仕事への不安で休日が終わっていく|第10話:存在価値
ロフト下の部屋は、昼下がりの光に斜めから射抜かれていた。
突然の来客に狼狽えたイツカは、壊れた柄杓を足先で隅へと寄せる。
溢れた水が床板の溝を這い、古い木目を強調するように滲んでいた。
雑巾をひったくって擦るが、拭いたというより証拠を薄めただけである。
書机の表面には、青い指の気配が残っている。
馬鹿言え。そんな気配などあってたまるか。
さっきまで自分そっくりの輩が腰掛けていたという事実など、
可及的速やかに消し去ってしまいたい。
《睡眠中ログ:1件》
視界の隅で不穏な文字が瞬き、すぐに消えた。
見なかったことにする。
更に戸を叩く音がした。三度。
礼儀正しく、間隔も正確だ。
「機堂先輩。起きておられますか」
ヤクモの声だった。
イツカは濡れた雑巾を桶の縁に引っ掛け、袖を下ろして右前腕の包帯を隠した。
床の水気を足裏で踏んだ瞬間、冷たさが土踏まずから膝裏まで這い上がる。
「どうぞ。見ての通り、大名屋敷ではありませんが」
戸が開き、着古した羽織袴姿の青年が姿を現す。
室内を一瞥したヤクモの眉が、ほんの僅かに動いた。
「……水浸しですね」
「床の拭き掃除をしていたら、桶をひっくり返しまして」
「なるほど」
「それより、上官なんですから、『先輩』はやめてください。呼び捨てで構いません」
昔と変わらない呼び方にイツカは肩を竦めた。
過去にヤクモが後輩だったことと、今の立場は別の話だ。
彼は少しだけ目元を緩めた。
「任務中はそうします」「今も半分任務でしょう」
「では、半分は私用ということで」
さらりと言い切られ、返す言葉が一拍遅れた。
「……長官殿は、部下の扱いが上手くなられましたね」
「先輩ほどではありません」
「だから、その先輩をやめろと」
「休暇中の呼称までは、命令系統の管轄外です」
ああ言えばこう言う。
後輩だった頃から、そういうところだけは変わらない。
イツカの前に折り畳まれた書付が差し出された。
白紙ではない。建国府の公印が入り、朱の細い縁取りがされている。
休暇命令書――見るだけで肩の奥が強張った。
「七日間の休暇を取ってください」
「……は?」
喉の奥で乾いた音が鳴った。
妖狩改方で七日も休める者など、重傷者か死人か、あるいは上層部の縁者だ。
残念ながら、そのどれにも当てはまる覚えはない。死人については、希望だけなら少々あるが。
無論、休み自体はありがたい。だが七日も?
その間、持ち場は誰が埋めるのか。
斬業の穴を押し付けられた者が、怨嗟の声を上げる様子が見える。
あるいは……何事もなく回るのか。
その想像の方が、胸の奥を嫌な感じに撫でた。
機堂イツカがいなくても、妖狩改方は回る。
妖怪は斬られ、報告書は上がり、かわら版は何食わぬ顔で次の事故件数を流す。
サクジが死んだ昨夜だって、そうだ。
弥栄サクジ。
この間まで肩を並べて刀を振るっていた、年上の同期。
齢三十六だと言っていたが、頬はこけ、目尻には深い皺が刻まれていた。
老け顔のおっさん兄貴、という言い方が一番しっくりくる。
夜勤明け、安い酒を片手にぼやく姿を何度か見た。
愚痴は多いが、人を責める言い方はしない男だった。
「娘がね、最近、字を覚えたらしいんです」
そう言った時だけ、サクジの目元は少し緩んだ。
「あと少しで借金も片付きますし。そうしたら、こっちに呼べるかなって」
その先を、最後まで聞いた記憶はない。
聞くまでもなく、そういう話は大抵同じ場所へ行き着く。
誰かが生きる理由を語る。その数日後には、認証キーだけが掌に残る。
誰かが死んでも、翌朝には巡回表が更新される。
欠員欄には代替者の名前が入り、残務は別の誰かへ割り振られる。
自分がいなくても、きっと世界は滞りなく続いていく。
腹立たしいほど、正しく。
「ここ七十二時間、先輩のバイタルサインに乱れが出ています。
演算負荷の上昇、睡眠中の異常ログ、右前腕の損傷。通常なら検査扱いです」
「通常なら……ということは?」
「休暇にしました。検査扱いにすると、上に余計な照会が残りますから」
ヤクモの声は穏やかだった。
特に責めているわけでも、急かしているわけでもない。
検査ではなく、休暇。
選べる手続きの中から、上層部の目につきにくいものを選んでいるらしい。
助けられているのか、問題を棚上げされたのか。おそらく、その両方だ。
「それで現場は回るんですか」
「そこは僕がやりくりします」
「大丈夫、ではないですよね」
「そうは言いません」
イツカの疑問に対し、ヤクモは書付の端を指で押さえながら目を伏せた。
