↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
25/80

189年 西園八校尉02

中平六年、晩冬。灰色に澱んだ重い雲が天を覆い、骨の芯まで凍てつかせるような容赦のない北風が、零陵の乾いた赤土の街路を激しく吹き抜けていた。

夏場にはあれほど青々と茂っていた羊歯植物もすっかり枯れ果て、霊渠の水面は凍りつく寸前の黒い光を湛えて静まり返っている。その静寂を切り裂くように、泥混じりの雪を跳ね上げながら、一騎の早馬が太守の屋敷の門前へと狂ったように飛び込んできた。

馬の激しい息遣いと、ひづめが石床を叩く高い音が響く中、運ばれてきたのは、洛陽の西園軍の頂点に君臨する上軍校尉・蹇碩からの、直々の冷酷な督促状であった。


執務室の古い火鉢の横で、劉憲はその絹に書かれた書簡を読み終えると、煙の立ち上る天井を仰いで、白く濁った息と共に盛大にため息をついた。その様子を、冷えた手先を温めるための熱い生姜湯の器を差し出しながら、李厳が怪訝そうに眉をひそめて問いかけた。


「孝子、また手足が氷のように冷たくなっていますよ。南陽の冬もそれなりに厳しかったですが、この南方の冬の風というのも、湿気を含んでいるせいか妙に肌にまとわりついて冷えますね。……一体、その書状に何が書かれていたのですか」


「ああ、正方。昔の家の裏庭で、ばあ様が掘り出してくれた生姜の、土臭い香りが少し恋しいよ。その生姜湯は実によく効いたものだ。

……ため息の理由は、洛陽の蹇碩からの直々の要請だ。どうやら、前回の使者である馬阜が途中で黒山賊に襲われて財貨をすべて失ったという不始末を、こちらのせいにでもしたいらしい。今度は私自らが洛陽の都へ直接出向き、不足分の財貨を我が手で直接届けろと命じてきている」


「馬鹿な。この凍てつく冬の時期に、一郡の太守が領地を離れて遥々洛陽まで出向くなどという道理がどこにありますか。

しかも、対外的には前回の拠出で零陵の蔵は完全に空になったと言い続けているのに、これ以上の財貨の拠出など、奴らは何を考えているのです!」


李厳の憤慨は、実務を預かる者として極めてもっともなものであった。器の縁を指先でなぞりながら、劉憲はその漆黒の瞳に冷ややかな光を宿らせ、凍りついたような声で応じた。


「正方、洛陽のあの薄暗い宮殿の奥で、ぬくぬくと贅沢に浸っている奴らにとって、地方の埃にまみれた蔵の底など知ったことではないのだよ。民の皮をいくらでも毟り取れば、井戸の水のように無限に金銀が湧いてくると思っているのだろう。

……よかろう、そこまで言うのなら、望み通りにしてやる。正方、司隷の徐璆様に急ぎ密使を送り、事前の書簡を届ける用意を。それと、山の倉庫から、あの馬阜の件で戻ってきた銀のみを馬車に積めるだけ積め。我らもこれより洛陽へ向かうぞ」


「正気ですか、孝子!あの銀は、来春に街道を整備し、さらに未開の地を開墾して、来年も民の飢えを少しでも減らすために蓄えた、零陵の民の貴重な血税でしょう。それをあの貪欲な宦官にそのまま差し出すというのですか!」


「案ずるな、正方。私の目がそれほど濁って見えるか」


劉憲は静かに立ち上がり、窓から差し込む冬の鈍い光を浴びながら、凄惨なほどに鋭く、そして美しい笑みをその白い顔に浮かべた。


「あの傲慢な宦官の首領が、二度と我らのような地方の小郡に向かって『賄賂をよこせ』などと寝言を言えぬようにしてやる。

馬車に積むのは、何もあの冷たい銀の塊だけではない。奴らの肥え太った喉元に一撃で突き立てるための、見えざる鋭き刃も一緒だ」


数週間後、長旅の泥と降り積もる雪にすっかり汚れ果てた一台の馬車が、未だ白い雪が各所に残る大都市の洛陽の都へと到着した。

天子を戴く威厳ある朝廷の堅牢な門前に立ち、劉憲は出迎えた宮廷の役人たちや、周囲を行き交う多くの官吏たちへ向かって、冷たい空気を震わせるような、都中に響き渡る朗々とした大声で堂々と口上を述べた。


「零陵太守・劉憲、此度の西園軍・蹇碩殿の至急なるご要請に応じ、我が領民の誠意の結晶たる至宝の銀を、こうして遥々南方よりお持ちいたしました。

つきましては、この清き財は天子様の御軍を支えるための、極めて聖なる金にございます。途中の不届きな人手を一切介さず、私自らの手で直接天子様にお渡しし、わが零陵の領民一同の命を賭した忠義を、何卒お示ししたいと切に願っております」


