止まった時計
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午後三時を回った編集部のフロアには、キーボードを叩く音と、時折響く電話のコール音だけが漂っていた。
澪は自分のデスクで、来月刊行予定の小説原稿の整理に没頭していた——少なくとも、そう見えるように努めていた。
活字を追う目は、しかし文字の意味を捉えていない。視線は紙面を滑るばかりで、頭の中では全く別のことを考えていた。
次の満月まで、あと二十七日。
あの夜、湖底の鏡に映った蒼真の姿が、瞼の裏にこびりついて離れない。触れた瞬間に消えてしまった、あの温もりを持たない手。そして何より、彼の唇が動いた瞬間——「事故じゃない」と言いかけたような、あの仕草が。
「白波さん、この原稿のゲラ、確認終わった?」
先輩編集者の声に、澪は我に返った。
「あ、はい。もう少しで……すみません」
「大丈夫? 最近ぼんやりしてること多いけど」
「大丈夫です。ちょっと寝不足で」
先輩は心配そうな目を向けたが、それ以上は追及せずに去っていった。澪は小さく息を吐き、再び原稿に目を落とす。
ページをめくる手が、ふと止まった。原稿の一節が目に入る。
『——約束だよ。来週の土曜日、必ず来てね』
登場人物の台詞。ただそれだけのはずなのに、澪の胸を鋭く刺す。
約束。来週。
脳裏に、聞き慣れた声が蘇る。少し照れくさそうな、それでいてどこか緊張を含んだ声。
『今度の週末、月ヶ淵湖に行かない? 話したいことがあるんだ』
原稿の文字が滲む。澪は目を閉じ、三年前のあの日へと意識を沈めていった。
*
三年前、四月の終わり。大学三年生になったばかりの春だった。
澪の携帯電話が震えたのは、夕方の講義が終わった直後のことだった。画面に表示された名前を見て、澪は自然と頬が緩んだ。
「もしもし、蒼真?」
『あ、澪。今、大丈夫?』
幼馴染の声は、いつもより少し上ずっていた。澪はキャンパスのベンチに腰を下ろしながら、「うん、講義終わったとこ」と答える。
『あのさ、今度の週末……土曜日、空いてる?』
「土曜? 特に予定ないけど」
『じゃあ、月ヶ淵湖に行かない?』
澪は少し驚いた。月ヶ淵湖は、二人の家から電車とバスを乗り継いで一時間半ほどかかる場所だ。子供の頃に家族ぐるみで何度か訪れたことがあるが、最近は足を運んでいなかった。
「急にどうしたの?」
『いや、その……』
電話越しに、蒼真が言葉を探している気配が伝わってくる。
『話したいことがあるんだ。ちゃんと、二人きりで話したくて』
その声には、普段の気さくな蒼真らしくない真剣さがあった。澪は少し戸惑いながらも、「うん、いいよ」と答えた。
『本当? じゃあ土曜の朝、駅で待ち合わせな。十時でいい?』
「分かった。でも、話したいことって何?」
『それは……会った時に言う。今言ったら、意味ないから』
蒼真の声が、かすかに震えていたような気がした。でも澪は、その時その意味に気づかなかった。
『じゃあ、土曜日。約束だからな』
「うん、約束」
電話を切った後も、蒼真の緊張した声が耳に残っていた。「話したいこと」とは何だろう。真剣な相談事だろうか。それとも——。
その時の澪には、蒼真の言葉の真意を読み取る想像力が欠けていた。幼馴染として長く一緒にいすぎたせいで、彼の変化に鈍感になっていたのかもしれない。
あるいは、気づかないふりをしていたのかもしれない。
*
約束の土曜日、その前日の金曜の夜。
澪は突然の高熱に襲われた。三十八度を超える熱で、身体が鉛のように重い。季節の変わり目に体調を崩すのは珍しくなかったが、よりによってこのタイミングで。
