第四章
四 西暦二二六九年 —カイ—
「モニターから様子を見させてもらっていたが、実に非効率な動きだな。官僚の期待の星も、現場ではただの素人に成り下がるか」
子供たちの世話をするカイの背後から響いた、氷の柱を突き立てるような冷徹な声。
カイは心臓が止まるかと思い、跳ねるように振り返った。そこには白衣を纏い、眼鏡の奥で底知れぬ知性を光らせる男が立っていた。
閑馬宗一。
この「ユートピア」の絶対的な主であり、カイが担当するはずだった『プロトコル・アセンション』の、本当の意味を知る唯一の男。
「閑馬博士……」
疲労と驚きに震えるカイの声は、白い空間に溶け込み、消えた。立派なキャリア官僚としての威厳など、欠片も残っていない。
「これは、一体どういう嫌がらせでしょうか。私は本省から、『プロトコル・アセンション』の設計と推進のために派遣されたはずです」
宗一はカイの言葉を鼻で笑い、無造作な足取りでリクライニングチェアの間を歩いた。その皴のある冷たい手が、識別番号:001の頬をかすめる。
「ああ、確かに君は推進している。人類を『次のフェーズ』へと導くために。君が今、その手で拭っている汚物も、流し込んでいる栄養剤も、すべては新人類を組み上げるための工程表の一部だよ」
宗一は一歩踏み出し、別の子供の頭に手を置いた。子供は表情一つ変えない。まるで、そこに石像が置かれているかのような無機質な光景だった。
「カイ君。君は、世間の連中と同じように、『プロトコル・アセンション』が、『個人の才能を伸ばすための福祉』だと本気で信じているのかね?」
「……何をおっしゃっているのですか。国会で議決された予算案でも、そのように言及されています。この国の子供たちが情報の波を乗りこなすための知性を得る。それが市民の総意であり、我々官僚の正義です」
「予算案か。そんなものは、死に向かう大衆を安らかに眠らせるための子守唄に過ぎん」
宗一の瞳が、獲物を射抜く猛禽のように鋭くなった。
「現実はこうだ。学者が危惧する通り、人類の脳はもう保たない。個人の才能程度では、この濁流は防げん。人類が生き残る道はただ一つ。……『デザイナーベビー』計画。君も聞いたことがあるだろう。遺伝子操作で人類の脳をより高次元な『超高効率脳』へとアップデートする。それが、私が密かに準備を進めている真の『プロトコル・アセンション』だよ」
カイは息を呑んだ。デザイナーベビー。受精卵の段階で遺伝子を弄り、意図した形質を持たせる禁忌。
「……それは、倫理的にも法的にも禁じられているはずです」
「だが、今やそれしか道はない。事態は一刻を争う」
宗一はカイの目を真っ向から見据え、淡々と狂気を語り続ける。
「人間の脳は未解明な部分が多い。私も日進月歩でね。ここにいる子供たちは全員デザイナーベビーであり、私の実験体だ」
「な……そんな違法なことが、認可されるはずが……!」
カイの叫びに、宗一は冷笑を浮かべた。
「認可されているから、私がここにいる。外で『優しさ』に浸りながら、自覚のないまま溺死していく市民を眺めるのが正解か? それとも、ここにいる子供たちを犠牲にしてでも、種としての知性を繋ぎ止めるのが正解か? ……有能な君なら、どちらが『合理的』か、理解しているはずだろう」
宗一はカイに歩み寄り、その震える肩を強く掴んだ。
「カイ君。君がここに呼ばれたのは、君が有能だからだ。この凄惨な現状を理解し、感情を排して従事できる知性を持っていると期待された……。この子供たちは、百年後の新人類を支える礎だ。君が今、彼らの世話をしているその手こそが、人類の未来を創っているのだよ」
「…………」
カイはその有能さゆえに、返す言葉がなかった。
「もちろん、耐えられないなら今すぐ辞めても構わない。本省に戻って、未来を救えぬ書類の山に埋もれながら、世界が崩壊するのを静かに待てばいい。……さて、どうする?」
カイは言葉を失った。宗一は、カイの様子に満足げに口元を歪め、カイを置き去りにして、助手ロボットと共に地下のさらなる深淵へと消えていった。
白い空間に、再び静寂が戻る。
カイは自分の手を見つめた。001の温かい腕を拭った、その手だ。このまま辞めてしまえば、自分は楽になれる。だが、その先に待っているのは、かつての同僚や友人が壊れていった、あの「優しい地獄」だ。
情報の濁流に曝され続け、加速度的に増大する精神疾患者と自殺者。
カイの脳裏に、凄惨な未来のビジョンが明滅する。
カイは清潔な床を見つめた。彼の中で、エリート官僚としての「正義」が、人類存続のための「合理」という名の怪物に、ゆっくりと喰い殺されようとしていた。
『『Logos』:個体名カイの脳波に、激しい認知的不協和を確認』




