消えゆく指先
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この作品は生成aiを用いて執筆を行なっています
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月光に照らされた水面が、鏡のように澪の姿を映していた。しかし今、そこに映っているのは自分ではない。三年間、夢にまで見た顔。柔らかな黒髪、人懐こい笑顔、そして——生きていた頃と何も変わらない、穏やかな瞳。
「嘘……蒼真……?」
声が震える。膝から力が抜けそうになるのを必死にこらえながら、澪は水面を凝視した。蒼真は微笑んでいる。あの頃と同じ、少し照れくさそうな笑み。そして唇が動いた。
——澪。
声は聞こえない。でも確かに、自分の名前を呼んでいる。その唇の動きを、澪は見間違えるはずがなかった。
「蒼真……蒼真っ……!」
気がつけば澪は膝をつき、水辺に身を乗り出していた。触れたい。この手で、もう一度。三年分の想いが指先に集まる。水面まであと数センチ。蒼真の頬に触れようと、澪は震える手を伸ばした。
指先が水面に触れた瞬間、波紋が広がった。
蒼真の姿が歪む。あの穏やかな笑顔が、水に溶けるように崩れていく。
「待って!」
叫んだ時にはもう遅かった。波紋が収まった水面には、ただ月だけが映っている。冷たく、静かに、何事もなかったかのように。
「嫌……嫌だ、待ってよ……」
澪はその場に崩れ落ちた。濡れた手で顔を覆い、嗚咽を漏らす。会えた。確かに会えた。なのに——また失った。指先に残る水の冷たさだけが、夢ではない証拠。
「蒼真……蒼真……」
名前を呼び続ける声は、やがて言葉にならない慟哭へと変わった。月明かりの下、澪は泣き続けた。どれくらいそうしていたか分からない。涙が枯れるまで、声が枯れるまで、三年分の感情を湖畔に吐き出すように。
空が白み始めた頃、澪はようやく顔を上げた。泣き腫らした目で周囲を見渡す。湖は相変わらず静かで、夜明け前の薄明かりに包まれている。
ふらふらと立ち上がる。足元がおぼつかない。一晩中泣いていた体は、芯から冷え切っていた。
始発電車に乗り込んだ時、車内はまだ空いていた。硬い座席に腰を下ろし、澪はぼんやりと窓の外を見つめる。流れていく景色が、現実感を持たない。
——あれは夢だったのだろうか。
幻覚。そうかもしれない。三年間、蒼真のことばかり考えて生きてきた。命日の夜、感情が高ぶって、願望が幻を見せた。そう考える方が自然だ。
でも。
澪は自分の服を見下ろした。膝には湖畔の土がついている。濡れたスカートの裾。水に触れた指先は、まだ微かに冷たい。
「……夢じゃない」
小さく呟く。確かにあの場所にいた。確かに水面を覗き込んだ。そして確かに——蒼真を見た。
電車が揺れる。窓の外では、朝焼けが空を染め始めていた。
自宅に着いた時、透子はまだ眠っているようだった。澪は音を立てないように部屋に戻り、汚れた服を着替える。シャワーを浴びる気力もなく、ベッドに倒れ込んだ。
天井を見つめながら、澪は蒼真の笑顔を思い出していた。水面越しの、あの穏やかな微笑み。「澪」と動いた唇。
——もう一度、会いたい。
その想いだけが、放心した心の中で確かに灯っていた。
数時間後、澪は何とか出社した。しかし仕事は全く手につかない。原稿を読んでいても、同じ行を何度も目で追ってしまう。隣の席の先輩が心配そうに声をかけてきたが、「大丈夫です」と答えるのが精一杯だった。
昼休み、澪は近くの図書館に駆け込んだ。
郷土資料のコーナーを探し、月ヶ淵湖に関する文献を片っ端から開いていく。観光案内、地質調査報告、地域の歴史……どれも求めている情報ではない。
三冊目の古い郷土誌を開いた時、澪の手が止まった。
『月ヶ淵湖の伝承』
黄ばんだページに、達筆な文字が並んでいる。
「満月の夜、湖底に鏡が現れ、亡き人の姿を映すと言い伝えられている。鏡に映りし者は、この世とあの世の狭間に留まりし魂なり——」
澪は食い入るようにページを読み進めた。心臓が早鳴りする。やはり、ただの都市伝説ではなかった。古くからの言い伝えが、確かに存在している。
しかし、次の一文で澪の指が止まった。
「ただし、鏡の者に心を奪われた者は、湖に沈むと伝えられる。現世に執着を持つ魂は、生者を道連れにせんとするがゆえ、くれぐれも用心すべし」
——湖に沈む。
警告の意味は明白だった。蒼真に会い続ければ、自分も命を落とすかもしれない。それでも。
澪は本を閉じ、目を閉じた。昨夜の蒼真の笑顔が瞼の裏に浮かぶ。あの穏やかな目。自分の名を呼ぶ唇。
恐怖よりも、もう一度会いたいという想いの方が、遥かに強かった。
「次の満月……」
澪は静かに呟いた。待てばいい。次の満月の夜まで、待てばいい。今度こそ、声を聞きたい。今度こそ、話がしたい。
——三年前、聞けなかった言葉を。
仕事帰り、スマートフォンが震えた。画面に表示された名前に、澪は少し驚く。
『真凛』