洛陽の宮殿の奥、霊帝の御前。その傍らに恭しく控えていた蹇碩は、部下からこの劉憲の門前での口上を聞かされた瞬間、上質な白粉の下の顔を梅でも口に含んだかのように苦く歪めた。

本来の目論見であれば、自身の私邸の裏門からこっそりと財貨を受け取り、適当に私腹を肥やした後に、その一部だけを形ばかり国庫へ回すつもりだったのだ。だが、これほど公の場で「天子へ直接捧げる」と大声で宣言されてしまっては、一銭たりとも己の懐に入れることは不可能となる。


しかし、自らの名が「天子への忠義のきっかけ」として美談の形で出されてしまった手前、今更面会を拒絶することもできぬ。蹇碩は苛立ちで衣の袖を震わせながら、霊帝へそっと耳打ちし、拝謁の許可をどうにか取り付けた。


「……ふん、田舎の骨高い太守め。余計な真似をして、後で必ずや後悔させてくれるわ」


蹇碩は自らの壮大なる失策に未だ気づかぬまま、広間へと入ってくるであろう劉憲を、自らの張り巡らせた見えざる蜘蛛の巣の奥で待ち構えるように、忌々しげに睨みつけていた。


拝謁の広間には、冬の寒気とも違う、張り詰めた異様な静寂が満ちていた。天井の隙間から差し込む一筋の陽光が、霊帝の目の前にうず高く積み上げられた銀の箱の表面に当たり、冷たく眩しい光を乱反射させている。

それは、交州交易の血と汗で得た富の集大成であり、同時に蹇碩という巨大な権力者を奈落の底へと吊るし上げるための、最も残酷な供物であった。


「なんたる至誠、なんたる忠節か。これほどの私財を惜しげもなく投じ、朕の西園軍を支えようとするとは……。ぜひともその者に直接褒美を取らせたいが、その零陵太守はどこにおるのだ」


病弱な霊帝が、金糸で刺繍された重い衣を揺らしながら満足げに声をかけると、案内役を務める徐璆に導かれ、広間の重い扉の向こうから一人の男が姿を現した。だが、その姿が視界に入った瞬間、広間にいた天子も、居並ぶ百官も、全員の息が完全に氷結した。


劉憲の姿は、一郡の政を預かる太守とは到底思えぬほどに酷く薄汚れ、至る所が擦り切れてカビ臭い襤褸をまとい、足元は凍傷になりかけ赤く腫れ上がっていた。そして何より、その細い両手首には、重罪人や家畜同然の奴隷を示す、赤錆の浮いた冷たい鉄の鎖が、重々しい音を立てて繋がれていたのである。


「これはいったい如何なる事か。天子に仕える一郡の太守ともあろう者が、なぜそのような、目を覆いたくなるような惨めな姿で朕の前に立っておるのだ」


「陛下、どうか落ち着いてくださいませ、まずはこの者の悲痛なる訴えをお聞き届けくださいますよう」


驚愕のあまり玉座から立ち上がった霊帝に対し、事前に打ち合わせを終えていた徐璆が静かに先導を促す。

劉憲は、床の大理石に鉄の鎖が激しく擦れ合うジャラジャラという冷たい音を広間に響かせながら、ゆっくりと、そして深く、その額を床に擦り付けるように頭を垂れた。

その声は、驚くほど澄み渡り、まるで自らの感情をすべて削ぎ落としたかのように、無機質なほど淡々としていた。


「……天子様。先日、蹇碩様の尊い使者である馬阜様を通じ、我が零陵の蔵が文字通り空になり、ネズミ一匹通らぬようになるまで、ありったけの財貨を一度納めさせていただきました。

しかし、それでもなお、陛下を支える軍資金としてはまるで足りぬとのことで、此度、私の身を直接洛陽へ召喚するという、再度の厳しき御命令を賜りました」


劉憲は一度言葉を切り、恐怖で顔を小刻みに震わせ始めている蹇碩の姿を、長い前髪の隙間から冷徹に視線の端に捉えた。室内に、彼のまとう襤褸の、饐えた匂いがわずかに漂う。


「私を含め、零陵の哀れな民一同は、陛下の御世の静謐を心の底から願い、その偉大なる御心に沿うべく、自らの田畑を捨て、身を奴婢として他領の豪族へ売り払うことで、どうにかこちらの最後の銀を用意いたしました。

