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188年 霊渠と交州06

交州からの帰路を経て数月、零陵の地は、もはや単なる荊州南部の辺境の郡ではなくなっていた。霊渠を通じて流れ込む南方の莫大な富と、それにつられて集まる名士たちの知性が混ざり合い、熱く渦巻く巨大な炉の卵へと変貌しつつあった。


太守の執務室には、湖陽の古い倉庫から運び出させた質の良い墨の、どこか煤臭くも落ち着いた匂いが絶え間なく満ちている。劉憲は、長旅による肩の凝りを時折ほぐすように首を回しながら、休む間もなく机の上で筆を走らせていた。窓の外からは、秋を告げる少し乾いた風が吹き込み、山積みにされた竹簡をカラカラと小さく鳴らしている。


「孝子、その長沙への書状ですが、少し墨が濃すぎはしませんか。江東の虎は、あまりに美々しい文字を嫌うと聞きます」


傍らで冷えた麦湯の器を差し出しながら、李厳が少しからかうように声をかけた。劉憲は筆を止め、器を受け取って渇いた喉を潤すと、ふっと息を漏らした。


「正方、孫堅殿のような御仁には、むしろこの実直な墨の重さこそが誠意として伝わるのだよ。それに、この麦湯は少し煎りすぎて苦いな。南陽の夏の終わりに、皆で麦を焦がした日のことを思い出す」


劉憲は再び筆を執り、長沙の孫堅に向けて、南海の珍品がもたらすであろう莫大な軍資金の利を、数字を交えて冷徹に説いた。そして同時に、南陽の羊続には、物流の安定がもたらす確かな民生の安寧を、儒の教えを交えて優雅に説く。

しかし、そのそれぞれの行間には、自身が交阯で目にしたあの骨の浮き出た民の姿、役人に怯える小動物のような目といった地獄の窮状を、天子の徳を著しく汚す、到底看過できぬ事態として、激しい義憤の色彩を帯びさせて巧みに忍ばせておいた。

正義感と清廉の塊である二人の英雄を、共通の敵である交州刺史・朱符へと向かわせる盤面は、劉憲の指先から流れる墨汁によって、着々と、しかし確実に整えられていった。


数日後、劉憲は手土産として、霊渠を上ってきた商人から買い受けた、白く鈍い光を放つ巨大な象牙を車に載せ、襄陽の深い霧に包まれた庵へと龐徳公たちの元を訪ねていた。庵の周囲には、湿った土と古い竹林の放つ、どこか厳かな匂いが立ち込めている。


「劉憲殿、今天下は激しく乱れ、目先の力のみを求める無骨な者が巷に溢れかえっています」


囲炉裏の爆ぜる音だけが響く静かな室内で、水鏡先生こと司馬徽は、目の前に差し出された白く輝く象牙の滑らかな手触りを長い指先で確かめながら、その細い目で劉憲をじっと試すように言葉を継いだ。


「もしこの見事な宝物を市場で売れば、すぐにでも百人の兵を養うための鋭き剣と頑強な鎧が得られるでしょう。一郡の太守として、まずは目の前の武を整え、城壁を築くのが乱世の道理ではありませんか?」


室内の空気が一瞬にして張り詰める。龐徳公は、手元のお茶をゆっくりと啜りながら、二人の視線の応酬を黙って見守っていた。劉憲は、少し煤けた衣服の裾を整え、ふっと口角を滑らかに上げた。


「ふふふ、水鏡先生も私を試すとは、少々意地が悪い。その百兵を得れば、確かに目の前の賊を斬り倒し、ほんのひとときの平穏は得られましょう。

しかし、同じ財をもって千の鋤を作り、山に逃げた民に配れば、飢えた賊の半数は自ずと農民へと戻り、一年の確かな平穏が得られます」


劉憲の漆黒の視線は、目の前にある象牙の美しさではなく、その先にある、まだ見ぬ未来の豊潤な民草の姿を完全に捉えていた。


「そして、同じ財を投じて、たった一人の清廉な賢人をじっくりと育て上げることができれば、生活に困窮して賊に身を落とすという、その因果の根元そのものを断つことができるのです。私は一時の剣を贖う者よりも、百年先のために賢人を育てる者でありたい」


