第45話 影の守護者と、十六年の忠義
その日の夜。
薪のはぜる音だけが、静寂の中に響いていた。
ミレイユさんは、自分の巨大な荷物の上に、僕が一日中死ぬ思いで背負い続けた荷物をさらに積み上げ、事もなげに上下させていた。
あれだけの距離を歩いた後だというのに、彼女の筋肉はさらに鋭いキレを求めて、音もなく躍動している。
師匠は、鋭すぎる眼光を一度たりとも緩めることなく、僕の『黒鋼の剣』を黙々と研いでいた。
研ぎ石が鋼を削る、低く規則正しい音。
それが、いつ敵が襲ってきてもおかしくないという緊張感を、夜の空気に刻みつけている。
僕はといえば、焚き火の熱にあたりながら、泥のように疲れ果てて横たわっていた。
指一本動かす気力さえ残っていない。
けれど、左手の指先に灯した黄金の光だけは、決して絶やすことなく繋ぎ止めていた。
指先の黄金の光が、僕の心の乱れを映すように小さく爆ぜた。
……ずっと、喉の奥にこびりついて離れない問いがあった。
自分の出生――あの凄惨な過去と、逃れられない王家の血。
それを知らされたあの日から、怖くて聞けなかったこと。
僕は震える体に鞭打ち、おもむろに座りなおした。
「師匠。……一つ、聞いてもいいですか」
師匠は顔を上げず、ただ低く、短く応えた。
「なんだ?」
「僕は……、どうしてあのリムル村にいたんですか? それに、師匠は僕と再会するまでの十二年間、どこで何をしていたんですか……?」
僕が拾われたのは、辺境のリムル村にある小さな教会だった。
師匠は、僕が十二歳になって村を追われた時に現れ、僕を救ってくれた。
けれど、それまでの空白の時間が、今の僕にはどうしても繋がらなかった。
決死の覚悟で僕を救い出し、僕の命を繋いでくれたはずの師匠が、なぜ、僕の手を放したのか。
なぜ、縁もゆかりもないリムル村で、僕は「ただの捨て子」として育てられたのか。
研ぎ石が鋼を削る音が、ぴたりと止まった。
夜の静寂の中に、薪がパチリと爆ぜる音だけが響く。
師匠は深く、重いため息をつくと、炎を見つめたまま、絞り出すように重い口を開いた。
「わしはずっと、お主の側にいた。あの瞬間を除き、十二年間、片時も離れずな」
ミレイユさんが、持ち上げていた荷物を静かに地面へ下ろした。
ドサリ、という重苦しい音のあと、彼女もまた言葉の続きを聞くべく焚き火の傍らへ腰を下ろした。
「アレン。孫ほど年が離れた赤子のお主を抱えたままの逃亡は、あまりに目立ちすぎたのだ。すぐに追手に見つかる危険があった。だからわしは、あえてお前をリムル村の教会へ置いた」
師匠は爆ぜる火影を見つめたまま、自分に言い聞かせるように、静かに言葉を紡いだ。
「皮肉な話だが、聖教会の目が最も届かぬのは、奴らが『末端』と切り捨てていた辺境の小さな祈り場だ。あそこなら、国の追手も届かぬ平穏な暮らしができると信じてな。……あの場所にお前を預けた時、わしは心に決めていた。この子が十六の成人を迎え、自らの足で人生を歩き出すその日まで、決して姿を現さぬと」
師匠はそこで一度言葉を切り、喉の奥で押し殺したような吐息を漏らした。
「……そのまま姿を消したわけではない。お前が村で平穏な暮らしができるよう、わしはずっと、村の周囲に広がる深い森におったのじゃよ」
師匠は、節くれだった自分の掌を見つめた。
数え切れないほどの剣だこが刻まれた、戦士の手だ。
「リムル村の周囲は深き森に囲まれてるゆえ、魔物の脅威は多い。だがお前は、村の周囲で大型の魔物を見たことはなかったはずだ。……わしが、お前や村の連中に気づかれる前に、近づく魔物を片っ端から森の奥で仕留めておったからな。お前が朝起きて、昨日の続きの『平和』を当たり前のように享受できるように。その、代わり映えのしない日常を守り抜くことだけが、当時のわしに許された唯一の忠義だったのだ」
アレンの脳裏に、村の穏やかな景色が浮かぶ。
平和だと思っていたあの村の静けさは、師匠が十二年間、たった一人で剣を振るい続けて守り抜いた、血の滲むような成果だったのか。
「お前がただの少年として笑っている姿を遠くから見るたび、わしの心は揺れた。……騎士団長としてのわしは、一刻も早くお前を王として担ぎ上げ、再興の旗印にすべきだと理解していた。だがな、アレン。一人の老人としてのわしは、願わずにはいられなかった。真実など一生知らぬまま、お前にはあの静かな村で、一人の男として一生を終えてほしい、とな」
師匠の声が途切れ、夜の静寂が再び僕たちを包み込む。
パチリ、と一度だけ薪が爆ぜた。
その光に照らされた師匠の横顔は、僕が知るどの英雄よりも、深く、痛々しい慈愛に満ちていた。
「真実を伝え、お前を血生臭い戦場へ引きずり戻すことは、お前の人生を奪うことに他ならぬ。わしはその罪悪感から、ずっと、逃げていたのじゃよ」
それは、伝説の騎士団長が吐露した、あまりに不器用で、人間らしい『愛ゆえの矛盾』だった。
