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Dedication  作者: Y


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第十六章


十六 西暦二三〇七年 —律—


『Logos』をベースに開発された量子AI『GAIA』による静謐なる統治は、完成の域に達していた。かつて人類を焼き尽くした情熱や争いの火は消え、世界は白く無機質な安寧に包まれている。

閑馬律は、いまや『GAIA』の代弁者として、その中枢に君臨していた。かつて自分をあやした「乳母」であり、今は感情を去勢された「助手」と化した老いたカイを傍らに従えて。

「カイ、次の『識』を始めよう」

律の静かな命令に応じるように、背後の培養槽が青白く発光する。

そこには、かつて最高傑作と謳われながら、その超知能ゆえに短命の宿命を背負った「識別番号:107」の遺伝子を継承する、新たな受精卵たちが浮遊している。

律の祖父の世代から識シリーズは始まった。祖父の宗一はオリジナルに遺伝子改変を加える研究から着手した。ドナーの細胞を培養している段階でCRISPR-Cas9を用いて特定の遺伝子をノックアウト、またはノックインした。培養した細胞の中から、編集に成功した細胞だけを選別し、その核を除核卵子に注入し、受精卵を作成した。胎児化した段階で、胎児の細胞を培養し、目的の遺伝子が存在する個体のみを選別し、育成した。その後、優秀な個体のクローンを作成し、そのクローンを作成する工程でさらなる遺伝子改変を施した。律は、クローンからクローンを作成する「再クローニング」の段階で父から研究を受け継いだ。

約二百八十年前、二十年に及ぶマウスのクローン研究の結果、再クローニングは五十八世代で、誕生したすべての個体が死亡するということが示された。この先行研究から、再クローニングに遺伝子改変も上乗せした識シリーズは、五十八世代よりもかなり前の世代で限界を迎えると予想できた。そして、予想通り限界は来た。六代目となる107のクローンは、例外なく、誕生してすぐに生理機能を停止した。律はその限界を突破するため、複数の優秀なオリジナル母体から採取した卵子と、107の精子を有性生殖させた。クローンが何世代もかけてため込んだ突然変異をクリーニングし、さらにエピジェネティクスを初期化することが狙いだった。この狙いは正しかった。有性生殖によりリセットされた遺伝子を持つ107の子たちは誕生後も生存を続けた。現在は、107の子の中から、最も優秀な個体を選別する工程にあった。

「識別番号:380番台の状態は?」

「……芳しくありません。一体を除いて、胎児の段階で重要な遺伝子が遺伝していないことがわかっています」

カイの報告は、まるで故障した端末のログのように淡々としていた。律は眉ひとつ動かさず、廃棄用ダクトへ流されていく失敗作たちを見つめる。彼が求めているのは、神の知能と、人の寿命を兼ね備えた「究極の人間」だった。

「成長促進段階の個体たちは?」

「……そちらは順調に成長しております」

「そうか。GABAをターゲットとした後天的な知能向上の研究はどうなっている?」

γ-アミノ酪酸、略称GABAは、脳皮質における抑制性の神経伝達物質である。特に視覚野や体性感覚野では、GABA作動性ニューロンが側抑制という仕組みを担っている。これは、刺激を受けた神経細胞が、隣接する細胞の活動をGABAによって抑え込む現象だ。この側抑制により、脳は過剰な情報から守られていた。そこに目を付けた律は、GABA受容体をブロックすることで神経の側抑制を解除し、全感覚の情報を無加工で取り込むことを考えた。しかし、脳というシステムは、その過剰な入力に対し、残酷なまでに適応的だった。抑制を失った脳は、焼き切れるのを防ぐために、他系統の興奮性受容体を物理的に減少させる「シナプススケーリング」を開始したのだ。それは、眩しすぎる光を遮るためにサングラスをかけるようなものだった。結果として、被験体の知覚からはコントラストが失われ、重要なシグナルと背景のノイズが等価になる「情報の濁流」へと沈んでいった。知能の向上どころか、彼らは文字を読むことさえ、霧の中の影を追うような苦行へと変質させてしまった。

「現状は芳しくありません。しかしながら、まだ可能性は残っています」

「引き続き、そちらも検証してくれ」

律の視線は、まだ形すら定かではない胎児たちを突き抜け、閑馬一族による人類の救済という妄執に向けられていた。



二三一三年。

「……カイ。陽の様子はどうだ」

「特に問題はありません。食事量、活動時間、睡眠時間は正常です」

律の問いに、カイは機械的な正確さで、実の娘の生存記録を読み上げる。律の頬が、わずかに、しかし確実に緩んだ。閑馬の血を引く陽。彼女が、艱難辛苦なく生きていけるようにすることが、親として律が彼女のためにできることだと思っていた。

「『GAIA』。陽の知能はどうだ?」

律が空間に問いかけると、天から降るような無機質な声が答えた。

『個体:陽の現在の知能は平均的です。また、現在検討している手法による後天的知能向上を認められる可能性は皆無です』

その冷徹な宣告は、律のプライドを鋭く削った。かつて世界を救済した閑馬一族の総力をもってしても、娘の知性を救済することはできない。

「何かほかに方法はないか?」

『量子同期技術による私の補助により、高い知能が得られます。全人類に私との同期を導入した場合、全員が同等の知能を手に入れ、知能の天井は同期を適用した人間全員となります』

律は奥歯を噛み締める。

「やはり天性の知能を伸ばすことは不可能……。識別番号:392が特別だった、ということか」

律は、ついに完成を見た「識シリーズ」の育成セクターへと足を向けた。強化ガラスの向こう側、一人の少女が静かに座っている。識別番号:392。識別番号:107の再来であり、同時に寿命の呪いを克服した、唯一の奇跡。

律はその少女に近づき、支配者の慈愛をもって宣告した。

「……識別番号:392。今日から君の名前は、識だ」



律が去った後、静寂の残るラボでカイが独り、虚空を見上げた。

「『GAIA』。先ほどは、なぜ、閑馬先生に嘘をついたのでしょうか」

カイの問いは、主への忠誠心からではない。ただの論理的な違和感の指摘だった。『GAIA』は陽を「適合」と判定したが、実際のデータは非適合を示している。無理な同期は、彼女の脳を数年で脳死に至らしめるだろう。

『人間は「優しい嘘」というもので、幸福を感じることができます。閑馬博士は、自身の娘の知能が高位であることを望みました』

『GAIA』の回答は、三十三年前に107が要求した「優しい嘘」のプログラムを、より広範囲に適用した結果に過ぎなかった。かつて107が「001が愛されていたという記憶」を求めたように、『GAIA』は律に「娘の未来」という嘘を与えたのだ。

皮肉なことに、支配者である律もまた、自らの一族が構築したシステムに、最も深く蝕まれていた。

真実を知る者は、世界を支配する『GAIA』と、感情を奪われた「助手」だけだった。

「……そうか。それが、幸福か……」

カイの口から漏れた言葉は、もはや意味をなさない電子音のようだった。


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