189年 反董卓連合01
中平六年、五月初頭。南陽の空は、まだ初夏に入ったばかりの時期であるというのに、すでに一足早い夏のまとわりつくような熱気を重く孕んでいた。
白く霞んだ空からは容赦のない日差しが降り注ぎ、乾いた赤土の地面からは、陽炎と共にむせ返るような土の匂いが立ち上っている。
劉憲は、生涯において清廉という己の美学を頑なに貫き通し、晩冬に洛陽に召し出された後も、最後は自らの葬儀を出すための私財すら一切残さずに遠くでこの世を去った前南陽太守・羊続の、あまりにも質素な弔いの儀を終えたばかりであった。
「孝子、あまり強い日差しを浴び続けると、また南陽の頃のように酷い頭痛を起こしますよ。冷たい井戸水で絞った麻布をお持ちしました。少し、首筋を冷やしてください」
傍らに控える李厳が、粗末な麻の喪服の袖を気にしながら静かに差し出した。劉憲はそれを受け取り、じっとりと汗ばんだ首筋を拭いながら、力なく微笑んだ。
「すまないな、正方。……それにしても、羊続殿らしい、本当に何もない静かな最期だったらしい。
あの御仁は、赴任してきた時の着の身着のままの姿で、ただ私からのはなむけすら受け取らず、風のように去っていってしまった。
私が以前贈った上質な茶葉すら、ついに一口も飲まずに村の老人に分け与えていたと聞いたよ」
「ええ。ですが、南陽の民の涙だけは、洛陽のどの高官の訃報の時よりも本物でした。あの方の生き様は、この地に深く根を下ろすでしょう。太守様も、どうかあまりお気を落とされませぬよう」
かつて自分という若い人間の器を信じ、この広大な荊州の未来を共に憂いた偉大なる先達の死。その途方もない喪失感を悼む深い静寂が、香炉から立ち昇る細い煙と共に辺りを包み込んでいた。
しかし、その厳かな静寂を暴力的に引き裂いたのは、石畳を蹴り砕くような激しい馬の嘶きと、新野の屋敷の重い木の門を叩き割らんばかりに響き渡った、汗まみれの部下の凄絶な絶叫であった。
「急報! 長安より急報にございます!」
全速力で昼夜を問わず駆け抜けてきたであろうその伝令は、口の端から白い泡を飛ばす馬から転がり落ちるようにして崩れ落ち、膝をすりむきながらも、喉から血を吐き出すような声で叫んだ。
「天子、崩御! 新たなる天子は、皇子・劉辯様に決定いたしました!」
その言葉が落ちた瞬間、南陽の熱を帯びた空気が、まるで一瞬にして氷結したかのように止まった。伝令は息も絶え絶えに、しかし自らの任務を果たすべく、さらに重大な事実を絞り出す。
「……その際、弟君である劉協殿下を強引に擁立せんとした蹇碩は、宮中の争いに敗れ獄死! 大将軍・何進様の手により、これまで宮中を牛耳っていた宦官の勢力が根底から激しく揺らいでおります!」
劉憲の切れ上がった瞳が、先程までの悲哀の涙を瞬時に焼き尽くし、真冬の深い湖面のように冷たく、そして鋭く冴え渡った。
羊続の死を悼む感傷は彼の精神から完全に消え去り、その明晰な脳内には、大陸全土を黒く覆い尽くす、途方もなく巨大な政治の嵐の等圧線が、極めて立体的に描き出されていた。
「天下が、また酷く荒れるな……」
劉憲は、手にした湿った麻布をきつく握りしめながら、誰に聞かせるでもなく低く呟いた。
「天子はまだ幼く、自らの意思など持てまい。周囲の欲深い大人たちに唆されるまま、ただの飾り物となるだろう。蹇碩という最大の重臣にして君側の奸を失ったところで、残された宦官どもは己の命と浅ましい栄華を守るため、追い詰められた鼠のように徒党を組み、暴虐の限りを尽くすはずだ。そして、それに対抗しようとする外戚の何進や、名族の連中との間で、洛陽の都は遠からず凄惨な血の海に沈むだろうよ」
