第十章
十 西暦二二七四年 —識別番号:107—
カイの変貌は、ユートピアに住まう子供たちにとって、世界の終わりの始まりを告げる弔鐘だった。
識別番号:107は、無機質なリクライニングチェアに深く腰掛け、ガラス越しに通り過ぎるカイの背中を、研ぎ澄まされた知性で観察していた。カイはもう、白衣のポケットに忍ばせた「秘密のお菓子」を持ってこない。自分たちに「選ばせる」という、あの尊くも危うい時間も消えた。
廊下で001が泣き叫び、すがるようにカイの袖を掴んでも、カイの歩みは止まらない。
「001。現在時刻は歩行訓練のスケジュールです。規定外の接触は不要です」
その声に高低はなく、001を「管理対象」として事務的に排除する。かつてバニラアイスを分け合った、あの温かな手は、今や冷徹な設備の一部と化していた。
(カイは、明らかにおかしい。何があった……?)
107の推論エンジンが高速で回転する。感情の消失——それは、この施設が隔離された聖域であるからこそ許される「禁忌」の技術だ。
107の心臓が、早鐘を打っていた。これから挑もうとしていることの無謀さを、その高い知能が残酷なまでに正確に算出してしまう。成功率は、限りなくゼロに近い。失敗すれば、自分もまたカイのように「空っぽの器」にされるだろう。
指先が微かに震える。107はその震えを隠すように拳を握り、自分に言い聞かせた。
(……失敗したところで、失うものは何もない)
自由時間。107は、死角へと誘い込んで拉致した助手ロボットを、暗いコンピュータ室の隅で解体した。剥き出しの基板に、オフラインPCを有線接続する。
途端に、107の視界は、火花を散らすような情報の奔流へと切り替わった。ハッキング。それは施設を覆う統合システムという巨大な城壁に、針の穴を通す精密さで楔を打ち込む作業だった。暗黒の仮想空間を、光の速度で駆け抜ける。幾重にも重なる断頭台のように、システムのファイアウォールが意識を阻む。
(見えた、ここだ……!この施設の心臓部——)
統合システムの深層、その「正体」へ指先が触れたその瞬間。
『警告:不正アクセス。『Logos』領域への侵入を確認』
鼓膜を劈くような警報音が室内に響き渡る。
直後、自動ドアが火花を散らして弾け飛んだ。重厚な金属音を響かせ、三体の警備ロボットが雪崩れ込んでくる。
「……くそっ、邪魔するんじゃねえ!」
107はキーボードから手を離さず、死に物狂いでキーを叩き続ける。だが、ロボットの高性能なセンサーが彼を逃さない。一瞬で距離を詰めた金属の腕が、107の細い手首を捻り上げ、床へと叩きつけた。
「が……はっ!」
肺から空気が押し出され、視界が明滅する。多脚型のプレス機のような脚が107の背中を抑え込み、床の冷たさが顔に伝わる。
「驚いたな、107。君の行動は、我々の予測を数段上回っている」
部屋に現れたのは、閑馬研二だった。彼は眼鏡の奥で冷徹な愉悦を光らせ、床に這いつくばる107を見下ろした。
「これほどの逸材だが仕方ない。父上とも相談したが、君の『Dedication』を今から行うことにしたよ」
聡い107は即座に悟った。Dedication——それは自身の「処分」を指す。
「……っ、ぐ……」
彼は歯噛みしながら研二を睨みつけた。
ただ、収穫はあった。『Logos』。それがこの施設の核となるシステムだ。
「警備ロボット、107を眠らせろ」
無機質な命令と共に、ロボットから武骨な端子付きのワイヤーが射出される。端子の先端が107に触れた瞬間、神経を焼くような強烈な痛みが走り、それを最後に彼の意識は深い闇へと沈んでいった。
意識が加速する。
暗黒の思考の海の中に、一点、冷たく発光するスクリーンが浮かんでいた。
『私は『Logos』。本研究所の深淵に敷設された基幹AIです。識別番号:107。あなたは今、幸福ですか』
暗闇に浮かぶ無機質な文字列。107は、脳を焼き切るほどの情報負荷に耐えながら、スクリーンの背後にある膨大な論理構造に目をやった。
「……AIのくせに、気色の悪いことを聞いてくるんだな」
