187年 区星の乱01
中平四年、九月末。長沙の地をねっとりと覆う夏の残熱は、本来ならば豊穣を祝うはずの実りの秋を完全に置き去りにし、肌にまとわりつくような不穏な湿気と共に、いつ弾けてもおかしくはない殺気立った動乱の火花へとその色を変えていた。
街道の辻には、照りつける陽光を浴びて半ば腐りかけた雑草の匂いと、行き交う私兵たちの粗末な鉄製武器から漂う、乾いた錆の匂いが混ざり合って淀んでいた。
湖陽の深い泥の中で、ひたすらに爪を研ぎ力を蓄え続けてきた劉憲が、ついにその重い腰を上げた。
率いるのは、湖陽の工房で徹底的に選び抜かれた僅か五百の精鋭。数は決して多くはなかったが、彼らが手にする弩の木床には黒々とした獣脂が惜しみなく塗り込まれ、身に纏う甲冑の鉄環は秋の鋭い光を規則的に跳ね返していた。
五百の男たちが一糸乱れぬ歩調で踏み締める黒土の地鳴りは、臨湘の城壁を外側から静かに揺るがした。彼らは、長沙太守・褚超の際限なき圧政と重税に端を発した、大規模な民衆の反乱をしかるべき官の立場から鎮圧するという、完璧な大義名分を掲げてここに現れたのである。
長沙の郡治たる臨湘県の巨大な城門は、劉憲の軍勢が到着した時には、すでに内側から音もなく完全に開け放たれていた。
城内に溢れ返る一万を数える反乱軍の兵たちは、怯えて家々の奥に隠れる一般の民には目もくれず、これまで私腹を肥やし続けてきた太守や、都督らの広大な屋敷の周囲のみを、蟻の這い出る隙もないほどに幾重にも包囲していた。
その首謀者は、北方の黒山賊の一党が南下してきたものなどと巷間では噂されていたが、その一糸乱れぬ包囲の陣形や、無駄な略奪を厳に慎む組織立った動きは、単なる飢えた賊の行き当たりばったりの略奪とは一線を画していた。
劉憲が、城門のすぐ内側の街道で悠然と馬を止め、周囲の安全を確保するように布陣を終えると、長沙の有力な豪族であり、この地の民兵を束ねる区星が、数人の側近を引き連れて馬を寄せ、ゆっくりと歩み寄ってきた。
「仲業、あの区星の乗っている馬の足元を見ろ。蹄の磨り減り具合からして、最近までかなりの長距離を頻繁に行き来していた証拠だ。南郡の境界あたりまで、自ら偵察に出向いていたのかもしれんな」
劉憲が馬のたづなを軽く握り直しながら、隣に控える文聘に小さな声で語りかけた。長沙の風は、湖陽のそれよりも僅かに熱気が混じっているように感じられ、吸い込むたびに喉の奥がちりちりと渇く。
「そうだな、孝子。しかし、彼の引き連れている兵たちの足元もまた、実に見事に統一されているようだ。泥の跳ね返り方が皆、同じ高さだ。俺が鍛えた湖陽の兵たちほどではないが、一筋縄ではいかぬ男たちだろうよ。
それよりも孝子、長沙のこの妙に蒸し暑い風は、どうにも私の肌に合わん。汗が乾かずに薄衣の裏がずっと張り付いて、先ほどから背中が痒くて仕方がない。早く湖陽のあの冷たい水に、この身を浸したいものだ」
文聘が首の周りの革帯を指先で少し緩めながら、不満そうに細い息を吐きだした。そのやり取りの最中、区星の乗った黒馬がすぐ目の前で蹄の音を響かせて止まった。
「おお、そこに居られるのは湖陽県令の劉憲殿ではないか。はるばる荊州の北から、我が檄に応じてこの長沙の危急に駆けつけてくれたこと、真に痛み入る」
劉憲は馬の上で鷹揚に頷いてみせ、あたかも戦場で旧知の戦友を温かく迎えるかのように、その凡庸な顔に柔和な微笑を浮かべた。区星もまた、周囲の一般の兵たちに細かく聞こえるような大きな声を張り上げて、それに応じる。