完全な静寂が座を支配した。風が庵の茅葺きの屋根を揺らす音だけが聞こえる。龐徳公と司馬徽は、互いに深い意味を込めて視線を交わすと、まるで長年の悪戯を成功させた子供のように、顔の皺を深くして、満足げに声を上げて笑った。


「劉憲殿、君の持つその大いなる志、しかと理解した。ならば我らも、この頭にある知が枯れ潰れるまで、君の盤面に手を貸そう。必ずやこの荊州の、いや天下の支柱たり得る本物の賢人を、我らの学舎から育て、君の元へと導いてみせよう」


龐徳公が、温かい香草茶の注がれた器を劉憲の前に押し出しながら、身を乗り出して一振りの新しい道筋を示した。


「劉太守、お主にぜひ紹介したい者がいる。今の朝廷のあまりの腐敗と折り合いがつかず、官を辞して、今は揚州のひなびた土地に隠れ住む蔡邕という高潔な隠士だ。私の名で、一度書簡を出してみるが良い」


「蔡邕殿……。あの、蔡氏の本家であり、天下に響く名うての学者であられる、あの蔡伯喈殿ですか」


「そうだ。稀代の学者であり、古い礼楽のすべてに通じたあの男なら、必ずやお主の理想とする、民が飢えぬ地への、揺るぎない礎と法を示してくれるだろう。

あやつは今頃、南の不慣れな蚊の多さに悩まされているはずだから、零陵の薬草でも添えてやれば喜ぶ」


劉憲は席を外し、衣服の擦れる音を響かせながら、深く、深々と両手を組んで拱手した。

交州から得られる富を、一時の戦力という砂上の楼閣ではなく、百年先を見据えた教育という名の確かな種に変える。その風変わりな試みは、荊州の名士たちの心を大きく動かし、歴史の影に隠れた本物の賢人をも動かし始めていた。


宿舎に戻った劉憲は、まだ見ぬ揚州の隠士へ向けて、自らの果てしない理想と、その理想を支えるための現実を綴った書簡を、指先が白くなるほど熱を込めてしたため始めた。窓の外では、荊州の夜空に冷たい星が瞬き、新たな学問の灯が今まさに灯ろうとしていた。


中平五年の冬がすぐそこまで近づき、肌を刺すような木枯らしが吹き抜ける頃、司隷の洛陽にある朱儁の豪奢な屋敷には、息が詰まるほどの緊張の糸が張り詰めていた。廊下を渡る役人たちの足音も、どこか怯えたように静まり返っている。


南陽太守・羊続、長沙太守・孫堅、そして零陵太守・劉憲。

現在の荊州の要所をがっちりと支える三人の有力な重鎮から、連名という極めて重い形式で届けられた一通の書簡の内容は、老将軍・朱儁の抱く不変の誇りを、正面から粉々に叩き割るものであった。

上質な絹に書かれたその文字には、交州刺史である息子の朱符が「黄魚一匹につき米一石」という、およそ正気とは思えぬ狂気的な税を民に課し、従わぬ者を役人の棒で無惨に打ち殺している悲惨な現状が、言い逃れのようのない克明な事実として、現地の民の嘆願書と共に並べ立てられていた。


「誰か、誰か居らぬか! 朱符のあの愚か者を、今すぐ交州から洛陽へ呼び戻せ! 此度の天下に知れ渡った大いなる不始末、わし自らの前で弁明させる!」


朱儁の、戦場で鍛え上げられた地響きのような叫びは、屋敷の太い梁を激しく震わせた。

書簡にあった「天子の徳を著しく損ない、ひいては高潔なる朱家の名誉を泥に塗る行為」という痛烈な文言は、自らの名声を何よりも重んじてきた老将軍にとって、いかなる暗殺者の刃よりも深く、その胸の奥底へと突き刺さっていた。


「我が血を分けた子といえども、我が家門の歴史を泥に塗る者は決して看過できん。すぐに早馬を出せ! この件が宮廷の天子様や宦官どもの耳に届く前に、わしの手で職を解き、叩き直してくれるわ!」


