第十八章
十八 西暦二三三五年 —陽—
教室の窓から見える空は、今日も『GAIA』が管理する完璧なグラデーションを描いていた。陽は、自分を慕う子供たちが下校した後の静かな教室で、ズキズキと脈打つこめかみを指で押さえた。識には「少し疲れただけ」と笑ってみせているが、陽の脳の深部では神経細胞が悲鳴を上げていた。
(痛い……。日に日にひどくなっている気がする……)
陽は机に突っ伏した。識は、今も変わらず陽のことを「純粋な心を失わずに子供たちを愛する聖女」のように思っている。けれど、陽は自分自身の内側にある、もっと濁った、粘り気のある感情を知っていた。
二三二六年、あの日。『GAIA』によって陽が「適合者」、識が「非適合者」と判定されたとき、陽は絶望した識の表情を盗み見ていた。『GAIA』の補助なしで彼女に敵う人類はもはや存在しなかった。しかし、『GAIA』を適用すれば話は変わる。識にとって長年保護対象だった陽に、知能において凌駕されるのだ。識にとっては自身の存在意義が揺らぐほどの衝撃だった。
茫然とする識とは対照的に、陽は思ってもみなかった好都合に、内心では歓喜していた。
(大丈夫だよ、識ちゃん。私が守ってあげるから)
しかし、事態は予想外の展開へと発展した。
識が、自分のために世界を書き換えようと狂気に取り憑かれる様。優秀で、誰よりも冷静だった識が、自分というたった一人の存在のために、倫理を捨て、禁忌に手を染めていく。その記憶を認識したとき、陽の胸を満たしたのは、身震いするほどの愉悦だった。
(識ちゃんは、人類よりも、正解よりも、私を選んでくれた)
その結果として世界は混迷を深め、多くの人々が『GAIA』の支配下で喘いでいることに、陽は全く罪悪感がないわけではなかった。教え子たちの親が、労働の最適化によって切り捨てられていく話を聞くたびに、胸の奥がチクリと傷んだ。
けれど、それ以上に、識が自分一人のために、神を欺き、歴史を汚染していく様を見ることが、陽にとってはどんな福音よりも甘美だった。
「……識ちゃん。私ね、本当はちっともいい人じゃないんだよ」
陽は誰もいない教室で、独り言をこぼした。彼女がQ-Synchroを限界まで回し、子供たちの指導に没頭するのは、単なる教育への情熱ではない。識の理想とする陽を演じるためだった。そして、識が自分を心配して、さらに自分に依存させるための計算でもあった。
現在の生活は、識が莫大な富を手に入れ、「平和な研究所」という隔離された箱庭を再起させたことで成立している。識は「情報化社会の限界」を危惧し、世界を救うために未来予知ビジネスをしていると言っているが、陽は知っている。識を動かしている真の燃料は、世界への慈しみなどではなく、陽が生きる世界を守る、という使命感だった。
頭痛が激しさを増す。視界の端にノイズが走る。識は、陽の住む世界を整備するために、夜な夜な『GAIA』と対話しているのだろう。陽はそれを知っていて、わざと頭痛薬の空き瓶を識に見つかりやすい場所に捨てていた。
心配してほしい。もっと私に執着してほしい。あなたの完璧な計算を、私の命でめちゃくちゃにしてほしい。
「ごめんね、識ちゃん。やっぱり私は、あなたが思っているほど、綺麗な女の子じゃないや」
陽は立ち上がり、ふらつく足取りで教室を後にした。夕日に照らされた彼女の横顔には、慈愛の教師の仮面の下に、一人の人間を縛り付けていることを自覚している「女」の、静かな満足感が浮かんでいた。
今日も研究所の扉を開けたとき、識がいつものように優しい顔で迎えてくれるだろう。陽は、最高の笑顔を用意した。この気持ちを、この事実を隠し続けるということが、「優しい嘘」であると信じて。




