第二章
二 西暦二二六九年 —カイ—
世界は、静かなる溺死の最中にあった。
百年以上前から警鐘を鳴らされていた「情報の濁流」は、もはや現実の脅威として社会を侵食していた。ネット、網膜投影、脳内インターフェースから絶え間なく流れ込む情報量は、人間の脳が数万年かけて築き上げたニューラルネットワークの限界を、とうに突破していたのである。一部の先鋭的な学者やメディアは、この「情報化社会の限界」を国家存続の危機として連日取りざたしていた。
「人類は、自らが創り出したデータの海で溺死しようとしている」
「脳のキャパシティは限界だ。今すぐ情報の供給を制限しなければ、次世代の精神は崩壊する」
しかし、街を歩く市民たちに、そんな危機感は微塵もなかった。彼らは今の、便利で充足した生活を愛していた。指先一つで、あるいは思考一つで望む情報が手に入る万能感。その代償として、若者たちが次々と精神疾患を患い、認識の混濁に陥るケースが激増していても、社会の反応は奇妙なほど温和だった。
精神疾患はあまりに身近になり、皮肉にも人々の理解はかつてないほど深まった。精神を病み、現実から脱落した隣人に対しても、人々は「少し疲れたんだね」と優しく接し、手を取り合う。それは、種としての死が近づいていることに気づかない、あまりに慈悲深く、あまりに盲目な「優しい黄昏」であった。
そんな、誰もが危機を直視しようとしない生ぬるい空気の中で、政府が「さらなる繁栄」と「子供たちの幸福」を掲げて打ち出したのが、『プロトコル・アセンション』——天性の知能を底上げする、国家規模での最優先プロジェクトであった。
「愛する我が子に、情報の波を乗りこなす最高の知性を」
このスローガンは、不安を抱え始めた人々の心に、福音として響いた。それは危機への対抗策ではなく、あくまで「個人の才能を伸ばすための福祉」として、美しくパッケージングされていたのである。
厚生労働省の若きエリート、カイ・タカセは、若くして最優先施策である『プロトコル・アセンション』の設計および推進担当に抜擢された。国立高度感覚最適化研究所——通称ユートピア。そこへの出向を命じられた際、カイは自分のキャリアが頂点に向かっていると確信した。国家機密レベルの施設。そこでプロジェクトを完遂し、次世代社会の基盤を築く。それが自分に与えられたエリートコースの凱旋門だと信じて疑わなかった。
しかし、研究所の地下深くへ案内されたカイを待っていたのは、想像を絶する光景だった。
無機質な多脚型のカイ専従助手ロボットに連れられ、カイは窓一つない真っ白な「育成セクター」に案内された。そこには、数人の子供たちがいた。彼らは世間で持て囃されている「輝かしい未来」とは似ても似つかない、虚空を見つめる静かな人形のようだった。
「……彼らは何だ?」
カイは困惑とともに口にした。
「当研究所の最重要被験体、識別番号個体群です。カイ様には、彼らの生活指導とデータの記録を担当していただきます」
助手ロボットは、カイの混乱と抗議を完全に無視して立ち去った。自動ドアが閉まる無機質な音だけが、白い空間に虚しく響く。キャリア官僚としての誇りは、ものの一時間のうちにズタズタに引き裂かれた。
「嘘だろ……。私が、これの世話を?」
カイは呆然と立ち尽くした。視界に入るのは、数人の子供たちだ。一見して七歳から十歳ほど。しかし、彼らは騒ぎもせず、遊びもせず、ただ等間隔に配置された白いリクライニングチェアに座り、何もない空間を見つめている。
初日のカイに与えられた仕事は、「排泄物の処理」と「皮膚の清拭」だった。
「こんにちは。今日から君たちの担当になったカイ・タカセだ。よろしく」
努めて明るく、なおかつ「有能な官僚」らしく、一人の少年に声をかけた。識別番号:001。このセクターの最年長らしき個体だ。しかし、001は瞬き一つせず、カイの存在を空気のように透過させた。