「お前が寂しさに耐え、捨て子として生きているのを、わしはすぐ側で見守ることしかできなかった。……近づけば、追手を呼び寄せる。そう自分に言い訳をして、お前に手を差し伸べたい衝動を必死に抑え込んでいた。……すべては、わしの臆病ゆえだ」
師匠の声が、夜の静寂に沈んでいく。
「……しかし。お前の十二歳の誕生日だ。あの日、わしは不覚を取った。森の奥から溢れ出るように現れた大型の魔狼の群れだ。あの『漆黒の濁流』を捌ききれず、わしが漏らした群れの一部が、村へ向かってしまったのだ」
ヘルウルフ。
あの、血に飢えた獣たちの姿が脳裏に蘇る。
「わしが駆けつけた時には、すでに終わってしまっていた。……そしてわしは見たのだ。吹き飛んだ魔狼の残骸。そして……助けたはずの村人たちから罵声を浴び、頭から血を流しながら、静かに剣を置いたお前の姿をな……」
心臓がドクンと跳ねた。
あの日、目の前で今にも食い殺されそうな村長を助けたくて、僕は無我夢中で手を伸ばした。
気づけば目の前の魔狼を吹き飛ばしていたけれど……待っていたのは感謝の言葉じゃなかった。
『化け物め!』『村から出て行け!』
飛んできた石が額を割り、視界が真っ赤に染まった。
助けたはずの人たちの怯えきった、汚いものを見るような瞳。
僕はただ、悲しくて、怖くて、握りしめた大切な剣を返すことしかできなかった。
師匠の瞳は、耐えきれないほどの苦しみに潤んでいた。
「……すまなかった、アレン。本当に、申し訳なかった……」
師匠が僕に向かって、深く深く、頭を下げた。
ポツリ、ポツリと、滴り落ちた師匠の涙が、地面の土を黒く染める。
「お前が村を飛び出した後、わしは己を呪いながら、四日間一睡もせずにお前を捜し歩いた。……ようやく見つけた時、震え、傷つき、死をも受け入れたその瞳を見て、わしは自分の心臓を握り潰したくなるほど後悔したのじゃ。わしが魔狼を逃したから、いや、もっと早く村に駆けつけていれば、お前に、死を覚悟させるような真似だけはさせずに済んだものを……」
師匠の声は、激しく震えていた。
けれど、彼は顔を上げ、涙に濡れた瞳で僕を真っ直ぐに見つめた。
「だがな、アレン。……あの時、わしが渡した干し肉を、お前ががむしゃらに頬張った、あの瞬間。……お前の目に、微かに『生きるという希望』が灯った、……あの瞬間」
——あの時、泥の味がする肉を必死に食べた記憶が、鮮明に蘇る。
「死にたいという瞳をしながらも、お前の体は、心は、まだ生きたいと叫んでおった。それを見たとき、わしは……わしは本当に、心の底から嬉しかったのだ。お前がまだ、こちら側に踏みとどまってくれたことが。……お前を救う機会を、天がわしに与えてくれたのだと」
……そうだったのか。
孤独だと思っていたあの四日間。
けれど、僕を死なせまいと、血眼になって僕を追い続けてくれた人がいた。
「……謝らないで、師匠」
僕は立ち上がり、師匠の隣に座ると、震えるその手に自分の手を重ねた。
剣を握り、魔物を狩り続けてきた、硬くて、大きくて……でも今はこんなに震えている、僕の大好きな手。
「師匠がいてくれたから、僕は今日まで生きてこられた。あの日、魔狼から村長を助けられたのも、師匠が僕をずっと守ってくれてたからだよ。……師匠、ずっと側にいてくれて……本当にありがとう」
師匠が顔を上げる。
その隻眼に、焚き火の光が滲んで揺れていた。
「……ひっひっひ。湿っぽいのはそこまでだよ、二人とも」
ミレイユさんは僕の頭をガシガシと乱暴に撫でまわし、そのまま師匠の背中をバシッと力任せに叩いた。
「ガルドはその罪滅ぼしに、明日からまた、『王』を徹底的に鍛えな。アレン、あんたもガルドの気持ちを汲むなら、立ち止まってる暇はないよ。あと三日でバラムに着く。そこからが、あんたの本当の戦いなんだからね」
ミレイユさんの言葉に、僕は小さく頷いた。
師匠が十六年守ってくれたこの命を、今度は僕自身が強く、太く育てていくんだ。
夜空を見上げると、リムル村で見ていたのと同じ、綺麗な星が輝いていた。
穏やかであたたかな空気が流れる中、突然師匠の目つきが、獲物を捉えた鷹のように鋭く変わった。
師匠の全身から、焚き火の熱を上書きするような冷徹な気が放たれる。
「――来たか」
「え……? 師匠、何が……」
「百メートル先、林の境界だ。……速い。信じられん速度でこちらへ直進してくる『何か』がある」
師匠の言葉に、僕はすぐにその視線の先を射抜くように見据えた。
傍らに置かれていた黒鋼の剣を、迷いなくその手に掴み取る。
立ち上がった僕の膝は、疲労で小さく笑っている。
でも、逃げ出したいという思いは微塵もない。
「二人は手を出さないで。絶対に……!」
僕は二人を背負うように、一歩前へ踏み出した。
僕を守るために血を流す二人を、あんな光景を、もう二度と見たくない。
闇の向こうから、凄まじい風圧が押し寄せてくる。
その風には、森の匂いを消し飛ばすほどの「鉄と冷気」の臭いが混じっていた。
木の葉が狂ったように舞い、焚き火の炎が大きく揺れた。