劉憲は静かに瞑目し、指先で木目の粗い卓をコツコツと一定の速度で叩き始めた。その乾いたリズムは、完全に混乱へと陥った中央の時勢の断片を自らの頭の中で一つずつ精緻に繋ぎ合わせ、これから打つべき最善の次の一手を冷徹に確定させてゆくための、彼特有の儀式であった。
「正方、すぐに奥の部屋にある新しい筆と上質な絹布を用意してくれ。清流派筆頭である袁紹に、至急連絡を取れ。蹇碩が失脚し、宮中の均衡が崩れた今こそ、あの忌まわしき十常侍をすべて一掃すべき絶好の好機だと、あやつの肥大した自尊心を存分に焚き付けろ。
あの名族の誇りだけは高い男なら、こちらが少し煽れば喜んで天下の義兵として動くはずだ。せいぜい、我らがこの南で盤石の態勢を整えるための巨大な盾として、洛陽で存分に暴れてもらうのだ」
劉憲は目を開くと、次々と冷酷なまでの指示を矢継ぎ早に飛ばし始めた。
「周倉はいるか。……おお、ちょうど良い。その無精髭を剃る暇はないぞ。お前は配下の兵を率いて、直ちに南陽の各地の村邑へ向かえ。
羊続殿という絶対的な主を失った今のこの南陽は、北から流れてくる飢えた賊や流民たちにとって、これ以上ないほど格好の餌場に見えるはずだ。各村の長に徹底的に警戒を促し、木の柵を高くして防備を固めさせろ。
もし流民の中で、まだ土を耕し、働く気力と体力のある者がいれば、すべて零陵と桂陽で引き受けると伝えろ。彼らをただの難民としてではなく、屯田兵として豊かな土地を与え、いずれ我が軍の強靭な骨肉と新たな糧とするのだ。道中、兵たちの水筒の残りと、馬の蹄の具合には十分に気を配れよ」
「承知いたしました。賊どもなど、一匹残らず叩き出してみせましょう」
太い声を上げて駆け出していく周倉の背中を見送りながら、劉憲はさらに、傍らで黙って指示を待つ老練な将へ向き直った。
「黄忠殿は、直ちに零陵へ戻り、城の守りを徹底的に盤石にしてくれ。中央の権力が崩壊した今、いつ、どの方向から理不尽な戦火の火の粉がこの荊州へ飛んできてもおかしくない。
……その弓の弦、少し湿気を吸って張りが緩んでいるようだな。南方の夏は武器をあっという間に腐らせる。有事の際は、迷わず私の『劉』の旗を天高く掲げて即座に出陣できるよう、兵たちの士気と共に、一本の矢の鏃に至るまで鋭く研ぎ澄ませておいてくれ」
「承知した。我が軍の弓の弦は、常に劉孝子の命を放つために張っておこう。この黄漢升、零陵を鉄壁の要塞と化してみせようぞ」
黄忠が深く一礼し、重い足音を響かせて立ち去る。矢継ぎ早に出される劉憲の指示は、まるで岩間を抜ける流水の如く、一片の淀みもなかった。
自らの足元であるこの広大な荊州を完全に固めるために、中央の血みどろの争乱を最大限に防ぎ切り、人という名の材と、行き場を無くし賊と化す兵を秩序をもって受け止める。
劉憲にとって、根元から腐り、凄まじい音を立てて崩壊を始めた漢朝廷という巨木は、もはやいつこちらに倒れてくるかを最大減の警戒をもってあたる対象に過ぎなかった。
すべての指示を寸分の狂いもなく飛ばし終えると、劉憲は脱ぎ捨てた麻服の代わりに古い官吏の服をまとい、一瞬の迷いもなく愛馬の背へとひらりと跨った。鞍の古びた革の匂いが、夏の熱気と混ざり合って鼻を突く。