布団の中で携帯電話を取り、蒼真の番号を呼び出す。コール音が三回鳴ったところで、彼は出た。
『澪? どうした、こんな時間に』
「ごめん、蒼真……明日、行けなくなっちゃった」
『え?』
「熱が出ちゃって。三十八度もあるの」
電話の向こうで、蒼真が息を呑む音が聞こえた。
『……そうか。大丈夫か? 病院は?』
「明日、様子見て行くつもり。ごめんね、せっかく約束したのに」
沈黙が流れた。ほんの数秒だったはずなのに、とても長く感じられた。
『……いや、仕方ないよ。体調が一番大事だ』
蒼真の声は穏やかだった。けれど、どこか無理をしているようにも聞こえた。
「来週にしてくれる? 絶対行くから」
『……ああ。来週な』
「話したいことって、そんなに急ぎじゃないよね?」
再び、短い沈黙。
『……うん。急ぎじゃない。来週でいい』
その声に滲んだ諦めのような響きに、熱でぼんやりした頭は気づけなかった。
『大事にしろよ、澪。ちゃんと寝て、早く治せ』
「うん、ありがとう。おやすみ」
『おやすみ』
電話を切った後、澪はすぐに眠りに落ちた。翌日も、その翌日も熱は下がらず、週明けまで寝込むことになった。
蒼真が月ヶ淵湖で溺死したという知らせを受けたのは、その週の月曜日の朝だった。
「来週」は、永遠に来なかった。
*
澪は回想から引き戻された。気づけば、定時を過ぎていた。
オフィスを出て、電車に揺られ、自宅に帰り着く。玄関で靴を脱ぎながら、「ただいま」と声をかけるが、透子の返事はない。今夜は遅くなると言っていたことを思い出す。
一人きりの部屋は、静かすぎた。
澪は自室に入り、机の前に座った。しばらく何をするでもなく座っていたが、やがて引き出しに手を伸ばす。
奥にしまい込んでいた小さな箱を取り出す。中には、銀色の腕時計が横たわっていた。
蒼真の形見だ。
葬儀の後、蒼真の両親から譲り受けたもの。彼が大学入学祝いに買ってもらったもので、いつも左手首につけていた。湖から引き上げられた時、唯一壊れずに残っていたという。
澪は時計を手に取り、文字盤を見つめた。
午後十一時四十七分。
三年前のあの夜、この時計が止まった時刻。蒼真の心臓が止まった時刻。
「蒼真……」
澪は時計を握りしめる。あの夜、湖畔で水面に手を伸ばした時と同じように。けれど今度は、冷たい金属の感触があるだけだ。
あの時、蒼真は何を話したかったのだろう。「ちゃんと、二人きりで話したくて」——その言葉の意味を、今の澪は理解している。分かりたくなかったけれど、分かってしまった。
告白しようとしていたのだ。
幼馴染として、長い時間を共に過ごしてきた。いつからか、蒼真の目が自分を見つめる時間が長くなっていたことに、澪は気づいていた。気づいていて、気づかないふりをしていた。
「私が……あの夜、行っていれば」
熱なんか無視して。約束を守っていれば。蒼真の想いを聞いていれば。彼は一人で湖に行くことはなかったかもしれない。
涙が頬を伝う。三年経っても、この後悔だけは消えない。止まった時計のように、澪の心もあの夜で止まったままだ。
その時、携帯電話が鳴った。
*
画面に表示された名前は「真凛」だった。
澪は涙を拭い、一度深呼吸してから電話に出た。
「もしもし」
『澪ちゃん! 今、大丈夫?』
真凛の声は明るい。いつも通りの、親友の声。けれど昨日カフェで感じた違和感が、まだ胸の奥に引っかかっている。
「うん、大丈夫。どうしたの?」
『実はね、報告があって』
真凛の声が、少し改まった調子になる。
『私……婚約したの』
「え?」
澪は思わず声を上げた。婚約? 真凛が?
