式に追認された現在のこの強固な軍権や統治体制を、今ここへ来て無闇に動かせば、先日の王叡刺史と曹寅が互いの私怨で刃を向け合った時の、あの愚か者どもの二の舞を演じることになります。

内部で致命的な混乱を招き、結果としてあの董卓につけ入る隙を与えるのは、それこそ天子様への最大の不忠ではありませんか」


劉憲は言葉を切り、卓の上の筆の並びを指先で直しながら、何事もなかったかのように静かに付け加えた。


「なお、劉表様がご心配なさっている、統制の乱れているという江夏には、監査役として我が陣営より、向朗配下の極めて優秀な文官数十名を昨日派遣いたしました。

現地の不透明な徴募と、滞っている物資の流れを完全に整え、州全体の戦力として正しく機能させるためです。これでもう、ご懸念には及びませんよ」


その言葉を聞いた瞬間、蒯越の整った顔が、まるで雷に打たれたように険しく歪んだ。江夏に大量の文官を強制的に置く。

それは、劉表が己の独自の地盤にしようと目論んでいた地域の豊かな金脈と軍脈を、劉憲が合法的に、かつ物理的に完全に封鎖したことを意味する。

劉表がこれから荊州内で独自の正統性を積み上げるための僅かな余地は、今この瞬間に音を立てて消滅しはじめていた。


さらに、劉憲は懐から、見上げるほどに分厚い一束の書簡を取り出し、卓の上に重々しい音を立てて置いた。


「そしてこちらは、此度の反董卓連合に際し、この荊州各郡の太守、県令、そして龐徳公殿をはじめとする主要な名士の方々すべてから、この私へ託された、全権を委ねるという血判の委任状の束でございます。どうぞ、お疑いなら一枚一枚ご一読ください。

……刺史としての正統なる権利云々については、あの董卓を完全に討ち果たし、天下に再び平穏が戻った後にでも、温かい茶でも飲みながら、ゆっくりと話し合おうではありませんか」


劉憲の漆黒の瞳が、剣の切先のように初めて鋭い光を放った。


「劉表様には、荊州刺史というその天下に恥じぬ尊き身分に相応しく、あの猛将・孫堅殿と共に、栄えある先陣を切って董卓軍の本隊に当たっていただく。

それが、この地を血と汗で支える数百万の者たちの、揺るぎない総意にございます」


蒯越は己の策が完全に封じられたことに憤死せんばかりに激しく全身を震わせ、一方の劉表は、突きつけられた現実のあまりの恐ろしさに顔色を土気色にしてふらつき、背後の黄祖に慌てて支えられた。


あの死神のような孫堅と共に、最前線で先陣を切る。それは、董卓に対して「自分は強制的に連れてこられた」という後からの見苦しい言い訳すら完全に封じられ、真っ向から逆賊として弓を引いた叛徒として、呂布や華雄といった一騎当千の猛将がひしめく絶対的な死地へ、退路を絶たれて踏み込むことを意味していた。


劉憲がこの傲慢な名族のために用意したのは、豪奢な刺史の席などではない。美しい花で豪華に飾られた、決して引き返すことのできない「凄惨な戦場への片道切符」であった。

史実メモ:3月に孫堅が王叡を自害に追い込んだため、朝廷は劉表を荊州刺史に任命。劉表は反乱の相次いでいた荊州を平定する。

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