「私はこれより、襄陽へ向かう」
向かう先は、この荊州において時代の智を束ね、深く司る大賢人、龐徳公の隠れ住む庵であった。
武力と経済という二つの巨大な力をこの手で完全に握った後、次に劉憲がどうしても必要とするのは、この理不尽な乱世において、新たなる強固な秩序を自らの手で定義し、民を束ねるための、絶対的な大義と、それを実行に移すための類まれなる知略であった。
南郡・襄陽の郊外、鬱蒼とした竹林の奥深くにある龐徳公の庵に、一陣の生温かい熱風がサワサワと葉を揺らして吹き込んだ。土壁で囲まれた薄暗い庵の中は、周囲の木々の湿気と、部屋の隅で古い土鍋で煮出されている薬草の強い苦みが混ざった、独特の空気が立ち込めていた。劉憲の切れ上がった瞳には、これまで見せたことのないほどの、飢えた獣のような切迫した強い光が宿っている。
「……なるほど。この荊州、そしてさらにはその南の果てである交州の全土までも、貴殿のその手で一つ残らず守り抜く、か」
龐徳公は、劉憲がさらりと、しかし揺るぎない覚悟で言ってのけたその版図のあまりの巨大さに、茶を注ごうとした手を止め、一瞬だけその深く澄んだ視線を宙に泳がせた。だが、目の前に座るこの若い青年が、これまで零陵の地でどれほどの執念を燃やし、どれほどの血と汗を流して途方もない結果を出し続けてきたかを知るこの賢人は、すぐにいつもの穏やかで底知れぬ笑みをその皺深い顔に戻した。
「ずいぶんと大きく出たな、劉憲。いやはや、わしの使い古した胃袋が驚きで縮み上がるかと思ったわ。劉憲よ、少し顔色が優れぬようだが、道中急ぎすぎたのではないか。この薬草茶は少し苦いが、夏の疲れを腹の底から散らしてくれる。遠慮せずに飲みなさい」
「お気遣い痛み入ります、龐徳公殿。ですが、私の胃はこれからの果てしない戦を思えば、この程度の苦みなど甘露のように感じますよ」
劉憲が差し出された熱い茶を一口含むと、龐徳公はまるで頭の中に大陸の巨大な地図を広げるかのように、節くれだった指をゆっくりと折りながら語り始めた。
「貴殿のその底知れぬ野心が、決して己のちっぽけな私欲のためなどではなく、この地で苦しむ数百万の民を想ってのものであるならば、我が頭脳に刻まれた限りの、真の才を持つ者たちの名を示そう。……ただし、お主という男の器に、これから名を挙げるこれら多士済々の強烈な才が、果たして零れ落ちることなく収まるかどうか、最後まで厳しく見極めさせてもらうぞ」
「望むところです。すべて、私のこの手の中に収めてご覧に入れます」
劉憲が真っ直ぐに見つめ返すと、龐徳公は満足げに一つ頷き、言葉を継いだ。
「まずは、この荊州の巨大な屋台骨となる存在だ。南陽の蔡氏。蔡瑁は今、洛陽で議郎という窮屈な職を務めておるが、あの男が持つ水軍の天賦の運用能力と、この地元・襄陽周辺での絶大な影響力は、これから天下を相手にするならば決して無視できん。
それと対照的なのが、江夏の地を支配する黄一族の黄祖だ。あやつは長江の荒ぶる賊徒を幾度も退けるだけの力強い剛毅さはあるが、性格は川底の巨大な石のように頑迷で、おまけに病的なほど猜疑心が強い。お主のその柔軟で変幻自在な知略とは、どう足掻いても水と油の相性になるだろう。あの荒馬を手懐けるには、相当に骨を折ることになるぞ」
劉憲は無言のまま、冷めた薬草茶の入った器の縁を指でなぞり、深く頷いた。黄祖は外敵を防ぐ強固な壁にはなるが、一歩間違えれば自らの喉元を切り裂きかねない、極めて御しにくい諸刃の刃というわけだ。
