第七章
七 西暦二二七四年 —識別番号:107—
ここは「ユートピア」と呼ばれているらしい。ある意味ではそうかもしれない。ここには無尽蔵に本がある。この研究所に関係のある、生命科学や量子力学、さらには言語学に宗教学、ありとあらゆるジャンルの本が所蔵されていた。本を一冊一冊、頭の中の棚に収めていくように、日々本を手に取っていた。107はその生活に満足していた。
栄養剤を片手に、今日も退屈しのぎに本を読み耽っていると、世話役のカイが部屋の戸を叩いた。
「ここにいたのか」
カイは傍までやってくると、栄養剤のパックを確認し、食事の記録をつけていた。この施設のシステム上、カイとは関わらざるを得ないことだけが不満だった。
「はい、ここにお菓子置いておくね」
自腹を切って実験体にお菓子を与えるような奇怪な男は、事務作業のため居室へ戻っていった。カイがお菓子を渡してきたのはこれが初めてではない。いつもごみ箱に捨てているのを見ているだろうに、来る日も来る日も配りに来る。迷惑な男だ。
いつものように置かれたお菓子を無視し続けていると、ドアの向こうから熱烈な視線を感じた。001が、開いたドアから少しだけ顔を出すようにして、107の手元を凝視していた。107の瞳は、まるで夜空に散らばる星をすべて集めたかのようにキラキラと輝き、その口元からは、いまにも感嘆の吐息が漏れ出しそうだった。
「やるよ」
途端に、星を集めた瞳が弾けた。
「いいの?」
001が恐る恐る近づいてくる。
「俺はいらない」
栄養剤で十分だ。
「ありがとう!」
彼の頬が、一瞬で薔薇色に染まった。そのあまりにも幸福そうな表情に、107の胸の奥が微かに疼いた。
幸福とは何だろうか。
カイが言っていた「楽しそう」というのは、きっと幸福に含まれるのだろう。宗教における幸福の定義は、精神的な充足や、煩悩を無くした悟りの状態を指すらしい。
001は、まるで壊れ物を扱うような手つきで、カイが置いていった小さな銀色の包みを開けた。中から現れたのは、真っ白なクリームが添えられたバニラ味の焼き菓子だった。施設が提供する味気ない合成ペーストとは一線を画す、甘く、芳醇な香りが漂う。001は夢中でそれを口に運んだ。一噛みするごとに、彼の表情は鮮やかに塗り替えられていく。
107は、手元の難解な量子力学の書籍から目を離し、その様子を無機質な観測者の目で見つめていた。幸福とは、所詮、脳内報酬系におけるドーパミンやセロトニンの局所的な濃度上昇に過ぎない。悟りとは、外部刺激に対する神経系の反応閾値が極限まで高まった状態のことだ。二百年以上前からそう言われている。
(くだらない……)
しかし、人間はドーパミンやセロトニンが欠乏すると意欲が低下し、不安や不眠に襲われ、およそ一般的な社会生活を送れなくなる。
(カイの言うことも一理あるか……)
確かに、社会的な生活を送るためにも、人間は幸福であるべきなのかもしれない。ここにいる子供たちが、「人間」として扱われているならば。
107は、自分の思考の矛盾に僅かな苦笑を漏らした。この施設で、自分たちが「人間」として定義されていると信じるほど、彼は愚かではない。彼らは観察対象であり、次世代への踏み台だ。ならば、その部品に幸福などという高価な潤滑油を与える必要がどこにあるというのだろうか。
(やはり、くだらないな……)
思考を遮断するように視線を本に戻すが、活字は滑るだけで頭に入ってこない。無機質な図書室の空気に、先ほど001が持ち込んだ微かなバニラの残香が混じっている。その甘やかな刺激が、107の脳内に消えないノイズを刻みつけていた。
それからというもの、お菓子が配られると、001が107のもとを訪ねることが日課となった。107としては迷惑極まりない存在だったが、追い払うために言葉を費やすのも、それはそれで面倒だった。
ある日、001が注意深く周りを見回してから、こそこそと近づいてきた。その手には、カイから手渡されたばかりの、まだ冷気を纏った小さなカップが握られている。
「ねえ、一緒に食べよう」
そう言って、001は107の返事も待たずに、カップアイスのふたを丁寧に剥がした。ふわりと、人工的ではない本物のバニラビーンズの香りが立ち上がる。
「いらない」
107は本から目を逸らさず、拒絶の意思を短く投げた。空腹感も、味覚への欲求も、彼には一ミリも存在しなかった。
「はい、口開けて」
001の声は、拒絶を全く受け付けていなかった。それどころか、スプーンをさらに数ミリ、107の唇へと近づけてくる。
「帰れ」
107吐き捨てるように言った。しかし、001は折れることを知らなかった。
「107が食べるまで帰らない」
このまま押し問答を続けることにうんざりした107は、しぶしぶ口を開けた。
観念して開けた口に、冷たい銀色のスプーンが滑り込む。その瞬間。ミルクの重厚なコクと、バニラの清涼感のある甘みが、舌の上の受容体を一斉にジャックした。脳が、かつて経験したことのない異常な電気信号を乱発する。
「……っ」
「ね、おいしいでしょ?」
001が、自分が褒められたかのように誇らしげに笑った。その笑顔は、どんなに本を読んでも得られなかった、圧倒的な「答え」を突きつけてくる。
「食べたから帰れ」
精一杯の虚勢を張りながらも、107は自分の心拍数が予測値を超えて上昇していることに気づいていた。手元の本に視線を落とすが、指先は微かに震えている。「幸福」の正体が、今、この狭い図書室で、隣り合う二人の間にだけ、微かなバニラの香りを伴って顕現していた。
「いつもお菓子をありがとう」
001はそう言って、悪戯が成功した子供のように屈託なく笑った。
その言葉は、感謝というよりも、107という存在の根幹を肯定する福音のように響いた。107は返事をしなかった。いや、喉が強張って、声が出なかった。
そんな107を見て、001は満足そうに席を立ち、軽やかな足取りで図書室を去っていく。ドアが閉まる小さな音が、静寂に波紋を広げた。
一人残された107は、自分の内側で何かが決定的に書き換えられたのを感じた。