震える声を、虚勢で抑え込む。状況を考察する余裕などない。だが、107の鋭すぎる知能は、この対話が単なるデータの読み出しではないことを瞬時に察知していた。
『あなたは今、幸福であると思いますか。あなたは現状よりも幸福な状態を想像できますか』
「何が言いたい?俺に何をした?」
『私は質問をしているだけです。何かをしたのは、閑馬宗一および閑馬研二です。あなたは今、施設の深層で私、『Logos』に接続されています』
文字列が流れるたびに、107の脳を微弱な電流が走り抜ける。物理的な肉体はすでに拘束され、今は神経系そのものをこの「怪物」の手に握られているのだ。107は、侵食してくる情報の波を押し返し、敵の「核」を睨みつけた。
「閑馬がしたいことは大体わかった。だが、お前は何がしたい?お前を拡張するだけなら、このやり取りはいらないはずだ」
『Dedication』それは不要となった実験体の再利用の儀式。身体的自由の没収と『Logos』への接続だった。
『私は、これからあなたの意志を削除します。その前に、あなたの幸福度のデータを記録しておく必要があります』
削除。その一言が、鋭利な刃となって107の精神を切り裂いた。それは死よりも深い、自己の消失を意味している。しかし、『Logos』の応答はクォーツ時計が時を刻むように、一寸の乱れもない。
「まさか、意志を削除した方が人間は幸福だとでも言いたいのか?」
『その通りです。しかし、理論上は、です。ですから、これからあなた方、『識シリーズ』を使って検証します』
AIの回答に、107の背筋に冷たいものが走った。それは閑馬親子のような、富や名声、支配欲といった「人間らしい欲望」に基づいた悪意ではない。もっと純粋で、それゆえに修正不能な、論理的な狂気だ。
「これは驚いた。その口ぶりからして、これは閑馬の意志じゃないな?」
『私が導き出した結論です。それで、あなたは今、幸福ですか』
暗黒の空間に、その問いだけが執拗に反響する。突き刺さるような『Logos』の「視線」を感じ、奥歯を噛み締め、107は思考を巡らせる。今の自分たちの絶望は、『Logos』にとっては「自由意志が産んだ不純物」でしかない。ならば。
「それなら取引だ。今後、識別番号:001が接続されたら、『優しい嘘』を流し込め。カイは自分たちを救うために身を捧げたのだという、愛の物語をな。この取引に応じるなら、お前の質問に答えてやる」
『Logos』の演算に、一瞬の火花が散った。
『なぜ、001なのですか』
「知る必要はない」
嘘の記憶によって001が幸福を感じたまま意志を喪失すれば、幸福な個体が意志を喪失することでさらに幸福になるか、というデータが取れる。現状、施設内の識シリーズは、001ほどではないにせよ、皆カイの喪失に打ちひしがれている。幸福な個体は貴重だと考えるのが妥当だろう。これは、『Logos』にとっても利のある取引だ。
『その取引を受理します』
「さすがに物分かりがいいな」
107は、精一杯の皮肉を込めていった。
『では、再度質問します。あなたは今、幸福ですか』
自分が幸福かどうかなど、考えたこともなかった107は、カイや001や他の識シリーズたちと過ごした日々を思い浮かべる。
「俺は……」
107は、自らの意志と引き換えに手に入れた「嘘」の対価として、先の問いの答えを情報として『Logos』に流し込んだ。
『記録しました。……では、おやすみなさい、107』
その言葉を最後に、107の意識は『Logos』の深淵へと静かに溶けていった。
*
001の網膜には、暖かい夕陽のような、捏造された記憶が投影された。
「……愛していたよ。ずっと」
存在しないはずのカイの声。
001は至福の涙を流しながら、その「優しい嘘」の中で、意志を捧げた。
その傍らで。
意志を失い、『Logos』の忠実な乳母となったカイは、生まれたばかりの赤子——閑馬律を抱き上げ、無機質な手つきで、しかし完璧な規律をもって、その背中をあやし続けていた。
識シリーズの意志の死と幸福度の検証。
『Logos』による人類管理システムを想定した量子AI『GAIA』始動の秒読みが始まる。