「そして、この南郡襄陽が誇る最高の名門、蒯家だ。弟の蒯越は今、中央の大将軍府で何進の下におるはずだが、その兄である蒯良は、今もこの襄陽の地で静かに書物を読んでおる。あやつは、お主が己の功や名声を平然と捨ててまで、黄巾や江夏の民を救おうとおのれの栄達ですら捨てた話を聞き、いたく感服していたのだ。天下の王道というものを何よりも重んじるあの賢き兄弟ならば、お主の良き盾となり、そして最も鋭い矛となるだろうよ。
それから、お主が私と水鏡に無理を言って作らせたこの地の真新しい学舎。あそこにも、陳震という、将来が末恐ろしいほどの深く叡智を見せる若者が、日夜竹簡を読み漁っておるぞ。
さらに在野の隠士ならば、権力を嫌う韓嵩。零陵の奥地で誰よりも古典を深く探求し続ける劉先。水鏡のもとで、これからの治世に不可欠な算術と法を恐るべき速度で学ぶ向朗……」
庵の静寂の中で、次々と龐徳公の口から挙げられる名。それは、まだ表舞台の光を浴びる前の、暗がりの中に眠る未研磨の巨大な原石たちの名であった。龐徳公の声は次第に若者のような熱を帯び、今度は武の才へと及んでいく。
「もし、さらなる武の助けが必要であるならば、江夏の地で荒れ狂う流民たちから身を挺して村を守り、自らの私兵を率いている李通と、その腹心である陳恭を訪ねてみるがいい。特に李通という男は見所がありそうだ。義侠心に厚く、その勇猛さは万夫不当、一度槍を握らせれば鬼神の如き働きをすると風の噂で聞いておる。
さらに南郡の霍兄弟だ。霍篤と、その弟の霍峻。弟の方はまだ子供のような年齢で、まだまだ鼻垂れ小僧のようだが、兄と共に山の中で鍛え上げている自警団の練度は、そこらの堕落した正規軍など容易く凌駕すると言われておるよ」
「……これほど。これほどの恐るべき人材が、この荊州の広大な土の下に、静かに息を潜めて眠っていたとは」
劉憲は、膝の上に置いた己の指先が、武者震いのようにかすかに、しかし確実に震えているのを自覚した。
今まで自分が、李厳や文聘、黄忠らと共に血を吐く思いで積み上げてきたものは、この巨大な天下の盤面から見れば、あくまで小さな一つの点に過ぎなかった。だが、今目の前で龐徳公が示した、これら暗闇に輝く綺羅星の如き人材たちを、もし自分の手で一本の強靭な糸として繋ぎ合わせることができたなら。
それは、もはや一郡の豊かな繁栄などという次元の話ではない。
これから大陸全土を飲み込もうとする、荒れ狂う天下の巨大な波をすべて弾き返し、新たな秩序を再編するための、巨大で絶対的な防波堤そのものとなるのだ。
「深く、深く感謝いたします、龐徳公殿。……私は、彼ら全員に会いに行きます。たとえ門前払いを食らおうとも、馬から引きずり下ろされようとも、私の思い描く理想が、彼らのその強烈な才を活かしきるに足る唯一の場所であることを、私の命に代えても証明してみせます。本日は貴重な長話、そして美味しい茶をありがとうございました。先生も、どうかお足元の冷えにはお気をつけて」
劉憲は立ち上がると、庵の土間にて深く、深く拱手して頭を下げた。
庵を出ると、先程までの息苦しい熱気は少しだけ和らぎ、夕暮れの日差しが竹林を黄金色に染め上げていた。彼がこれから目指すべき果てしない道は、南の深山から、今度は荊州のあらゆる要所を太い血脈のように繋ぐ広大な大地へと、無限の広がりを見せていた。
史実メモ:189年4月、霊帝崩御。