手にした温かいタオルでその細い腕を拭う。肌の感触は驚くほど生々しく、温かい。しかし、その奥にある「意志」の脈動を、カイは一切感じ取ることができなかった。
赴任から三日が過ぎた。
カイの指先は、排泄物を受け止めるパットを交換する手つきに、嫌なほど慣れ始めていた。
「今日の食事は……またこれか。味気ないな」
無機質なアルミパックに入ったペースト状の栄養剤を、スプーンで子供たちの口へ運ぶ。噛む必要すらないその食事を、彼らは機械的に嚥下する。
「なあ、何か好きな食べ物はないのか? お菓子とか、さ」
カイの期待に反し、返事はない。ただ、咀嚼音だけが室内に響く。カイは耐えられなくなり、この研究所の基幹AI である『Logos』へ送信されているバイタルデータをチェックする作業に逃げ込んだ。心拍数、脳波、血中酸素濃度。すべてが「正常」の範囲内で、完璧にフラットな波形を描いている。
赴任から五日が過ぎる頃、カイの精神は摩耗し、焦燥へと変わっていた。
「おい、001。聞こえているか? 001!」
端末に表示されている年齢と比較して、少し幼く見える小柄な少年の肩を揺さぶる。001は首をカクンと倒したが、視線は虚空に固定されたままだ。
「頼むから何か言ってくれ。まるで、人形みたいじゃないか」
か弱い独白は自身の耳に届くだけで、他の誰にも届かない。
子供たちは、時折「同期」したように同時に深く息を吐く。それは『Logos』が彼らの脳に溜まった演算負荷をリセットする合図だということを、カイはマニュアルを読んで知った。彼らは生きているのではない。未来のための礎として、ただ生かされているに過ぎなかった。
赴任から一週間。
カイの制服である高級なスーツは皺だらけになり、袖口にはいつの間にか栄養剤の染みがついていた。鏡を見る余裕すらなく、深夜のバイタルチェックを終えたカイは、識別番号:006が座る椅子の脇に力なく腰を下ろした。
「……情報の濁流か」
ふと、独り言が漏れた。
「外の世界じゃ、みんな優しく手を取り合って、溺死に気づかないフリをして笑っている。でも、ここでは、溺れることすら許されないんだな」
カイは、006が体を沈める椅子の無機質なひじ掛けの上に自分の手を置き、うなだれる。
「だったらここはどうなるべきだと考えているんだ?」
カイは驚きに顔を跳ね上げた。
「え……?」
カイは、初めて聞いた声に、その主が判別できずに呆けた顔をする。
「お前はここがどうなるべきだと考えているのかを聞いている」
先ほどまでまっすぐに前を向いていたはずの006が、気だるげにこちらを見つめており、その声の主が006であると理解する。
「どうって……。外の世界の住人のように、自分の意志で自分のしたいことを……」
「それならお前も、ここがそうなるようにすればいい」
006は遮るように言った。自分のことなどまるで興味がないとでもいうかのように、006の口ぶりは他人事の響きを帯びていた。
「しかし、それは私の考える理想であって、それが君たちの意志に反する可能性があるだろう」
006は鼻で笑った。
「ここに並ぶ人形を見て、意志があるとでも?」
カイはほかの子供たちを見渡した。一週間の記憶のどこにも、彼らの意志は見つけられなかった。
「そうか……。すまない。私は、君たちのことを何もわかっていなかったようだ」
眩暈を起こしそうだった。幼い少年に、自身の浅慮さを指摘された形だが、不思議と嫌悪感はなかった。006と会話を交わした瞬間に、006の知性に敵わないと本能で理解していたからだ。
006は、もう話すことはないと、顔をそらした。カイは、これから自分がこの無垢な子供たちのためにできることを想像し、身震いした。




