第十一章
十一 西暦二三二七年 —識—
それからの数か月は、とても幸福で、あまりに残酷なカウントダウンの日々だった。
識と陽は朝、一緒に不格好な目玉焼きを食べ、夜は施設の頃のように一つの毛布にくるまってその日あったことと、懐かしい昔話をした。
狭いアパートのベランダで、陽と安物のバニラアイスを一つのカップから分け合って食べる。
「識ちゃん、一口ちょうだい。……あ、多い! 識ちゃんの一口、いつも大きいんだから」
陽がいたずらっぽく笑って、識の鼻先に冷たいクリームをつけた。
施設の頃、消灯時間を過ぎてから二人で布団を抜け出し、分け合った安物のアイス。あの時の人工的なバニラの香りは、識と陽にとって自由と秘密の共犯の象徴だった。
「あの時、先生たちに内緒で食べたアイス、美味しかったね」
「うん、バニラの味がした」
そんな他愛もない会話を交わしながら、識は陽の中に残る「人間」の部分を必死に繋ぎ留めようとした。
「……識ちゃん、もし私がいなくなっても、一緒に食べた、このバニラの味だけは忘れないでね」
陽がふと漏らしたその言葉に、識は何も答えられなかった。陽は、自分が『GAIA』の波に飲まれ、個を失っていく予感に怯えていたのだ。識はただ、溶けかかったアイスの甘さを舌に刻みつけることしかできなかった。
最適化の波は容赦なく陽を飲み込んでいった。
ある日の朝、陽は識が焼いている目玉焼きを見て、呟いた。
「識ちゃん、もう少し火を弱めたほうが綺麗な目玉焼きが焼けるよ」
また別の日、昔話をしていた陽が、唐突に口を閉ざした。
「……識ちゃん、ごめんなさい。このエピソードはもう一年前に話したね。二回も話す必要はないよね」
彼女から、思い出話が一つ、また一つと削ぎ落とされていく。感情の機微を映していた彼女の瞳は、日に日に豪と同じ「正解の光」へと塗り替えられていった。識の目の前で、陽という人格が、『GAIA』という巨大な海に溶けて、消えていく。
そして、斡旋期間が終わる前夜。
陽は識の隣で、お手本のような上品な笑顔を完璧にトレースして微笑んだ。
「識ちゃん。私、明日からボランティアセンターで働くことになったわ。これが私の最適解みたい」
その声には、もはや識への親愛も、自分を失うことへの恐怖もなかった。そこにあるのは、ひたすらに満足のみ。『GAIA』に支配されるアンドロイド。ドール・フェイズの完成だった。
識は、隣で静かに眠る「陽」だった個体を見つめながら、幸せだった陽との思い出を浮かべて、涙を流した。
さようなら、陽。あなたは、世界の一部になってしまったんだね。
それであなたが幸せになるなら、それでもよかった。
——でも私は、それがあなたの幸せだとは思えない。
隣で眠る陽の頬を愛おし気に撫で、静かな決意とともに行動を開始した。




