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186年 趙慈の乱03

三月に入り、湖陽を囲む広大な葦原が、春の生ぬるい風を受けてざわざわと波打つ昼下がり。冬の間に枯れ果てた黄金色の茎の隙間から、新緑の瑞々しい青葉が顔を覗かせ、大気には湿った泥と、青草が放つ特有の甘酸っぱい匂いが満ちていた。

強い陽光が白河の水面に反射して不規則に屈折し、見張り台の木肌を白く焼き付けている。その静かな平穏を破るように、息を荒くした数人の民兵たちが、一人の老人と小さな幼子の手を引いて、劉憲のいる粗末な役所の前庭へとやってきた。


老人は、幾重にも粗末な麻布が継ぎ接ぎされた襤褸を纏っており、その裾はあちこちが擦り切れて泥に汚れていた。身なりこそ極限まで貧しかったが、その背筋は竹のように真っ直ぐに伸びており、歩くたびに藁草履が土を噛む音が確かな足取りを物語っていた。


「劉憲様、この老人、ただの流民ではございませぬ。数日前から南陽のあちこちの村々を徘徊し、我らの統治の評判や、今年の年貢の正確な重さ、果ては民が毎日腹一杯に飯を喰えているかまで、役人のように根掘り葉掘り聞き回っていたのです。

江夏の趙慈が放った不穏な斥候か、あるいは襄陽の王叡が我らの出方を探るために送り込んだ密偵に違いありません!」


民兵の一人が、額の汗を手の甲で拭いながら、腰の古い刀の柄をぎちりと鳴らして息巻いた。

劉憲は、その青臭い興奮を手を軽く挙げて制すると、前庭の黒土の上にそのまま座り込み、民兵の影に隠れて怯えていた幼子の、埃にまみれた細い髪を優しく撫でている老人の前に、静かに腰を下ろした。劉憲の瞳には、警戒の色は微塵もなく、ただ深い底知れぬ好奇心の光が静かに宿っていた。


「ご老人、我が土地の者が手荒な真似をして驚かせてしまい、申し訳ない。私はこの湖陽の管理を任されている県令の、劉憲という者だ。

差し支えなければ、そのお名前を伺ってもよろしいか。そして……どのような目的があって、この湿地帯の細かな評判を集めておられたのか、お聞かせ願いたい」


老人は、幼子の小さな手を自らの大きな手のひらで包み込むと、ゆっくりと顔を上げた。その顔には深い深い皺が刻まれていたが、瞳だけは一切の濁りがなく、春の陽光をそのまま跳ね返すように澄み切っていた。彼は、劉憲の泥のついた麻衣を見つめながら、淡々と、しかし芯のある声で語り始めた。


「儂は、廬江の片隅に住んでいた続という、ただのしがない老いぼれでな。早くに親を亡くしたこの幼い孫を育てるために、真に飢えのない、安らかな土地を求めて大陸を彷徨っておったのだよ。

お主たちの言うような、大層な反乱軍だの刺史様だのに加担する意図など毛頭ない。ただ、他人の噂話ではなく、己のこの両の目で、民の顔を見て確かめたかっただけよ」


「廬江の……続、殿、ですか」


劉憲の脳裏に、かつて襄陽の龐徳公と深夜に交わした、古い書簡の掠れた一節が鮮烈に蘇った。そこには、後漢の朝廷において清廉潔白を絵に描いたような人物として、前廬江太守である羊続の名が記されていた。

数千石の官職にありながら自らの贅沢を一切排し、部下から一匹の生魚を贈られても、それを決して口にせず、腐らせて骨になるまで門の梁に吊るして見せることで、周囲の賄賂の風潮を烈しく戒めたという、ある種の狂気的なまでの廉潔の士。


目の前に佇む老人の、油の抜けた乾いた皮膚の手触りや、一切の装飾を削ぎ落とした清貧の佇まいは、まさにその噂に聞く羊続の姿そのものであった。


「仲業、周倉、この者たちを連れて一度下がれ。表の見張りの交代の時間だろう。正方が裏で新しい麦粉の計算をしておるから、手伝ってやるといい。それと、この子に少し冷えた甘い大麦の粥を出してやってくれ。朝から何も食べていないのだろう、お腹の鳴る音がここまで聞こえるぞ」


劉憲は周囲の兵たちを静かに下がらせると、前庭の風の音に紛れるように声を落とし、深い敬意を込めて問いかけた。


「……して、羊続殿。自らの足で歩き、民の声を聞いたこの湖陽の評判、貴殿の澄んだ瞳には、一体どのように映りましたかな」


羊続は、劉憲の爪の間に残る黒い畑の土と、遠くの堤防の敷地で、泥にまみれて互いに大声を上げて笑いながら、頑丈な土手を築いている民たちの姿を、交互にじっと見つめた。そして、まるで罪人を裁くかのような厳しい審判の表情をふっと緩めると、言葉での明確な答えは返さず、ただ深く満足そうに、にこりと白い髭を揺らして笑った。


