188年 霊渠と交州02
零陵郡の郡治所、泉陵県。
長旅の末にたどり着いたその地は、見渡す限りの緑深い山々に囲まれ、南方の濃密な湿気を含んだ風が、容赦なく肌にまとわりつく土地であった。
着任早々、街道の泥と旅の埃も落とさぬうちに、劉憲が真っ先に向かったのは、かつてこの地を巡業した折に知己を得た、零陵きっての有力豪族・周朝の広大な屋敷であった。
屋敷の太い柱からは、南国特有の湿った杉の木の匂いが漂っている。
「これは劉太守、まさか貴殿がこの零陵の新たな主として、これほど早く戻ってこられようとは。荊州南部での『見事な』賊軍鎮圧劇、いやはや、実に惚れ惚れいたしましたぞ」
周朝は、驚きと、どこか値踏みするような期待の入り混じった複雑な表情で劉憲を迎え入れた。かつてこの地で不正官吏の権力構造を内側から鮮やかに崩壊させた男が太守として赴任してきたのだ、地元に根を張る豪族が歓迎せぬはずはなかった。しかし、席に着くや否や、劉憲が切り出した用向きは、周朝のあらゆる予想を遥かに上回る、壮大なものであった。
「周朝殿、旧交を温める挨拶もそこそこになるが、さっそく本題に入らせていただく。私はこれから、あの始皇帝が遺した霊渠を本格的に稼働し、改修して活用することで、海の向こうの交州との大規模な交易網を確立したいと考えている。
そのためにはな、山岳部の絶対的な安全確保と、あの険しい山々に眠る手付かずの富……すなわち、質の良い鉄や銅の採掘をすることが不可欠だ。ついては、この奥山を支配する零陵蛮の長たちと、容易には切れぬ固い繋がりを持ちたい。仲介を頼めないか」
その言葉を聞いた瞬間、周朝の穏やかだった目が、にわかに険しく細まった。地元の豪族として、山に住む独自の民と言葉にできぬ危うい均衡を何代にもわたって守ってきた自負があるからこそ、官の軽率な介入には敏感にならざるを得ない。
「……太守殿、彼らは本来、朝廷の都合の良い法などには一切縛られぬ、まつろわぬ民です。もし、洛陽へ収めるための余計な税を絞り出すために、彼らの縄張りを荒らし、過度に搾り取るような真真似をされるおつもりなら、私はこれ以上の協力をばできませぬぞ。山を怒らせれば、この泉陵とてただでは済みますまい」
「私がそのような、目先の利益に目が眩んだ凡百の愚行をすると思うか?」
劉憲は、まるで子供の他愛のない戯言をたしなめるかのように、少しの淀みもない屈託のない笑みを浮かべた。
「彼らを武力で無理に服従させるつもりなど毛頭ない。我らと彼らの領地との境界を明確に定め、互いに対等な立場で、どこまでも公正に取引をしたいのだ。
彼らが山から切り出す豊かな恵みと、我らが平地から持ち込む貴重な塩や上質な布をな。互いに足りぬものを補い合えば、戦う理由などどこにもなくなる」
周朝の肩から、張り詰めていた警戒の圧力がふっと抜けていった。この目の前の若い太守が、ただの収奪を目的として地方を太らせる凡百の官吏ではないことは、これまでの南陽や湖陽での治政が何よりも証明している。
「……なるほど。ならば、陽朔山に住む覃尞という男を紹介しましょう。この零陵の山々では最大級の部族を率いる、誇り高い長です。……して、太守殿。彼らと直接会って、一体どうするおつもりだ?」
周朝の重ねての問いに、劉憲は何事もなかったかのように、まるで春風のように朗らかに微笑んで答えた。
「まあ、悪いようにはしないから私に任せておけ。私はただ、彼らにも『飢えぬ平和な暮らし』と、ほんの『少しの贅沢』というものの味を、教えに行くだけだよ」
その穏やかな漆黒の瞳の奥には、山岳の民をただの蛮族として排除するのではなく、自らの巨大な交易網における強力な「物流の守護者」へと変貌させ、この零陵を外敵の寄せ付けぬ鉄壁の要塞へと変えてゆく、緻密極まる計算が静かに、しかし熱く燃え盛っていた。
陽朔山の奥深く。峻険な岩肌の合間を縫うように、湘水の清冽なせせらぎが激しく響く山間の盆地に築かれた、広大な蛮族の集落。
そこは、漢王朝の形式張った法や命令など一切届かぬ、自然の理と力だけが支配する、切り離された世界であった。
周囲には、青々とした木と藁を器用に編み込んで作られた、特有の高床式の住居がいくつも立ち並んでいる。その集落の最奥、とりわけ巨大な家屋の奥に鎮座する覃尞は、全身から剥き出しの圧倒的な生命力を放つような、日に焼けた筋肉質の偉丈夫であった。
彼は、山を熟知した獣のようなの鋭い眼光で、自らの領域へと足を踏み入れてきた奇妙な三人の一行をじっと射抜いた。
