第一章
どれだけ技術が発達しようとも、やはり人生は一度きりだった。
西暦二三二六年、アセンション・デイ。
量子AI『GAIA』が、私と陽の運命を、0と1の境界線で切り裂いた。
「陽:適合」
「識:非適合」
診断パネルに表示されたその無機質な文字が、私たちの未来を、地獄へと放り込んだ。
一 西暦二三二六年 —識—
識の人生はいつも通り退屈で、その日も退屈な授業の合間、昼休みにバニラアイスを口にしていた。
「識ちゃん、好きだね。バニラアイス」
「うん」
識にとって、バニラアイスは、幼少期に共有した、陽との甘い思い出の味だった。
「私にも一口ちょうだい」
陽は手製の弁当を食べ終えると、識が手にしたバニラアイスを強請った。いつも通りの陽に、識は口元に優しい笑みを浮かべた。
同じ記憶を思い起こしたのか、陽も楽しそうに笑う。
識は慣れたように陽の口元にスプーンを運んだ。
「ん。おいしい。ありがとう、識ちゃん」
冷たいアイスの爽やかさは、この日のすっきりと晴れた空のようだった。
国立高度感覚最適化研究所は、天才科学者閑馬宗一によって創設された、国家の威信を詰め込んだ最先端の研究所だった。その研究所が運営する児童養護施設で育った識は、幼少時より並外れた知能を有していた。ゆえに、周りの子供たちが退屈に思えてならなかった。識は、面倒ごとに巻き込まれないように、周囲から距離をとり、大人たちに逆らわないように過ごしていた。先生たちによる教育の合間には、自由時間が設定されていた。周りの子供たちはその時間を心待ちにしているようだった。この施設に所属する子供たちは、隣接する研究所の図書室から本を持ち出すことが許可されていた。識は、何をするでもなく、ただ図書室から持ち出された教材を捲っていた。そんな識に、周りの子供たちは次第に興味を失っていった。
ある日、先生が同年代の子供を連れて来た。顔色の明るい、小綺麗な子供だった。この施設では珍しいことだ。ここへ来る子供たちの過去は、決して明るいものではないからだ。その子の名前は、陽というらしい。陽はすぐに施設に馴染んだ。この施設では珍しいタイプの陽は、子供たちの興味を多分に引き、あちこちから引っ張りだこだった。しかし、誰とでも仲が良い陽は、何故か識を選んだ。
「識ちゃん」
「なに」
識は緩慢に声の主を見上げる。
「ずっとお話してみたかったの」
陽は識の横に座り、春の陽気のように朗らかな顔で笑った。
「識ちゃんは、いつも何を読んでいるの」
「先生に渡された教材」
当たり障りのない会話だけれど、彼女の優しげな雰囲気に中てられて、つい返答してしまう。少し陽の側に教材を寄せると、陽がのぞき込んできた。
「量子力学かあ。識ちゃんはすごいね」
この施設にいる子供と初めて会話を交わした。
それからも、陽は毎日話しかけてきて、それに返答するという無為な行為を繰り返した。次第にその時間は長くなり、返答に質問が混ざるようになっていった。陽の話によると、陽の母親はすでに亡くなっており、父親の都合でここに預けられたとのことだった。たまに父親に面会しに行く様子から、愛されてはいるようだ。一方で、識の過去はこの施設にしかなく、話す内容は特になかった。しかし、識が話をすると陽が嬉しそうに聴くので、会話をすることは嫌ではなかった。
十五歳になったころ、識と陽は施設を出た。外部の学校へ進学し、十八歳時に行われる適合検査に向けて、学校での日々を過ごした。施設の外でも識の日常は変わらなかった。周りの同年代の人間は退屈で、隣にはいつも笑顔の陽がいた。
「識ちゃんはさ、適合検査で適合したら、何の仕事をしたいの?」
陽の隣にいられる仕事ならなんでも。どうしようもない本音を心の奥にしまいこむ。
「せっかく施設で脳持久力を鍛えてもらったから、知能系労働かな」
識は無難な返答をして、陽の質問をやり過ごした。
二三〇〇年、この世界は一つの技術的ブレイクスルーを迎えた。巨大な量子コンピュータで処理を実行する量子AI『GAIA』と量子同期技術(Q-Synchro)の発明だ。人間の脳をQ-Synchroを用いて『GAIA』と同期することにより、人類の思考速度が飛躍的に向上した。人々は最初こそ拒絶反応を示したが、『GAIA』と同期した先駆者たちが、次々と偉大な成果を挙げ、巨万の富を築いたと知ると、我先にと同期の適用を望んだ。
世界保健機関(World Health Organization:WHO)は早急に適用基準を制定し、先進各国はそれに従い、制度化を進めた。WHOは「第一条 Q-Synchro適用候補者はQ-Synchro適合検査を受け、適合した場合にのみ適用すること」「第二条 Q-Synchro適合検査は十八歳以上の希望者にのみ実施すること」「第三条 Q-Synchro適合検査で適合した場合も、適用辞退が可能とすること」と定めた。各国は重要人材のQ-Synchro適用優先順位表作成と適合検査の実施を急いだ。国単位の大規模な適合検査の結果、主に十八から三十二歳までの、身体が成熟し、脳が成長を続ける年齢の人間にのみQ-Synchroを適用できることが判明した。なお、十八から三十二歳で非適合となった人間は、知能や脳持久力の不足が主要な原因であると考えられている。
二三一六年には一般市民にも検査の実施と適用が普及し、新たな社会の構図が整いつつあった。適用者となった人々はこれまでホワイト・カラーとされてきた知能系労働を担い、非適用者は肉体系労働を担うブルー・カラーへと押しやられた。
それから現在までに、量子AI『GAIA』は膨大な経験値収集によるセルフアップデートを繰り返した。その結果、ハルシネーションは激減し、より最適な解を適用者に提供するようになった。もはや、適用者と非適用者の差異は天性の能力で埋めることはかなわず、十八歳時の適合検査日「アセンション・デイ」は運命を決定づける日となっていた。
「そういう陽こそ、何がしたいの」
太陽を仰ぐように、微笑む陽を見上げる。
「なんだろう、学校の先生とかかな。でも、学校の先生は適用者しかなれない職業だよね」
陽はいつも不安がっていた。自分は知能が平均的だから、適合しないのではないかと。
けれど、『GAIA』下した審判は予想を裏切るものだった。
神は識を「類人猿」の籠に放り込み、平均的で心優しい陽を、「新人類」へと昇格させた。