私がこの洛陽の地を辞し、正式に奴隷として買い手へ引き渡され次第、我が零陵の地は、春が来ても畑を耕す者すら一人も居らぬ、完全なる無人の荒野と化します。……なれど、これもすべては天子様の輝かしい治世のため。以前確かにお納めいたしました、馬阜様の確かな印が刻まれた受領目録と共に、どうかこの最後の銀を、陛下の御手でお受け取りください」


霊帝の顔から、急激に血の気が引き、土気色へと変わっていった。

一郡が無人の地と化す――それは朝廷の統治そのものが完全に破綻したことを意味する。一人の宦官の飽くなき私欲のために、これほど忠義厚い一郡がこの世から消滅しようとしているのだ。その凄惨な醜聞がひとたび天下の耳に広がれば、漢王朝の残された威信は完全に地に堕ちる。


「……蹇碩」


霊帝の、低く、底冷えのする怒りに満ちた声が、広間の高い天井に響き渡った。


「確かに、此度の劉憲を呼び出した召喚状にはお前の印があり、前回の受領目録にはお前の使者の印が厳然と押されておる。

一郡の太守に、身を奴隷に売らねばならぬほどの過酷な寄進を極限まで要求したのは、誠に、お前の仕業であるか」


「ひ、ヒィッ……! まさか、このような、このような大それた事になろうとは。陛下、お信じください。私は決して、そのような無理な寄進など、これっぽっちも要求しておりませぬ。

お、おそらくはすべて、あの卑しき使者の馬阜が、私の偉大なる名を勝手に騙り、己の私欲のために独断で行った悪事にございます」


蹇碩はあまりの恐怖に椅子から無様に転げ落ち、豪華な絨毯に額を何度も叩きつけながら、蜘蛛のようにはいつくばって見苦しく弁明した。劉憲はその様子を、ただ冷ややかに見つめていた。


「劉憲よ。其方と、そして零陵の民の類まれなる忠節、もはや疑うべくもない。……その積み上げられた銀はすべてそのまま零陵へ持ち帰り、直ちに其方の身と、愛おしい民の身代金を支払って買い戻すがよい。朕の名において、此度の零陵のすべての公的な負債を免除しよう」


「陛下、お慈悲に満ちたその寛大なる御裁定、ありがたき幸せに存じます」


劉憲は深々と礼をとり、再び手首の鎖の音を重々しく鳴らしながら、静かに拝謁の広間を辞した。


宮殿の巨大な建物の外に出て、人気のない回廊の影に入った瞬間、劉憲は手首に緩く巻き付けられていた鉄の鎖を自らの手であっさりと外し、それまでの悲壮感に満ちた表情を綺麗に消し去った。

そこには先ほどまで天子の涙を誘っていた悲劇の主人公の影などは微塵もなく、ただ冷徹にすべての計算を終えた、一人の恐るべき勝負師の顔があった。鎖の当たっていた白い手首を少し擦りながら、彼は待機していた李厳の元へと歩み寄った。


「……正方、これを。徐璆様が洛陽へ戻る道中、馬車の揺れで腰を痛めたと言っていたから、これはその見舞い品というわけではないがね」


劉憲は、襤褸の懐の奥から、二つの小さな革袋を音もなく取り出し、呆気にとられている李厳の手へと手渡した。袋の口を開けると、中には蹇碩に決して渡すことのなかった、交州の奥地で採れた最高級の、怪しい虹色の光沢を放つ大粒の真珠がびっしりと詰まっていた。


「これを清流派の筆頭である、名族の袁紹殿の屋敷へ今すぐ届けてくれ。名目は、かつての朱儁将軍の時とまったく同じだ。『宦官のあまりに度を越した専横により、忠義ある地方の太守が奴隷にまで身を落とさねばならぬ、この歪んだ世の行く末を深く憂う』とな。

……毒を制するには、より強い毒が必要だ。名族の持つ比類なき権勢の力をうまく借りて、あの蹇碩の口を中央から完全に塞いでみせる。……まったく、僅かな交易の財貨であっても、身内のために使うはずの金をこんな奴らにくれてやるのは、一銭ですら惜しいというのに」


いまだ冬の厳しい気配が色濃く残る、冷たい風の吹き抜ける洛陽の都。

襤褸を脱ぎ捨て、元の衣服に着替えた劉憲を乗せた馬車は、誰よりも早く、自分が守るべき、そしてこれから文字を教えるべき愛しき民の待つ南の零陵へと向かって、急ぎ道を折り返していった。その背後の洛陽の都では、彼がその細い指先で静かに撒いた「正義」という名の見えざる火種が、肥え太った宦官たちの牙城を、音もなく静かに焼き始めようとしていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。