『びっくりした? 私もまだ信じられないんだけど』
「いや、うん、びっくりした……おめでとう。相手は?」
一瞬の間があった。
『……遥斗さん。神崎遥斗さん』
澪の心臓が、一拍止まった。
神崎遥斗。蒼真の、兄。
「え……遥斗さんって、蒼真の……」
『うん。蒼真くんのお兄さん』
声が出ない。頭の中で、情報を処理しようとするが追いつかない。
『驚くよね。私も最初は考えてなかったんだけど……』
真凛は説明を続ける。
『蒼真くんが亡くなってから、遺族として支え合ううちに……ご両親のお世話をしているうちに、自然と遥斗さんとも話すようになって』
「そう、なんだ……」
『澪ちゃんのことは、遥斗さんも気にかけてたよ。蒼真くんの大切な人だったからって』
澪は何と答えればいいか分からなかった。祝福すべきなのだろう。親友の幸せを喜ぶべきなのだろう。けれど、言葉が出てこない。
蒼真が亡くなったのは三年前。その間に、真凛と遥斗の間に何があったのか。澪は何も知らなかった。
『澪ちゃん? 聞いてる?』
「あ、ごめん。聞いてる。おめでとう、真凛」
口にした祝福の言葉は、自分でも驚くほど平坦だった。
『ありがとう! 今度、三人で食事しようね。遥斗さんも澪ちゃんに会いたいって言ってたし』
「……うん」
『じゃあね、また連絡する!』
電話が切れた後、澪はしばらく携帯電話を握りしめたまま動けなかった。
昨日、真凛と会った時に感じた違和感。説明できない胸のざわつき。あれは何だったのだろう。
そして今、真凛が蒼真の兄と婚約したという報告を聞いて、そのざわつきはさらに大きくなっている。
なぜだろう。真凛が幸せになることを、素直に喜べない自分がいる。それは蒼真への想いのせいなのか。それとも——。
澪は再び、止まった腕時計を見つめた。
「蒼真……あなたは、どう思ってるの?」
答えは返ってこない。次の満月まで、まだ二十七日もある。
*
翌日の昼休み、澪は気分転換に外でランチを取ることにした。会社近くの商店街を歩きながら、手頃な店を探す。
空は曇り空で、四月にしては肌寒い。澪はコートの襟を立てながら、人混みの中を進んでいった。
その時、前方から歩いてくる男性と目が合った。
切れ長の目と、端正な顔立ち。黒髪を短く整え、仕立ての良いスーツに身を包んだその人物は——。
「澪さん?」
男性が立ち止まり、驚いたように声を上げた。
神崎遥斗だった。
「遥斗さん……」
澪も足を止める。三年ぶりの再会だった。蒼真の葬儀以来、遥斗とは会っていない。
「久しぶりだね。元気にしてた?」
遥斗は一瞬の驚きを収め、穏やかな表情を浮かべた。けれどその目には、澪が知らない何かが宿っているように見えた。蒼真に似た顔立ちでありながら、より鋭く、理知的な印象。
「はい、おかげさまで。遥斗さんは?」
「ああ、俺も。この近くで用事があってね」
沈黙が流れる。通行人が二人の脇を通り過ぎていく。
「昨日、真凛から聞きました。婚約、おめでとうございます」
澪がそう言うと、遥斗の表情が微かに変わった。何かを考え込むような、複雑な表情。
「……ありがとう」
その声には、幸せな婚約者の響きがなかった。澪は違和感を覚えたが、追及する立場にはない。
「蒼真も……喜んでると思います」
口にしてから、澪は自分の言葉に確信が持てなかった。蒼真は本当に喜ぶだろうか。自分の兄と、自分の——澪が何だったのか、それすら分からないが——親友が結婚することを。
遥斗は澪をじっと見つめた。その視線には、ただの「弟の幼馴染」を見る以上の何かがあった。
「澪さん」
「はい」
「蒼真のこと……まだ、考えてる?」
唐突な質問だった。澪は言葉に詰まる。
「……はい。毎日」
正直に答えた。嘘をつく理由がなかった。
遥斗は小さく頷いた。その目に、何か——共感のようなものが過ぎったように見えた。
「俺も、同じだ」
遥斗はそう言って、名刺入れから一枚のカードを取り出した。
「もしよかったら、連絡してくれ。蒼真の話を……誰かとしたい時があるかもしれないだろう」
澪は名刺を受け取った。「神崎遥斗法律事務所」と印字されている。弁護士として独立したのだ。
「ありがとうございます」
「じゃあ、また」
遥斗は軽く会釈して、去っていった。
澪はその背中を見送りながら、手の中の名刺を見つめた。
遥斗の目に宿っていたもの。あれは何だったのだろう。婚約者の親友を見る目ではなかった。もっと複雑な、何かを抱え込んでいるような目だった。
「蒼真のこと……まだ、考えてる?」
あの質問の意図は何だったのか。そして「俺も同じだ」という言葉の裏には、何が隠されているのか。
澪は名刺をコートのポケットにしまい、曇り空を見上げた。雲の切れ間から、かすかに陽光が覗いている。
次の満月まで、あと二十六日。
蒼真にもう一度会ったら、聞きたいことがある。あの夜、本当は何があったのか。そして——真凛や遥斗は、本当は何を知っているのか。
止まったままの時計が、澪のポケットの中で重みを増していた。
遥斗の目に宿っていた、あの複雑な感情の正体。それを知る日は、そう遠くないのかもしれない。




