第五章
五 西暦二二六九年 —カイ—
宗一との対峙から数ヶ月が経ち、カイは自分なりの「戦い方」を確立していた。それは、この無機質な監獄の中に「人間」を取り戻すという、あまりに無謀で、しかし官僚としての矜持を懸けた挑戦だった。
施設で勤務するカイの白衣のポケットには、常に小さなメモ帳と、私物のお菓子が忍ばされるようになった。
「……さあ、001。今日はどっちにする?」
カイは、子供たちの前に二つの選択肢を置くのが日課となっていた。一つは無機質な栄養剤のパック。もう一つは、自分のオフィスから持ってきた、市販のお菓子だ。
当初、子供たちの指先は迷うように空を泳ぐだけだった。しかし、カイが根気強く「選べ」と指示し続けた結果、三ヶ月が経つ頃には、001をはじめとする子供たちは皆、自らの意志で、その日食べたいと感じる方を掴むようになっていた。
この日のお菓子は、控えめな001が最も反応を示したバニラアイスクリームだった。
冷たく、暴力的なまでに甘い香料の刺激。
「……おい、しい」
初めてその言葉が漏れたとき、カイは震えるほど感動した。それは『Logos』が定義する「正常なバイタル」を大きく逸脱した、剥き出しの感情の発露だった。
カイはさらに「選択」を畳みかけた。
「001、今日の服は青がいいか、白がいいか?」
「散歩のルートは、右回りか、左回りか?」
「寝る前に聴く音は、雨の音か、波の音か?」
001は次第に「うれしい」「もっと」「カイ、こっち」という言葉を覚え、感情を爆発させるようになった。
ある日、カイが少し遅れて部屋に入ると、001は顔を真っ赤にして泣きじゃくっていた。カイの姿を見るなり、不器用な足取りで駆け寄り、その白衣の裾をぎゅっと掴んだ。
「……おそ、い。カイ、おそい」
その抗議の言葉すら、カイには至上の喜びだった。自分がこの子を「実験体」から「一人の人間」へと引き戻したのだという確信。カイは、泣き顔の001を抱き上げ、その小さな背中をさすった。
「すまない、001。次は、君が好きなバニラアイスを持ってこよう。約束だ」
カイは、子供たちに意志を与え、選択させることに、救いを見出していた。二人の間に、研究所のルールを逸脱した「思い出」が積み重なっていく。
監視カメラの死角で、隠れて食べるアイスの味。宗一に無断で、網膜投影の壁紙を「ひまわり畑」に変えて見せたときの、001の驚いたような瞳。001が初めてカイの似顔絵らしきものを、デジタル端末の隅に描いたときの誇らしさ。
カイは熱に浮かされたように、子供たちの人間らしさを育むことに没頭した。
官僚としての冷静な判断力は、次第に「001の笑顔」という麻薬により麻痺していく。001が笑えば、それが正解だ。001が選べば、それが正義だ。
カイが「選択」をさせるたびに、001の思考リソースは、本来の演算目的ではなく「個人の嗜好」へと浪費されていった。
『『Logos』:識別番号001の神経回路に、設計外の複雑な分岐あり。……個体名:カイによる『自由意志』の植え付けを確認』
助手ロボットの赤いセンサーアイが、二人の睦まじい光景をじっと見つめていた。
カイはまだ気づいていなかった。自分が001に与えている「選択」という名のギフトが、実は001の脳を、『Logos』にとって最も価値のある「高解像度な意志具有サンプル」へと熟成させているに過ぎないということを。
「001、明日は何をしようか。君が決めていいんだよ」
カイは、001の柔らかな髪を撫でながら、満足げに微笑んでいた。
その白い部屋には、かすかに甘いバニラの香りが漂っていた。




