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188年 霊渠と交州05

交阯のねっとりとした湿り気を帯びた熱風が、目の詰まった格子の隙間から音もなく滑り込み、館の広間に古い沈香の残香と共に重く澱んでいた。卓の上に置かれた青磁の杯の表面には、にじみ出た細かな水滴が陽光を浴びて鈍くきらめいている。


「何、それほど大層なことではありませぬ、威彦殿。簡単なことにございますよ。朱符様の父上である朱儁将軍は、身内の不正であれ何であれ、不義不正を何よりも嫌う極めて高潔なお方。

私もかつて黄巾の乱の折、運良くあの実直な将軍の知己を得られましてな。あの時、将軍が本陣で好んで飲まれていた酷く酸っぱい薬草を漬けた酒の味が、今でも私の舌に残っているほどです」


劉憲は、どこか遠い目をして懐かしむように呟き、それから手元にある南国の珍奇な果実の皮を、爪先で静かに剥き始めた。柑橘に似た鋭い酸味の匂いが、室内の澱んだ空気をわずかに切り裂く。


「その時に朱儁将軍の右腕として参戦していた孫堅殿は、現在、司隷の朝廷へと南海の様々な珍品を運ぶ重要な中継経路にあたる、長沙郡の太守になられている。

そしてその北、南陽郡の太守を務められるのは、あの清廉の誉れ高い羊続殿だ。もしくは徐璆様もお声をおかけすれば、喜んでご協力頂けるかと存じます。

各々が商人や流民に扮した確かな部下をこの交州の地に潜り込ませ、朱符様のあまりに度を越した苛政の現場をつぶさに確認し、これが天子の徳を著しく損なう行為であると朱儁将軍に連名で上奏すれば、いかに愛息が可愛かろうとも、あの実直な将軍は必ずや自ら厳しい処罰や罷免を行うでしょう」


士燮の脳裏では、劉憲が果実の薄皮を剥くように淡々と並べ立てた名――朱儁、孫堅、羊続、徐璆という、現代の大陸を揺るがすきっての巨星たちが、まるで深い霧の立ち込める森の中で獲物の一頭をじわじわと取り囲む、老練な猟師たちのように冷徹に配置されていた。その盤面の完璧さに、士燮の背筋を冷たい汗が伝い落ちる。


劉憲は、まるで冷めた湯でも啜るかのような酷い気安さで、一州を統べる最高権力者たる刺史の罷免を口にしていた。

士燮がその皺が刻まれた顔に隠しきれない焦りの色を浮かべたのは、決して暴君である朱符への忠誠心からではなかった。

彼が心の底から最も恐れたのは、中央の複雑な権力構造を手のひらのように熟知したこの恐るべき若き太守が、交州という、これまで自分たち士一族が何代にもわたって血と汗を流して守り育ててきた絶対的な庭の中に、孫堅や羊続といった、外部の強力すぎる正義の力を引き入れようとしているその点にあった。一度その巨虎たちを招き入れれば、交州の主導権は完全に彼らに握られてしまう。


「しかし、劉憲殿……! それはあまりに性急というもの。この交州は他領のことにございます。それに朱符様は、天子様が正式に定められた大義ある刺史。一郡の太守の分際でおいそれと排するような真似をすれば、それこそ天下の秩序を大いに乱すことになりかねませぬ!」


士燮の、衣擦れの音を伴った必死の弁明を、劉憲は唇の両端をさらに深く吊り上げる笑みだけで軽くいなした。その底の知れない漆黒の瞳は、士燮という聖人の仮面を被った男がその胸の奥底に静かに抱える、どす黒い野心の淀みを、極めて鋭く、そして正確に射抜いていた。


「天子は世が乱れることを決して望まれません。不当な法で民を虐げる不正があれば、必ずやその歪みは正されるでしょう。

……ああ、どうかご心配なく。私は今、零陵の山深くに入って現地の山の民と深い交流を持ち、あの鹿門山の龐徳公先生のような偉大な名士を財政的に支援して、近いうちに世のための清廉な官吏となる人材を育てるための私塾を開く準備を進めております。

その中には、かつて漢族の傲慢な役人たちから蔑まれ、零陵蛮や武陵蛮などと呼ばれて家を追われた若者たちも、何人も含まれておりますよ」


劉憲は椅子からわずかに身を乗り出し、息がかかるほどの距離で、士燮の耳元へ囁くように言葉を続けた。


「彼らは同じ山の民として、この交州に深く根を張る烏滸族の言葉や古い伝統にも、実によく通じています。朱符様が朝廷の命によってこの地を去った後、彼らはこの交州を隅々まで平穏に治める、非の打ち所のない良き官吏となってくれるでしょう。……威彦殿、そうは思いませんか?」