その飾らない笑顔は、洛陽のいかなる華美な賞賛の言葉よりも雄弁に、劉憲のこれまで行ってきた泥臭い統治が、ひとつの正解に達していることを物語っていた。


「ここには、洛陽の役所の天幕に立ち込めるような、あの嫌な役人の贅肉の臭いが一切せぬな。……とても良い、清らかな風が吹いておる」


羊続が、足元の土を慈しむようにぽつりと零したその言葉は、湖陽という泥の楽土が、ついに天下の真の名士を惹きつけるほどの、目に見えぬ強力な磁場を持ち始めた確かな証でもあった。


翌朝、夜明けの白い霧が白河の水面を厚く覆い、草の葉に降りた朝露が冷たく光る頃。湖陽の古びた木製の門を静かに抜けようとする羊続の前に、一台の、車輪の軸がガタガタと音を立てる荷馬車が静かに止まった。馬の吐く白い息が、冷たい空気の中に吸い込まれていく。


木製の御者台に腰を下ろしているのは、昨日までの凛とした県令の姿では断じてなかった。至るところが煤で汚れ、泥のついた褤褸を適当に纏い、農作業で擦り切れた手拭いを頭に無造作に巻き付けた、どこにでもいるしがない若き農民の姿をした劉憲であった。


「やあ、続の爺さん、待たせたな。霧が深くて馬の機嫌が悪くてね。私だよ、今日からおまえさんの荊州巡りの旅路の面倒を見る、息子の孝子だ」


劉憲は親しげに笑い、まるで本当の親子であるかのように、荷車の藁が敷き詰められた荷台へ手招きした。羊続が連れている小さな童子も、昨日の威厳ある役人様が、すっかり近所の気のいい兄貴に変わってしまったその姿を見て、大きな目を丸くして驚いている。


「爺さん、この荷馬車は右の車輪の調子が少し悪くてな、走ると小刻みに揺れる。途中の村で古い獣脂でも手に入れば、軸に塗って軋み音を消すつもりだが、それまではこの藁の上に深く座って、孫が車酔いせぬように気をつけてやってくれ。

それから、荷台の隅に正方が包んでくれた、干し柿と硬い麦餅が入っている。小腹が空いたら二人で分けるといい」


羊続は一瞬、あまりの変装の見事さと突飛な行動に呆気にとられ、言葉を失って立ち尽くしていた。だが、目の前の若者の瞳の奥に宿る、底知れない冷徹な毒と、緻密な知略の気配を敏感に察すると、周囲に霧以外の誰もいないことを確かめ、腰を低く屈めて劉憲の耳元で低く囁いた。


「お主、一体この老いぼれを使って何を企んでいる。南郡の曹寅の、武陵蛮に対する容赦のない苛政と重税の話は、儂の耳にもすでに届いておる。

だがな、儂は一度は朝廷を退いた、ただの隠居人だ。近いうちに南陽太守の任を拝命する身とはいえ、今はまだ一介の流民にすぎん。荊州の南の果てまで、お主の野心の手を引くような力はないぞ」


「……戦火の火の手が本格的に上がる前に、その冷たい兆候を事前に抑え、可能なら民の被害が最小になるよう、水の中で収める。それ以上の大層なことは望みませんよ、爺さん」


劉憲もまた、手綱を握る指先を微かに動かしながら、羊続の耳元に囁き返す。その声は、春の朝霧のようにどこまでも穏やかであったが、その実、荊州全土に広がろうとしているこれからの動乱を未然に防ぎ、あるいはその混沌のすべてを、自らの見えざる支配下に完全に置こうとする、巌の如き強固な意志が静謐に宿っていた。


「……私のこのような小さな親孝行では、元太守殿としては不服ですか」


羊続は劉憲の泥のついた横顔をじっと見つめ、やがて、処置なしじゃな、と呆れたように、しかしどこか嬉しそうに声を殺して笑った。この恐るべき若者は、朝廷からも一目を置かれる清廉な老太守の存在を完璧な隠れ蓑にし、これから崩壊していく荊州全土の膿を、自らの目で直接視察しに行こうというのだ。


「よかろう。旅の途中で、儂の古い腰の骨が鳴ったら、その時はお主が背負って歩くのだぞ。息子に孝行されるのは、老いた親の当然の特権じゃからな!」


羊続が幼子の体を抱き上げ、荷台の柔らかい藁の中に深く乗り込むと、劉憲は手綱を軽く引き、ゆっくりと老馬を歩かせた。車輪が泥を噛み、ギィ、と鈍い木の擦れ合う音が霧の中に消えていく。


街道の遥か遠方には、衣服をわざと破いて流民の集団に完全に見事に擬態した、周倉の率いる精鋭たちが、適度な距離を保ちながら、音もなく葦原の影を動き出しているのが見えた。彼らの背負う大盾や弩は、荷車の古い麻布の下に厳重に隠されていた。


表向きは、老いた父親と幼い子供を連れた、貧しい農民一家の、どこにでもある寂しげな旅路。だがその内実は、荊州全土を揺るがすであろう戦火の種を事前に摘み取り、あるいは新たな時代の秩序を、自らの都合の良いように書き換えるための、極めて危険で大胆な巡察の始まりであった。


「さあ、出発だ。まずは、南の川から吹いてくる風の色を見に行こう」


劉憲の静かな声が、朝露に濡れて青々とした草の芽吹き始めた広大な草原の彼方へと、霧と共に静かに溶けていった。

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