赤黒く血の上った顔で怒り狂う将軍の凄まじい姿に、周囲に控えていた近侍たちは生きた心地もせず、互いの肩をぶつけ合いながら転がるようにして部屋を飛び出していった。


だが、荒い息を吐きながら、冷え切った机の上にぽつんと残された、もう一通の小さな書簡に朱儁は気づいた。

そこには、先程の連名とは異なり、劉憲一人の私印のみが静かに押され、上質な鹿皮で作られた小さな袋がそっと添えられていた。朱儁が訝しげにその書簡を開くと、そこには驚くほど謙虚な文字が並んでいた。


『かつて宛城の戦いにて、未熟な私が将軍より受けた、海よりも深い大恩、一日たりとも忘れたことはございません。

山賊が激しく跋扈する南方の険しき道を、我が部下たちが決死の覚悟で駆け抜け、ようやく手に入れることができた南海の宝物を、こうして内々に送らせていただきます。

微力ながら、天下の安寧を保つため、将軍が率いられる清流派の正義ある軍備の一助として、どうかお使いください』


朱儁が震える指先で袋の紐を解くと、冬の薄暗い室内に、息を呑むほど深みのある極上の輝きを放つ南海の真珠と、見たこともないほどに美しい、極彩色の光沢を持つ宝貝がいくつも転がり出た。それらからは、ほんのりと遠い南の海の、潮の匂いが漂ってくるようであった。


「……劉憲、あの時の若者が」


つい数秒前まで怒髪天を突いていた将軍の老いた顔から、みるみるうちに険しさが消えていった。

朱儁の脳裏に鮮烈に浮かび上がったのは、あの黄巾の激しい戦火の中、血臭の漂う本陣で、古参に睨まれながらも誰よりも冷静に敵を崩す策を献じていたあの物静かな若者の姿。

そして、己の恩賞や栄達よりも、真っ先に「目の前の民の安寧」を涙ながらに願い出ていた、あの澄んだ奇妙な瞳であった。


「あ奴は、これほどの極上の品を揃えるために、険しい南の地でどれほどの苦労を重ねたことか……。そして、わしの不肖の息子の過ちを、我が家の名誉を案じて、わざわざ朝廷の雀どもの前で公になる前にこうして内々に報せてくれたのだな」


朱儁は真珠の冷たい、しかしどこか確かな感触を老いた掌で包み込むように確かめ、深く、深い溜息をついた。

息子の朱符への怒りは当然消えない。だが、劉憲からのこの心のこもった贈り物と配慮は、老将軍の心に、ある一つの揺るぎない確信を植え付けた。

自分を真に慕い、国の行く末を本気で憂う若き忠臣たちが、あの遙か南の地で泥を這いながら働いている。ならば、家門の汚れを自らの手で速やかに浄化し、彼らのような若者が少しでも働きやすい環境を中央から整えてやることこそが、老い先短い自分に残された最後の使命ではないか、と。


「劉憲よ。恩を着せられているのは、いつもわしの方であったな……。あの時、黄巾残党の助命を聞いてやっただけのことを、まだ覚えているとは」


独りごちる朱儁の目は、かつての戦友を優しく想うように細められた。

交州に深く巣食っていた朱符という名の巨大な毒が、劉憲の自身の手を一切汚すことなく、その本家本元の親の手によって、歴史の盤面から綺麗に取り除かれようとしていた。


その頃、零陵に新しく建てられたばかりの、まだ真新しい木材の香りが清々しく漂う学舎の片隅で、劉憲は手に入れたばかりの、揚州の蔡邕からの美しい文字で書かれた返書を静かに読み終え、隣に立つ李厳に向かって、悪戯が成功したかのように静かに微笑んでいた。


「正方、朱儁将軍は、きっと今ごろ洛陽の寒い屋敷で、私が送った真珠の美しさと潮の匂いに感心しておられる頃合いだ。これで、南を塞いでいたあの不快な蓋は完全に外れたよ」


劉憲は書簡を丁寧に折り畳み、引き出しへと収めると、まだ文字の読み書きもおぼつかない山の若者たちが、庭で大声を上げながら竹簡を抱えて走っていく姿を窓から目を細めて眺めた。


「さあ、時は金なりだ。次は我らがこの零陵の地でじっくりと育てている、あの青臭くも逞しい若者たちを、交州の肥沃な土へと一本ずつ植え付ける準備を始めようか。冬が終わる前には、彼らを南へ送るぞ」

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