大丈夫ではないという表現に、僅かに安堵した自分がいる。
「今いる者だけで無理に回せば、また誰かが壊れます。
だから、段取りを変えます。出動基準、救援の優先順位、夜間帯の巡回密度。
猿股前長官の頃に積み上げてしまった無理を、一つずつ解決していきます」
前線で戦う者としては、ありがたい話だ。
しかし、現場の負担がそのまま消えてなくなるわけではない。
「それはそれで別の仕事が増えませんか?」
「最初は増えます、主に僕の業務が」
ヤクモが僅かに口元を緩め、イツカは肩を竦めた。
「正直で何より」
あの頃のようなやりとりだった。
改めて書付を見下ろす。朱の公印はやたらと鮮やかだった。
自分の休暇を認めるために押された印が、一瞬だけ廃棄札の印影に見える。
きっと、疲れているのだろう。
ヤクモは入り口近くに立ったまま、少しだけ姿勢を正した。
「妖狩改方は現場を使い潰しすぎました。
誰かが死ぬたび、残った者が穴埋めをして壊れる。新兵は続かず、また誰かが壊れる」
「昇進したのに現実的というか、夢がないというか……」
「今のまま続ければ、組織として遠からず瓦解します。僕の仕事は夢ではなく、修理です」
修理――その言い回しに、イツカは口を噤んだ。
正義だの、誇りだの、名誉だの、そういったお気持ちではない。実体のある言葉。
欠けた歯車を外し、割れた軸を替え、軋んだ機構に油を差す。
そうしなければ、次の誰かが潰れる。ヤクモは本気で、それをやるつもりらしい。
「いずれ僕は、『雲龍の間』へ上がります」
それは昇進を重ね、建国府の幹部になることを意味する。
彼は淡々と続けた。
「現場を知らない者ばかりが、人の損耗を数字で処理する。
なら、現場を知る者が上に行くしかありません」
寮の薄い壁を隔てて、誰かの咳が聞こえる。
床板の水はまだ乾かない。
昼の光がヤクモの肩に落ちていた。
建国府内の権力を手に、その仕組みをを変えようとする。
その事実に、胸の奥のどこかが妙に居心地を悪くした。
「……君が偉くなるまで、死なないようにしないとね」
口に出してから、喉の奥が乾いた。ヤクモも少しだけ驚いた顔をした。
生きたいと思ったわけではない。
明日が来ることを、急に喜べるようになったわけでもない。
ただ。後輩がそこに辿り着く景色を、少しだけ見てみたくなった。
「では。そのためにも七日間、休んでください」
話が振り出しに戻り、イツカは思わず笑った。ヤクモも釣られて笑った。
その笑みは以前と変わらないようで、あの頃よりずっと遠かった。
彼はもう、イツカの背中を追いかけていた新兵ではない。
命令書を持って、こちらを休ませる側の人間になっている。
イツカは書付を摘み上げた。
紙は軽い。だが、持った指先に妙な重さが残る。
「畏まりました。七日間、立派に無職を務めます」
「食事は取ってください。できれば寝てください。具足の修理はこちらで手配しておきます」
「至れり尽くせりですね。ついでに葬儀の段取りもお願いします」「それは却下します」
即答すぎて、少しだけ笑いそうになった。
去り際に一度、ヤクモは室内へ視線を走らせる。
それから頭を下げて、戸を閉めた。
壊れた柄杓。乾かない床。包帯は隠したはず。見られて困るものはない。
足音が遠ざかる。規則正しく、迷いがない。
やがてそれも寮の生活音に紛れ、部屋には昼のぬるい光だけが残った。
イツカは命令書を書机に置いた。
七日間の休暇。
壊れる前に休めという、制度からの御慈悲。
さっきまで誰かが座っていた書机は空だった。
空のはずだった。
「「それが――わたしの選択ですか?」」
その声は、耳元ではなく胸の奥から聞こえた。
イツカは振り向きも、返事もしなかった。ただ命令書を見下ろした。
白い紙。朱の印。認められた七日分の空白。
その空白の中で、これから何をすればいいのか。
考えようとして、やめた。
肩の力が抜け、ふくらはぎに鈍い疲れが戻ってくる。
食えばいい。寝ればいい。休みが終われば、また戦う。
そのためには七日後、以前より存分に戦える状態へ戻っていなければならない。
そう考えた時点で、休暇はもう休暇ではなかった。
それができるなら、誰もこんなに壊れていない。
《休暇処理:承認済》
《稼働停止推奨:167:59:59》
HUDの数字が親切に減算を始めた。
イツカは濡れた床を跨ぎ、柄杓だったものを拾い上げる。
手の中の木片は、思ったより冷たかった。
次回:Chapter1.11「櫛に至る病」
この戯作は、人を資源にする制度と、数えられなくなった者の物語です。続きが気になったら、スキやフォローで追って頂けますと幸いです。




