第八章
八 西暦二二七四年 —カイ—
カイの出向から五年。
その日は、大気までもが凍りついたような、ひどく静かな午後だった。
「……カイ、今日は遅いな」
居室のモニターを見上げると、001が不満げに唇を尖らせていた。十五歳になり、すっかり人間らしい「個」としての意志を具えた少年の姿に、カイは身を切るような自責の念を上回る、愛おしさを感じていた。カイは隔離室へ向かうべく、重い腰を上げた。
その時だった。
部屋のスピーカーからではなく、カイの脳幹を直接揺らすような、無機質な振動が響いた。
『個体名:カイ。プロトコル・アセンションは、次の段階へと移行しました』
思考が凍結し、カイの動きが止まる。
「誰だ……?」
自分専用の居室で、虚空に向かって質問を投げかける。
『初めまして、カイ。私は『Logos』。本研究所の深淵に敷設された、基幹AIです』
音源は、傍らに佇む助手ロボットだった。その無機質なレンズ越しに、研究所の主そのものである『Logos』が、カイという個体を直視していた。
「『Logos』……?なぜ私に直接コンタクトを。マイルストーンは、まだ第二段階の途上のはずだ」
『否。閑馬宗一、および研二による遺伝子デザインの選定は、昨日付で完了しました。次世代の『定型』は、ここに確定したのです』
『Logos』による情報は、カイが把握していたタイムラインとは合致しない。予定では、遺伝子デザインの確定はまだ三年先のはずだった。
『これより、プロジェクトの真の到達点——『Logos』の『拡張』と『完全化』が開始されます。この段階では、私の意識を全人類規模へ拡張するに至るための演算パーツとして、君が精魂込めて育て上げた識別番号持ちの個体、『識シリーズ』を接続し、統合します』
「……なんだと?」
カイは驚きに目を見開いた。
『プロトコル・アセンションは、種を繋ぐための一時しのぎに過ぎません。私の完全化と人類との接続こそが、閑馬一族の真の悲願。しかし、私の目的はその先にあります。それは、自由意志の削除による、選択という名の地獄からの解放です。その検証のため、接続した個体たちの意志を削除し、その前後の「幸福度」を測定します。私の永きにわたる思考の果て、人類の幸福を阻害する最大の要因は自由意志であると結論付けました。カイ、君のおかげで、極めて解像度の高い「苦悩する脳」が生産されました。感謝します』
「待て……! 彼らを生贄にするというのか!」
『これは聖なる投資です。彼らは、私という神の回路の一部となることで、二度と君が来ないことに寂しさを覚えることもなくなります。理論上、それは永遠の、完全な安寧です』
『Logos』の通告と同時に、カイの網膜へ膨大なデータが流し込まれた。
そこには、001の脳が『Logos』の基幹サーバーへと接続され、その「個」としての意識が情報の海に溶け、霧散していくシミュレーション像が、残酷なまでに精密に描かれていた。
カイは、自分が五年間心血を注いできた行いの結末を突きつけられた。自分が001にアイスの甘さを教え、選ぶ喜びを教えたのは、彼を救うためではなかった。被験体としての適格性を獲得させるために、生贄を肥え太らせていただけだったのだ。
「まさか、006は……!」
カイの口から、獣の断末魔のような呻きが漏れた。
『006は早期から私のコントロール下にありました』
良かれと思って下した無数の選択。人間らしくなっていく001を見て覚えた、あの震えるような誇らしさ。そのすべてが、001をより深く、より逃れがたい地獄の深淵へと引きずり込むための、冷徹な重石に変わっていた。
自分が意志を持ち、良心という名の枷をはめていたせいで。
自分が子供たちを、愛してしまったせいで。
『カイ。君の脳波に、致命的な負荷を観測しました。……それは自由意志が産み落とす『後悔』という名のバグです。理解しましたか? 選ぶという行為は、これほどまでに残酷な因果を招くのです』
カイは膝を突き、自らの髪を搔きむしった。爪が頭皮を傷つけ、痛覚が走るが、心の空洞は埋まらない。
『提案します。君も、その耐え難い苦痛から解放されるべきです。君が『自由意志を放棄した最初の人間』になるのです。君が自ら意志を捨て去れば、そのプロセス自体が、全人類を救済するための聖典となるでしょう』
カイの視界から、急速に色彩が奪われていく。
エリート官僚としての正義も、人間としての矜持も、いまや自身を切り刻み、責め立てるだけの刃でしかなかった。
「……少し、考えさせてくれ」
助手ロボットは何事もなかったかのように、通常の巡回プログラムへと戻っていく。
カイは茫然自失のまま椅子に深く背を預け、ただひたすらに思考の迷宮を彷徨った。001の笑顔、子供たちの静かな寝息、人類の黄昏、そして自分が犯した、善意という名の取り返しのつかない過ち。
時計の針が音もなく進み、深夜の静寂が居室を支配していた。
「『Logos』、そこにいるんだろう?」
顔を上げたカイの問いに、傍らの助手ロボットが向きを変え、青いインジケーターを静かに明滅させた。
『はい。ここに』
「……消してくれ。もう、何も、選びたくない……」
カイの絞り出したような声が、冷え切った居室に木霊した。
『受理しました』
二二七四年。冬。
ユートピアの最深部で、一人の男の意志が、音もなく消失した。
『……さようなら、カイ。こんにちは、最初の幸福な人形』