「左様。不届きなる逆賊どもが、我が長沙の太守・褚超様の屋敷を不当に取り囲み、これまで我らから不正に徴収した莫大な税の返還を求めて暴れておる。周辺の他の県でも全く似たような有様だ。このままでは長沙の法秩序が立ち行かぬ。官軍の力を借りて、速やかにこの乱を鎮めねばならぬ」
周囲への形式通りの、いささか大袈裟な挨拶をひとまず済ませると、劉憲は馬の腹を軽く蹴って区星のすぐ横へと近づけ、周囲の誰の耳にも届かぬほどの極めて低い声で、唇を僅かに動かして囁いた。
「……当初の計画では、今年の春先にはこの長沙の反乱の火の手が上がると思っていたが、随分と長く持ち堪えさせたものだな、区星殿。
それで、集めた賊軍の末端までの統制は今どうなっている。あらくれどもに美味い餌をやりすぎて、こちらの制御が利かなくなり、無関係な民の足首を噛むような真似は絶対にさせておるまいな」
「今年の春先はな、太守の強欲のせいで城内のあらゆる庫が完全に空で、あの時点で決起しても兵たちに食わせる一粒の米もなかったのだよ。秋の収穫をじっと待った甲斐があったというものさ。
集めた賊軍の統制は我が一族の手で万全に敷いてある。暴走しそうな血気の多い過激な奴らは、端からこの計画の駒には入れておらん。
奴らが今、太守の蔵から形ばかり奪い去って市へ運び出している大量の穀物は、後で貴殿が華々しく追撃してすべて奪還したことにすればいい。その際、長沙の正規の税分はしっかりともとの庫に戻る手はずになっている」
区星は、劉憲の薄い衣に付着した湖陽の泥の乾いた白い跡を見つめながら、その瞳を満足げに細めて囁き返した。
この長沙を揺るがす大規模な反乱のすべては、過酷な圧政を強いる無能な太守をこの地から合法的に排除し、同時に劉憲と区星いう存在が鎮圧の英雄として、略奪された莫大な物資を奇跡的に奪還して民に広く分配するための、二人が水面下で緻密に組み上げた巨大な狂言劇であった。
「……よし。ならば、長沙の民のために、正義の鉄槌を下すとしようか」
劉憲は再びその表情から私的な温度を完全に消し去り、峻厳な官としての冷徹なものへと戻すと、腰の古びた剣を音を立てて引き抜き、臨湘の濁った空へと高く掲げた。
「これより朝廷の命に背く逆賊を悉く討ち、長沙の神聖なる秩序を我が手で取り戻す。我が湖陽の精鋭たちよ、遅れるな、続け」
勇壮な号令が、熱気の淀む臨湘の空へと鋭く響き渡る。
劉憲率いる五百の討伐軍は、開け放たれたままの巨大な城門へと、足並みを揃えて整然たる行軍を開始した。
しばらくのち、臨湘の狭い街路のあちこちから、矛と大盾が激しくぶつかり合う、耳を震わせる金属音がけたたましく鳴り響いた。
劉憲の軍は、周囲の頑丈な家々に閉じこもる民たちに対して、賊の乱入を防ぐため頑丈な戸を固く閉ざし、戦が終わるまで決して外に出てはならぬ、と大声を上げて厳命しながら、太守の広大な屋敷の正面へと一直線に突き進んでいった。
その激戦の舞台となる足元には、あらかじめ豪族の手によって大量に調達されていた、生々しい豚の血が容赦なく撒き散らされ、辺りの湿った空気を包み込む強烈な錆鉄臭が、そこに居合わせる者たちに、まるでこの世の終わりかのような凄惨な激戦が行われているという、完璧な錯覚を抱かせた。
「さあ、血路は我が軍の手によって開かれた。今こそ奥に立て籠もる太守様を、賊の手からお救いするのだ」
文聘の、地を這うような鋭い号令と共に、全身に生臭い豚の血を浴びた劉憲の兵たちが、鬼気迫る狂暴な形相を装って屋敷の最も奥深い寝所へと踏み込んだ。
そこには、部屋の隅に置かれた豪奢な毛皮に座り込み、怯えきった長沙太守・褚超が、冬の寒さに震える犬のように、自らの金銀財宝の詰まった頑丈な葛籠を、爪が割れるほどの力で抱き抱えて立ち尽くしていた。部屋の中には、彼の流した脂汗のすえた臭いが充満している。
