第十七章
十七 西暦二三三〇年 —識—
世界が再び混沌へと堕ちていく中、識はかつて生まれ育った国立高度感覚最適化研究所を整備し、そこで量子力学を基盤とした未来予知という独自の研究を行いながら陽との幸せな日々を積み重ねていた。
研究所には、量子AI『GAIA』へのアクセス環境が整えられていた。また、地下深くに鎮座する旧式のAI『Logos』も復旧し、計算用として活用している。この環境では、『GAIA』との量子同期技術を適用していない識でも、量子力学分野の研究において、他に後れを取ることはなかった。
現在は、現在と未来の事象の因果対の組み合わせに対して、相関確率を計算する作業を日夜両AIにさせている。今後発生リスクがあると考えられる問題を予知できれば、早期対応をとれる。この技術により、過去人類が遭遇した「情報化社会の限界」の際の二の舞にならない、つまり、一時しのぎに数十年を費やすことがなくなることが理想であった。
陽は適用者であるため、研究所の外でも仕事に困ることはなかった。以前ぼんやりと話していたように、教員として子供たちの成長を見守っている。
「ただいま、識」
柔らかな声と共に、研究所の重い扉が開いた。 識は作業を止め、眼鏡を外して入り口を振り返る。そこには、西日に照らされた陽が立っていた。彼女の肩には、子供たちが作ったのであろう不格好な折り紙のメダルが揺れている。
「おかえり、陽。今日は少し遅かったね」
「うん、放課後にね、どうしても計算が合わないって泣いちゃう子がいて。一緒に夕暮れまで数字を追いかけていたの」
陽は笑いながら、識のデスクの傍らに歩み寄った。彼女は『GAIA』の適合者として、その高い演算能力を子供たちの教育に捧げている。かつて識が求めた「神の知能」ではなく、迷える子供の隣で歩幅を合わせるための、温かな知性として。
「ねえ、識。そんなに難しい顔をして、今日はどんな未来を検証していたの?」
陽が、識の淹れっぱなしで冷めたコーヒーカップを片付けながら尋ねる。識は少しだけ照れくさそうに、モニターに映る複雑な数式を消した。
「……大したことじゃないよ。各企業から依頼された件を片付けていただけ」
「ふふ、ビジネスは順調みたいね」
因果対の計算は、一般企業のみならず、各国政府からも需要があり、意外にも、研究のみならずビジネスとしても識は成功を収めていた。陽との幸せな生活のためならば、本命の計算以外にもリソースを割くのは致し方ない。陽を金銭的に苦労させるわけにはいかないからだ。
陽の手が、識の少し伸びた髪に触れ、頭を撫でられる。その手の温度、脈動の心地よさに目を閉じる。一度失ったはずの、本物の「生」がそこにあった。




