第九章
九 西暦二三二七年 —識—
学校で豪と対峙したあの日から数か月、同学年の適合者の面々は全員Q-Synchroの適用が完了し、卒業を迎えた。学生は、卒業後、一年間の就職斡旋期間を経て就業する。
卒業してからは、陽と会う口実がなくなり、会う頻度は今までになく低い。学校や施設という共通項がなければ、会うことすら難しい。隣にいることが当たり前だった陽でさえ、今は傍にいないのだ。現在の識の社交頻度はゼロに等しかった。
就職斡旋機関からの帰り道、久しぶりに豪と鉢合わせした。面倒なことになると思い、迂回しようとした瞬間、豪の視線が識を捉えた。
「久しぶりだな、識」
豪の瞳からは、かつて識を責め立てたあの粗暴な濁りが完全に消え失せていた。代わりに宿っていたのは、不気味なほどに澄み渡り、「正解」だけを冷徹に確信した計算機のような光だ。
彼はもう、識を蹴ることも、大声で怒鳴ることもなかった。
「識、そこに立っていると後続の歩行効率が低下する。右へ三十センチ移動しろ。それが社会全体の利益だ」
淡々と、事務的に、彼は正論だけを吐く装置になっていた。適用者とは、こんなにも無感情だっただろうか。識は急速に違和感を覚えた。いや、彼だけではない。ここ数か月の記憶を掘り起こす。適合判定を受けたであろう母校の教員、職業斡旋機関の担当者、面接担当官たちも異様に機械的だった。
適用者は次々と、個人の感情を「ノイズ」として切り捨て、『GAIA』という巨大な知性に思考を委ね始めていた。世界が、急速に「正解」だけで塗り固められていく。その均一で白い静寂が、一番近くにいたはずの彼女をも侵食し始めた可能性に思い至ったとき、識の心臓は氷を押し当てられたように冷たくなった。
「陽……!」
識は豪を無視し、その足で陽の自宅に駆け込んだ。呼出し通知を入れると、陽はすんなりとドアから顔を出した。陽は適用者専用の白いデバイスを耳に装着していた。
「あ、識ちゃん。急にどうしたの。とりあえず、中に入って」
陽の瞳には、まだ、識の知っている「色」が残っていた。豪のような無機質な透明感ではなく、識と会えた喜び。
「良かった。最近、識ちゃんに会っていなくて、寂しかったの」
会えて嬉しい。陽はそう言って、甘ええるように識の袖を掴んだ。その指先の微かな震えが、彼女がまだ「人間」の側に踏みとどまっている証拠だった。
彼女はまだ侵食されていない。このまま別々の場所で過ごせば、次に会うとき、彼女はもう識の名前を呼ぶ「陽」ではなくなっているだろう。浸食を食い止めるならば、今しかない。
「陽、一緒に暮らさない?」
識の口から出たのは、縋るような思いの提案だった。できることなら、彼女の「感情」を守りたい。それが叶わないのならば、せめて、できるだけ長く陽と一緒にいたかった。
「え……?」
「斡旋期間内に、施設から融通してもらっている今の家はお互い出なきゃいけない。だから、また一緒に住もう。あの頃みたいに」
陽は一瞬、デバイスを明滅させ、それから少しだけ困ったように笑った。
「……識ちゃんらしい。うん、そうだね。私も、識ちゃんの傍にいたいな」
その後、識と陽はふたりで新居を探し、同居を始めた。あの時の言葉が『GAIA』が出した解ではなく、陽が出した答えだと信じて。