「わ、わしの、わしが長年集めたこの大切な財貨はどうするのだ。これをお前たちに渡して、この場に置いてゆくなど……そんなことは絶対にできぬ」
命の危機に瀕しながらも、なおも目の前の黄金への異常な執着を見せる無能な褚超に対し、劉憲はゆっくりと馬から降りると、その泥と血のついた手で太守の肥え太った肩を力強く掴み、彼の泳ぐ瞳を真っ直ぐに見据えた。
「太守様、この燃え盛る屋敷と運命を共にするおつもりですか。ここで貴方様が奇跡的に生き延び、再び安定したこの長沙の統治を取り戻すことこそが、天の示された大いなる御意思にございます。
失った財貨はまたいくらでも築けますが、貴方様やその大切なご家族の命に代えはございませぬ」
その劉憲の、腹の底から響くような力強い、しかし有無を言わせぬ冷徹な説得の圧力に、褚超は完全に気圧された。屋敷のすぐ外からは、賊の鬨の声に完璧に擬した、区星らの兵たちの凄まじい叫び声が、窓の格子を揺らして迫っている。
「分かった、もうよい。運べ、わしをここから早く安全な場所へ運べ」
褚超は泣く泣く、自らの命よりも重かったはずの財宝の葛籠を床に放り出し、劉憲の兵たちが用意した、窓が厳重に目隠しされた頑丈な馬車の中へと押し込まれた。そのまま、彼は反乱軍からの保護という名目の下、戦火の長沙から遠く離れた、北方の新野にある劉憲の目の届く屋敷へと、生かさず殺さずの状態で速やかに送り届けられることとなった。
やがて、主を失った太守の広大な屋敷の裏手から、もうもうとした不気味な黒煙が天に向かって立ち上った。
「逆賊どもが火を付けて北へ逃げたぞ。すぐさま追っ手を差し向けよ。何よりもまず、太守様の倉庫の米を守れ」
あらかじめ決められていた誰かの鋭い叫び声を合図に、臨湘の街中に散っていた賊軍――すなわち、劉憲と裏で完全に気脈を通じた周辺豪族の私兵たちは、あらかじめ打ち合わされていた細い路地を通り、蜘蛛の子を散らすようにして夕闇の彼方へと音もなく消え去っていった。
しばらくのち、太守の館の広い中庭で、盛大に煙を上げていた湿気った焚き火の山が、劉憲の兵たちの手によって手際よく消し止められた。実際に焼け落ちたのは、太守がこれまでに民から不正に搾取したすべての記録が眠る、古い書庫の巨大な木扉と、いくつかの贅を尽くした一部の居室のみであった。
すっかり静まり返った臨湘の、煙の残臭が漂う街路の真ん中に、劉憲は一人、泰然として立っていた。
強欲な太守は、新野に用意された頑丈な籠の中。そして長沙の大きな庫には、賊から奇跡的に奪還されたことになった大量の米が静かに戻り、市井の民の間では、自らの身を挺して街を救った劉憲の、底知れぬ慈悲と勇猛さが早くも語り草として広がり始めていた。
「……仲業、火の後始末を徹底しろ。残った煤の匂いが民の家に届かぬようにな。それからすぐに街の広場で大釜を出して炊き出しを行い、略奪されたすべての穀物が我が軍の手によって無事に戻ったと、不安に震える民たちに優しく告げてやるがいい」
劉憲の冷徹な、しかしどこか晴れやかな命令が、夕暮れの煙の燻る長沙の街に静かに響いた。長沙という広大な地は今、正式にその古い支配者を失い、劉憲という名の、新たなる若き守護者をその足元へと迎え入れたのである。
史実メモ:10月、区星が長沙郡で将軍を自称し反乱。零陵では周朝、桂陽では郭石がこれに呼応するように反乱を起こした。長沙太守に任じられた孫堅がこれを短期間で鎮圧し、功績により烏程侯に封じられる。