士燮の顔から、一気に血の気が引いていくのが分かった。

それは、朱符の暴政に喘ぐ自分たちに対する親切な助け舟などでは断じてない。朱符という、腐りきって悪臭を放つ蓋を朝廷の権力を使って綺麗に取り除いた後、そのぽっかりと空いた巨大な権力の隙間に、自分自身の完全な影響下にある蛮族出身の急造官吏たちを大量に流し込み、交州の行政を根底から自らの色に塗り替えようという、物音ひとつ立てない静かなる侵略の宣告に他ならなかった。


だが、実際のところは、劉憲が交易所や山林の集落で官吏候補として囲っている人材など、現時点では漢族の文字の読み書きの基礎すら怪しい、ただ足腰が強いだけの荒くれ者の若者たちに過ぎなかった。だが、劉憲はあたかも、今すぐにでも実務に投入できる完成された優秀な官吏団が、零陵の霧深い山奥にいつでも動かせる駒として控えているかのように、さも当然の如く語ってみせたのだ。交州の豊かな富を後々の財源にすることを見越し、現時点では中身の伴わない実務だけをこれから叩き込もうという、極めて大胆なハッタリの布石であった。


あまりの衝撃に、全身が凍りついたように動けなくなっている士燮を余所に、劉憲は、これから良い取引ができそうですな、と大変満足げな声を残してその場から軽やかに立ち上がった。


「士燮殿。貴殿のような深く徳ある方が、我らの送るこの新しい風を、民のために快く歓迎してくださると信じておりますよ。長旅の疲れが、この南国の果実の酸味で少し和らいだようです。ごちそうさまでした」


最後に交わされた、儀礼的な握手。その際、士燮が肌で感じた劉憲の手の温度は、周囲を包み込む南国のむっとするような熱気とは対照的に、凍えるように冷ややかで、まるですべての感情を削ぎ落とした鉄の塊のようであった。


劉憲は館を出ると、新緑の向こうに広がる交州の南の空を一度だけ振り返り、薄く自嘲の笑みを浮かべた。悠々と龍編県を去る劉憲の少し猫背気味の背中を、李厳は、馬の歩調を合わせながら何とも複雑な表情で見つめていた。


「孝子、今の館での話……本当のことなのですか? 失礼ながら、あの文字すらまともに知らぬ山岳民の若者たちに、一州の政を司る官吏の真似事など、おいそれとできるわけがないでしょう。いくら君の教え方が優れていようとも、流石に無理があります」


「今から死に物狂いで教えるのだよ、正方。交州との交易からこれから流れてくる莫大な富をそのまま使えば、文字と算術、そして税の計算や官吏としての最低限の実務だけを彼らに叩き込むのは、そう造作もないことだ。

何も最初から太守や県令にするわけではない。漢人以外を高位に置くなど中央も許さんだろう。まずは経験のある漢人官吏を主にして、その副官や属吏、あるいは案吏という形で山の境界の役所に押し込み、時間をかけて徐々に実権を握らせていけば良い」


彼らを乗せ、かつて秦の兵が通った霊渠をゆっくりと北上する底の浅い筏の上、水面から立ち上る川霧の湿り気を帯びた冷たい風が、劉憲の薄い麻衣の裾を激しく揺らしていた。木製の櫂が水をかく、規則正しいザザザという音が周囲の静寂に響き渡る。


「朱符は自らの強欲ゆえに勝手に自滅する。そこまでは君の言う通りだ。だが、問題はその後の盤面だ。士燮という、あの静かに時を待つ古狐の一族に、この交州の莫大な利をすべて独占させておくほど、私はお人好しではないのでね」


傍らで、ずっと膝の上に置いた拳を握りしめ、深刻な思案に暮れていた李厳が、堰を切ったように劉憲へと問いかけた。


「孝子……しかし、士燮殿はあの清廉で知られた賈琮様の信任も大変厚く、現に館では烏滸の若者にも漢人の上質な教育を施していました。

私には、この交州の地の安寧を心から願う、誠に清廉な御仁に見えたのだが、君の目には、あの男が違うように映ったというのですか?」


「まさか、正方。あの男の言う清廉や慈悲というものはな、すべて自分の頭の中で計算された、絶妙な配分の上に成り立っているのだよ」


劉憲は、手垢で黒ずんだ船縁に細い手をかけ、冷たい水が絶え間なく流れていく川面を、ただ冷ややかに見つめた。川底からは、古い藻の青臭い匂いが風に乗って漂ってくる。


「朱符というあの救いようのない猛毒をそのまま放置すれば、いずれ交州の民、すなわち漢族の役人から日々蛮族と蔑まれてきた烏滸族や俚族の不満は完全に爆発し、やがて全土を巻き込む大規模な反乱となる。