「久しいな周朝。我が縄張りに、随分と見慣れぬ風体の者を連れているようだが?」
覃尞の地鳴りのような低く響く声に対し、劉憲は泰然とした態度を崩さぬまま、静かに一礼した。
「私は此度、朝廷より零陵太守の任を賜った劉憲、字を孝子と申す者。覃尞殿や、貴殿の周囲の部族の方々とは、互いの利益のために公正な取引を行いたく、こうして足を運んだ次第だ」
太守。その大仰な官名の重みと、目の前に立つ男の、護衛も連れぬあまりに軽装な姿が、覃尞にはどうにも不釣り合いに感じられた。背後に控える若き将である文聘が、激しい戦乱を潜り抜けたような、ただ者ではない鋭い気配を全身から発していることには流石に気づいたが、それでもたった一人である。そのあまりの無防備さに、覃尞の厳つい頭上には盛大な疑問符が浮かんでいた。
「おい周朝、一体どういうことだ。他の漢の兵どもはどこへ隠した? 我らがお前たちの言う『太守』とやらをここで不意に害したら、どうするつもりなのだ……」
「……太守殿がな、部族の神聖な土地に無駄な兵を踏み込ませれば、余計な軋轢を生じるだけだからと、すべての護衛を麓の街道に置いてこられたのだ。私にも止められんかった……」
周朝が、こめかみを指で押さえ、酷い頭痛を堪えるような声で低く答える。
覃尞がその大胆さに驚き、困惑するのを余所に、劉憲は静かに、しかし決定的な調子で告げた。
「覃尞殿が私を害す、その心配はしていません。第一に、もし私をここで殺せば、仲介してくれた周朝殿の顔に泥を塗ることになり、この地の豪族との繋がりが絶たれる。
第二に、太守を殺されれば、麓の我が軍が容赦なくこの山を囲んで討伐に来る。
そして第三に、そのような理不尽な暴挙を働く『人面獣心』な者と、今後まともな取引を望む商人や官吏は、天下に二度と現れないでしょう。貴殿がそれほど愚かな長だとは、私には到底思えんのです」
「……」
覃尞はしばし、太い眉を寄せて瞑目した。周囲には、山を揺らす激しい風の音と、湘水の水音だけが不気味に聞こえる沈黙が流れる。やがて、彼は部屋の隅から、古びた土焼きの一組の壺と、粗末な盃を持ってこさせた。
盃に注がれたのは、何やら緑がかった、どろりとした未知の液体であった。見るからに毒々しく、あるいは山岳の怪しげな呪術を思わせる代物である。覃尞はまず、自らその液体を並々と注いだ盃を豪快に飲み干してみせると、もう一つの盃に再びそれを満たし、劉憲の前へと差し出した。
「太守殿。貴殿の言葉を信じる前に、まずは、これを飲んでいただこう」
劉憲は一切の迷いを見せることなく、その不気味な盃を滑らかな手つきで受け取ると、一気に喉の奥へと流し込んだ。
瞬間、舌の根を烈しく刺すような強烈な苦みと、野生の薬草特有の、鼻を突き抜けるような独特な青臭さが脳を揺さぶった。
劉憲は一瞬だけ、身体の反射としてわずかに眉を顰めたが、すぐにそれを喉の奥へと完全に飲み込み、表情を微塵も崩さぬまま、静かに盃を床に置いた。
その劉憲の一連の挙動を、瞬きもせずに凝視していた覃尞が、ふっとその強固な身体の力を抜いた。
「……太守殿、誠に失礼致した。少しばかり、貴殿の肝を試させて頂いた」
覃尞の険しかった顔には、先ほどまでの刺すような警戒に代わり、隠しきれない深い敬意の色が浮かんでいた。
「これまでここへやってきた漢の官吏や商人の見栄っ張りどもは、この我が部族の秘伝たる薬茶を『蛮族の汚らわしい飲み物』だと蔑んで決して手をつけず、無理に飲ませたとしても、すぐに地面に吐き出して毒を盛ったかと激しく罵ったものだ。
……だが、自らの舌で、我らの文化を何の偏見もなく丸ごと受け入れられる貴殿のような漢人は初めてだ。信ずるに値する男だ」
「それがこの地のしきたりであるのならば。よい薬茶をいただいた」
劉憲は何事もなかったかのように、唇の端を上げて薄く笑ってみせた。
それが毒か薬か。その境界を理屈で見極めるよりも先に、相手が差し出してきた剥き出しの「誠意」を、そのまま自らの身体へと丸ごと呑み込む。
「いや、この薬茶は本来、調子の優れぬ者に呪い師の婆様が、無理矢理飲ませるような物なのだが……」
かつて南陽の深い泥の中で、貧しい農民たちと共に汗を流して米を育て、黄巾の過酷な降兵らと平然と車座になって語り合った劉憲の、底知れぬ処世術と胆力が、この零陵の深山幽谷の地においても、頑なに行き先を閉ざしていた蛮族の長の心を、わずかに、しかし決定的に解きほぐした瞬間であった。




