188年 霊渠と交州01
中平五年、春。
厳しい冬の寒さがようやく去り、湖陽の湿原に柔らかな陽光が降り注ぐ頃、洛陽からの勅使を乗せた豪奢な馬車が、この鄙びた地に舞い降りた。告げられたのは、劉憲を「零陵太守」に任ずるという、朝廷からの正式な叙任の命であった。
これまでの趙慈の乱の鎮圧、長沙の速やかな平定といった、劉憲が挙げてきた数々の多大なる軍功を鑑みれば、本来ならば南郡や江夏といった、荊州の中央に位置する物流の心臓部たる豊かな郡が与えられて然るべきであった。事実、南陽太守の羊続は、自らの立場を賭してでも劉憲を江夏太守に据えるべきだと朝廷に強く推挙の書簡を送っていたのだ。
だが、その羊続の正当な推挙を完全に無視することもできなかった荊州刺史・王叡が、裏で「劉憲は辺境の不穏な蛮族を鎮撫する卓越した才能を持っている」と激しく主張し、自らの脅威となり得る劉憲の存在を、意図的に南陽郡から最も遠い南の僻地・零陵へと追い遣ったのである。
「あの俗物め。此度の大功の主である孝子を、自らの目の届かぬ南の果ての僻地へ、合法的に放逐するつもりか!」
役所の前庭で、文聘は朝廷から贈られたばかりの、細い紐のついた金色の太守の印綬を烈しく睨みつけ、その若き胸の内の苛立ちを隠そうともしなかった。手にした長槍の石突が、地面の土を怒りと共に深く抉っている。
だが、当の劉憲は、衣服についた春の埃を軽く払いながら、まるでこれからの長い旅路を楽しむかのように、どこまでも穏やかで美しい笑みをその顔に浮かべていた。
「いいではないか、零陵。そう怒るな、仲業。私はもとより、さらに南の交州との大規模な交易を目論んでいたのだ。
あの王叡という小人物がどこまで大局を理解しているかは知らぬがな、零陵には、かつてあの秦の始皇帝が大陸を繋ぐために莫大な血と金を投じて築かせた巨大な運河、霊渠がある」
「しかしだ。いくら霊渠が交州へと繋がっているとはいえ、あそこは山深く、朝廷の命に服さぬ狂暴な蛮族も数多く跋扈している土地。
実り豊かで勝手知ったるこの南陽の地に比べれば、あまりに不遇、理不尽な左遷ではないか!」
なおも食い下がり、我が友の不当な扱いに拳を握りしめる文聘に対し、劉憲はふっとその声を落とし、まるでお互いの吐息が触れ合うほどの近さで、静かに囁いた。
「仲業、我らはこれまで、この荊州の中で一体何をしてきたと思う。南陽、江夏、長沙、桂陽、そしてこの零陵……。
私がひとたび声を上げれば、王叡の命令などではなく、各地の豪族や民たちが一体どう動くか、お前なら分かるはずだ。
もしな、天下が今以上に破滅的に乱れ、本格的な騒乱の時代が到来した時、我らが漢室の正統なる復興を大義に掲げてこの南から立ち上がれば、どれほどの数の人間が、我らの背後に喜んで続くと思う?」
劉憲はゆっくりと顔を上げ、青くどこまでも澄み渡る、南の空の彼方をその指先で静かに指し示した。
「かつて天下を統一した秦の始皇帝すらな、最初から中央にいたわけではない。巴蜀という、誰もが見捨てるような遥か西の辺境を絶対的な起点とし、その地底に眠る大量の鉄と、豊かな食糧をひたすらに蓄えたからこそ、一気に打って出て天下を一つに呑み込めたのだ。
零陵の荒々しい山々には、未だ手付かずの良質な鉄や銅が大量に眠っている。そして霊渠を通じれば、海の向こうの交州の莫大な富が、誰にも邪魔されずに我が懐へと流れ込む。
背後を狂暴な敵に突かれる心配が一切ない、これほど安全で強固な、大いなる盤石の土地が、他の一体どこにあるというのだ」
劉憲の漆黒の瞳の奥には、王叡のような目先の保身に汲々とする小人物が描く、つまらぬ権力の図面などは疾うの昔に消え去っていた。
そこにあったのは、大陸の南をその掌の中に丸ごと呑み込もうとする、亀の如き巨大で恐るべき長遠なる戦略図そのものであった。
劉憲の放つあまりに壮大で容赦のない野心の一端に直接触れたような心地になり、文聘はそれまでの激しい毒気を完全に抜かれたように、ふう、と深く長い溜息をついた。
「……相変わらず、お前考えることの深さは、どこまで行っても底が知れないな。
分かったよ、孝子。お前がその零陵の山から掘り起こす大量の鉄と銅を使って、この俺が、天下の誰もが恐れおののく無双の軍勢を、その足元に鍛え上げてご覧に入れよう」
友の真の栄達と、その背中にある果てしない未来を心から確信した文聘の、頼もしい背中を見送りながら、劉憲は手元に残された太守の印綬を、自らの麻衣の懐へと静かに収めた。
劉憲はついに、荊州の最深部、南の果てへとその確かな歩みを進める。それは、やがて訪れるであろう大陸全土を巻き込む大乱の荒波を完全に凌ぎ切り、新たな時代を自らの民にとって安堵できるものに書き換えるための、そして決して揺らぐことのない絶対的な礎を築くための、大いなる旅立ちであった。