その時、士燮はどう動くと思う? 彼は決して自ら討伐軍を出すでもなく、朱符を助けるでもなく、ただ自分の堅牢な城に閉じこもって、嵐が過ぎ去るのを静かに待つのだ。

そして、朱符が民の怒りによって惨殺されるか、あるいは朝廷に見捨てられて失脚した後、満を持して民の前に現れ、反乱した者たちを自らの徳をもって優しく赦す。そうして治安維持を名目に、自分の一族の人間を各地の要職へ一斉に送り込むのだ。

……そうすれば、士一族は一滴の血も流さず、この交州を大混乱から救った比類なき英雄になれる」


「……つまり君は、彼は民が今現に苦しみ、血を流しているその惨状を、将来自分が英雄として舞台に立つための、格好の舞台装置としてただ静観していると言うのですか?」


「その通りだ。だからこそあの古狐は、私が早々に洛陽の力を動かして、この事態を平和裏に解決されては困るのだよ。

己がのし上がるために、あえて最悪の状況を飼い慣らす……手法の差こそあれ、本質的には私と同類だよ、あの男は。だからこそ、あの男の指先のわずかな動き一つ、視線の配り方一つで、彼が次に打とうとする手が、嫌というほど正確に読めてしまう」


劉憲は、川面に映る自分の薄暗い影を見つめながら、自嘲気味に、どこか仄暗い笑みをその白い顔に浮かべた。


「あの男は決して絶対的な悪ではない。結果として、この交州にそれなりの秩序と平和をもたらすだろう。

だが、自分の大いなる野心のために、今現に民が流している血を勘定に入れている。私は、そのようなやり方を最善とは呼びたくない、ただそれだけのことさ」


その劉憲の暗い独白を、すぐ隣で太い腕を動かし、豪快に櫂を操っていた零陵の戦士が、カカカと喉を鳴らして笑い飛ばした。戦士の日に焼けた分厚い胸板からは、激しい労働による男臭い汗の匂いが放たれている。


「同類、同類って、それは絶対に違うな、太守様! あの士燮って殿様は、これほど長くここにいながら、いまだに我ら山の人間を心のどこかで見下しているのが一目で分かる。

烏滸の若者に漢の立派な服を着せ、漢の小難しい知恵を教えて体裁は整えはするが、我らが命をかけて守ってきた古い伝統や、山の掟を自ら学ぼうとは決してせん。

だが、あんたは違う。あんたみたいに、我らが集落で差し出した、あの飛び上がるほど苦い薬茶の器を、顔一つ変えずに一気に飲み干すような真似は、あの気取った男には逆立ちしたってできんさ」


劉憲は不意を突かれたように大きく目を見開き、やがて、川霧の冷たさに肩をすくめるようにして、降参したと言わんばかりに苦笑してかぶりを振った。


「やれやれ、手厳しいな。さて、大口を叩いた手前、これから嫌になるほど忙しくなるぞ。零陵と武陵のすべての山岳民の中から、少しでも骨のある利発な若者を探し出し、龐徳公先生や地元の名士たちに莫大な出資をして、実務を教える急造の学府を立ち上げねばならん。

近いうちに、漢族の老練な官吏の副官として、彼ら山岳民を次々と送り込むぞ。それに、新野の古い屋敷で囲っている、あの欲深き腐敗太守どもにも、さらに美味い餌を食わせて首輪をきつく締め直す必要もあるな」


劉憲は、これから自分の前に山積みとなるであろう、気の遠くなるような課題の重さに本当に眩暈を感じたかのように、額から目元にかけてを、細い片手で深く覆い隠した。


「長沙の孫堅殿や南陽の羊続殿にも、今後の交易の莫大な利という、抗えぬほどの甘い汁を十分に回して、あの重い腰をこちらの都合の良いように上げてもらわねばならん。……本当に、やるべきことが多すぎる」


指の隙間から漏れ出てくる劉憲の声には、確かな疲れの色が滲んでいた。しかし、その細い指の暗い隙間から覗く彼の瞳の奥には、この混沌とした理不尽な時代を、己の知恵だけで無理やりねじ伏せようとする、凄まじいまでの漆黒の熱量が静かに宿っていた。李厳は、口では弱音を吐きながらも、その歩みを決して止めようとはしない奇妙な友の横顔を、ただ黙って、どこか心配そうに見守るしかなかった。


一行を乗せた小さな竹の筏は、冷たい川水を弾きながら、確かな足がかりを持つ零陵を目指してひたすらに北へと進んでいく。交州の肥沃な赤土に撒かれた朱符という名の毒が、これからどのような狂い咲きの花を咲かせるのか。劉憲の冷酷な計算は、すでに霧の向こうの、数手先の世界を見据えていた。

史実メモ:196年、朱符が苛政のため反乱により現地民より殺害され、士燮は一族を交州各地の要職につけることでこれを鎮めた。

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