187年 区星の乱02
中平四年、十一月。
長沙および、桂陽、零陵の騒乱がひとまずの収束を見せ、湖陽の地を吹き抜ける風がにわかに冬の寒さを帯び始めた頃、劉憲の執務室には、大人が身を屈めても隠れるほどの凄まじい量の竹簡が山のように積み上げられていた。
窓の隙間から入り込む北風が、部屋の隅の炭盆からかすかな灰を舞い上げ、饐えた古い竹の手触りと冷え切った墨の匂いが、室内の重苦しい空気をさらに濃く支配している。
それらの竹簡は、劉憲が長沙、零陵、桂陽の荊州南部三郡を「平定」する過程で、区星ら地元豪族の手を借りて密かに回収した、現職の太守や都督たちの決定的な不正の証拠の数々であった。
中央の十常侍ら宦官へ送られた法外な賄賂の帳簿、朝廷を呪詛するような密書、そして民から限界を超えて搾取した過酷な臨時の税の記録。どれ一つをとっても、洛陽の廷尉に差し出せば一族郎党もろとも死罪を免れ得ぬほどの劇薬である。
李厳は、その中の一本を冷えた指先で開き、斜光にかざして文字を追っていたが、やがて呆れたように深い溜息をついて竹簡を机に放り出した。
「孝子、これほどのものをよくもまあ、短期間でこれだけ集められたものです。長沙の区氏も、よくぞ蔵の奥から引きずり出してきたものだ。
して、この破滅の塊をどう使うつもりです? すぐに宛の羊続様に預け、あの私腹を肥やした太守どもを一斉に罷免させますか。これだけの証拠があれば、朝廷とて奴らの首を撥ねざるを得ないでしょう」
「まさか。そんな勿体ない真似ができるか」
劉憲は窓の外、冬の訪れを告げるどんよりとした灰色の空を見上げながら、感情の起伏のない短い声で応じた。
「奴らを今ここで下手に罷免したところで、窮鼠となった小人物どもは全財産を投げ打って都の宦官に泣きつき、今度は我らを陥れるための讒言を必死に弄するだろう。
あるいは、朝廷からさらに欲望に飢えた、扱いづらい新たな太守が次々に送られてくるだけだ。あれらはな、『いつでも我が手で容易く潰せる』という絶対的な恐怖の鎖を首に巻いたまま、元の椅子に座らせておくのが一番都合がいいのだ。我らの真の行動など何も知らぬ、実に便利で無害な置物としてな」
実際、新野にある劉憲の広大な屋敷では、今も長沙の戦火から「奇跡的に救出」された周辺の太守や高官たちが、連晩のように開かれる豪華な酒宴と至れり尽くせりのもてなしによって、その牙を完全に骨抜きにされていた。
彼らにとって劉憲は、命の危機から自らを救い出してくれた至高の恩人であるが、その裏で、自らの破滅の鍵を握る恐るべき危険な守護者であることなど、夢にも気づいてはいなかった。
「さて、南部を置物で固めたとなれば、次は南の果ての交州だな。中央の肥え太った宦官どもと、あの欲深い地方官たちを永遠に黙らせ続けるための、さらに巨大な『餌』を海の向こうから探さねばならん」
劉憲は深く、喉の奥を鳴らすように重いため息をついた。その緻密な計算に満ちた視線の先には、此度の長沙平定において、一つだけ想定の枠を大きく飛び越えた極めて滑稽な誤算が存在していた。
「……それにしても、まさか長沙太守があのような無様な最期を遂げようとはな」
長沙太守・褚超。あの執念深く、己の黄金のことしか頭になかった老太守は、新野への移送の途中、どうしても諦めきれなかった屋敷の財貨のことが頭を離れず、夜陰に紛れて護衛の兵から強引に馬を奪うと、単身で長沙へ引き返そうとしたのだ。
しかし、暗闇の中での無謀な駆け足にその老いた身体が耐えきれず、あっけなく落馬。運悪く街道の硬い石に頭を打ち付けて首の骨を折り、そのまま物言わぬ骸となって発見されたのである。
「江夏の秦頡殿に続き、長沙の褚超までもが、不正に集めた財貨に目が眩んで自滅ですか。孝子、我が湖陽の秩序を不当に拒んだ者たちには、どうやら天から特別な呪いでも降る仕組みになっているようですね」
李厳の、いささか毒の強い皮肉を交えた言葉に、劉憲は苦笑いするしかなかった。
だが、その太守の「空席」という巨大な隙間を、洛陽の朝廷がいつまでも放っておくはずもなかった。混乱を極める長沙の治安維持を名目に、中央が急遽送り込んできた後任の人事。その男の名を聞いた瞬間、劉憲の脳裏には、かつて宛城の血生臭い戦場で異様な武名を轟かせ、美陽の冷たい地でも顔を合わせた、あの獰猛な「江東の虎」の姿がありありと蘇っていた。
「まったく、褚超は死に際まで余計な置き土産を遺してくれたものだ……。
孫堅殿か……。あの男が長沙の地に本格的に腰を据えて居座るとなると、これまでのようになまぬるい狂言劇は通用せんぞ」
劉憲の言葉通り、猛将・孫堅の着任は、荊州南部のパワーバランスを根本から激変させる不穏な予兆であった。圧倒的な武力を誇る孫堅と、泥の底から張り巡らされる謀略の劉憲。一対の雄が荊州の南に並び立ったことで、時代は静かに、しかし確実に激動の濁流へと向かって加速し始めていた。