「澪ちゃん、今日時間ある? 久しぶりにお茶しない?」
メッセージには、いつもの絵文字がいくつも添えられていた。最近は連絡を取る頻度が減っていたが、真凛の明るさは変わらない。
少し迷ったが、澪は「いいよ」と返信した。昨夜のことを誰かに話したいわけではない。でも、一人でいると考えすぎてしまいそうだった。
待ち合わせのカフェに着くと、真凛は既に席についていた。艶やかな栗色の巻き毛が、窓から差し込む夕日に照らされている。澪を見つけると、真凛は大きく手を振った。
「澪ちゃん! 久しぶりー!」
抱きつかんばかりの勢いで迎えられ、澪は少し気圧される。
「真凛、元気そうだね」
向かい合って座ると、真凛はすぐに澪の顔を覗き込んだ。
「最近また元気ないみたい。ちゃんと寝てる?」
「うん……大丈夫」
「嘘。目の下にクマできてるよ」
「ちょっと寝つきが悪くて……」
真凛の声は気遣わしげだ。昔から変わらない、世話焼きな親友の口調。
「蒼真くんのこと、まだ引きずってるんでしょ」
その言葉は、不意に核心を突いた。澪は思わず顔を上げる。
真凛は心配そうな表情をしていた。でも——その瞬間、澪は真凛の目の奥に何かが光ったように感じた。冷たい、金属のような光。まるで澪の反応を観察しているような。
「……真凛?」
「ん? どうしたの?」
瞬きをすると、もうその光は消えていた。真凛は相変わらずの心配そうな顔で、澪を見つめている。
「……ううん、なんでもない」
気のせいだ。そう思おうとした。
「三年も経ったんだし、そろそろ前を向いた方がいいよ」
真凛は優しく言った。
「……うん」
「澪ちゃんがいつまでも辛そうにしてると、私まで悲しくなっちゃう」
「ごめんね、心配かけて」
「謝らなくていいの。ただ、私は澪ちゃんに笑っていてほしいだけ」
「……ありがとう」
「ねえ、蒼真くんだってきっとそう思ってるよ。澪ちゃんには幸せになってほしいって」
澪は真凛の目の奥に一瞬光ったものを思い出しながら、答えた。
「……そうかな」
「そうだよ。蒼真くん、澪ちゃんのことすごく大事にしてたもん」
真凛の声には確かに温かみがある。でも、どこか——押しつけがましさのようなものも。
「真凛は……蒼真のこと、どう思ってた?」
「え?」
真凛が一瞬、固まったように見えた。
「ううん、変なこと聞いてごめん。三人でよく遊んでたなって思い出しただけ」
「……そうだね。懐かしいね」
真凛は微笑んだが、その笑顔がどこか硬い気がした。
「でも過去は過去だよ。澪ちゃんはこれから先のことを考えなきゃ」
「……うん」
「いい人いたら紹介するからね? 私の周りにも素敵な人いるし」
「今はまだ……そういう気分じゃないかな」
「そっか。無理しないでね」
真凛は澪の手を握った。
「私はいつでも澪ちゃんの味方だから」
「……ありがとう、真凛」
「何かあったらすぐ連絡してね? 私、いつでも飛んでいくから」
その手は温かい。昔から変わらない、親友の手。
なのに。
澪は自分でも説明できない違和感を覚えていた。真凛の笑顔が、どこか作り物のように見えてしまう。三年間、自分を支えてくれた親友なのに。
——疲れているだけだ。昨夜、一睡もしていないから。
澪は自分にそう言い聞かせ、真凛の話に相槌を打ち続けた。
帰宅すると、透子がリビングでテレビを見ていた。
「おかえり」
「ただいま」
「真凛ちゃんと会ってたの?」
「うん。久しぶりに」
「そう」
透子の声には、何か含みがあるように聞こえた。しかし澪は深く考えず、自室に向かった。
「……おやすみ、お母さん」
「おやすみ。ゆっくり休みなさい」
部屋に入り、壁に掛かったカレンダーの前で足を止める。湖畔で月を見上げながら数えた日数を、改めて確認する。
——あと二十九日。いや、もう夜だから、二十八日と少し。
長いようで、短い。約一ヶ月。あの夜から数えて、ちょうど次の月の周期。
澪はカレンダーの日付を指でなぞった。満月の日に小さく印をつける。
郷土資料の警告が頭をよぎる。「鏡の者に心を奪われた者は、湖に沈む」。それでも、澪の決意は揺るがなかった。
蒼真は何かを伝えようとしていた。あの夜、「話したいことがある」と言っていた。死の直前に残した言葉。澪が熱で行けなかったせいで、永遠に聞けなくなった言葉。
——今度こそ、聞く。
澪は机の引き出しを開けた。そこには、蒼真の形見の腕時計が眠っている。三年前の夜、蒼真が死んだ時刻で止まったままの時計。
手に取ると、ひんやりとした金属の感触が掌に伝わる。止まった秒針を見つめながら、澪は静かに呟いた。
「待ってて、蒼真。必ず、また会いに行くから」
窓の外では、細い三日月が雲間から顔を覗かせていた。次の満月まで、あと二十八日と少し。
止まったままの時計を握りしめながら、澪は長い夜を待つ覚悟を決めた。
心の中で、あの一瞬が蘇る。
真凛の目の奥に光った、冷たい何か。
——気のせいだ。きっと、気のせいに違いない。
そう自分に言い聞かせながらも、澪は胸の奥に小さな棘が刺さったような感覚を拭えずにいた。




