第44話 王の歩み、地獄の行軍
どれほどの時間を歩き続けただろうか。
肩に食い込む革帯の痛み。
それ以上に、左手の『温もり』を維持し続けるのがこれほどまでに辛いとは思わなかった。
少しでも気を抜けば光は霧散し、逆に集中しすぎれば右腕の『衝動』が疼き出す。
それはかつてのような、僕を支配しようとする不快な疼きではない。
ただ、そこにあるだけで世界をねじ伏せてしまうような、圧倒的な僕自身の力。
だからこそ、難しい。
この「破壊」の右腕を抱えたまま、左手で「慈愛」を紡ぐ。
正反対の重さを一つの天秤に乗せ続けるような作業は、僕の精神と肉体を内側から激しく摩耗させていった。
「……っ、く……」
足元は泥濘に取られ、視界は汗で滲む。
足の指の皮はとうに剥け、背負った荷物の重みで呼吸をするたびに肺が軋む。
それでも、左手の火を消すことだけは許されなかった。
「……あ、っ……」
疲労で意識が遠のきかけ、指先の光がふっと弱まった。
その瞬間、真横から風を切る音が聞こえた。
「――しっかりしな!」
何度目だろうか。
鈍い衝撃とともに、僕の体は道端の茂みに吹き飛ばされていた。
ミレイユさんの拳……ではなく、鞘に収まったままの大剣が、僕の腹を正確に捉えていた。
「っ、が……はっ、げほっ……!」
あまりの痛みに、地面に這いつくばる。
視界が火花を散らし、心が「もう休め」と囁く。
けれど、その度に思い出す。
ドバルガスの理不尽な力をその身に受け、苦悶に満ちた師匠の姿。
僕を守るためにボロボロになったミレイユさんの背中。
(守るって、決めたんだ……。次は、僕が……!)
僕は震える手で地面を掴み、消えかけた黄金の光を、無理やり、より強く灯し直した。
「何度も言っただろ、消えたら即だって。次は鞘じゃないからね。……まったく。
……ほら、少し休憩するよ」
突き放すような言い方だったが、ミレイユさんは僕の背中から巨大な荷物をひょいと持ち上げ、近くの倒木に放り投げた。
重圧から解放された途端、僕は糸が切れたように左手の光を消し、その場に体を投げ出した。
街道の木陰の澄んだ冷たい空気が肺に流れ込む。
焼け付くようだった呼吸がようやく落ち着きを取り戻し、僕は泥だらけの顔を上げた。
「……すみ、ません……」
「謝る暇があるなら呼吸を整えな。……ガルド、あんたも少しは殺気を収めなよ。このままだと、あんたのほうが先に干からびちまうよ」
ミレイユさんの言葉に、一歩先で立ち止まっていた師匠がゆっくりと振り返る。
その瞳は、道の先の「何か」を射抜くような鋭さを保ったまま、わずかに僕へと向けられた。
「……アレン。今の打撃で光を一瞬絶やしたな。集中が外に向いておる証拠だ。敵は常にお主の不意を狙う。意識を内側に閉じ込めつつ、外からの衝撃を柳のごとく受け流せ」
「……は、はい……」
休んでいる最中も、師匠の「教え」は容赦なく飛んでくる。
僕は震える手で水袋を掴み、ぬるくなった水を喉に流し込んだ。
「……ねぇ、ミレイユさん。いったい、どこに向かってるんですか……?」
荒い息を吐きながら尋ねると、ミレイユさんは巨大な荷物に背を預けたまま、街道の先――沈みゆく陽のほうを指差した。
「あれ、アレンにはまだ言ってなかったかね。昨日は皆の体を回復させたらそのまま倒れるように寝ちまったもんね。今は、最近魔族の進軍で墜ちた『ヌーク』に向かってるんだよ」
「……ヌーク? どこですか、そこは……。……魔族の進軍で墜ちた街!?」
辺境の村から出たことのない僕にとって、それは聞いたこともない街の名前だった。
しかし、そんな見知らぬ街でも、魔族に飲み込まれたという『事実』が、唐突に、暴力的なまでの現実感を持って僕を襲う。
そして何より……その場所へ自ら近づこうとする真意が、僕にはわからなかった。
「そんな驚くことでもないだろ。もうアタシたちは、どん詰まりなんだよ。魔族にも追われ、聖教会にも追われてる。……なら、正面からこじ開けるしかないだろ?」
ミレイユさんの言葉に続くように、師匠が静かに、だが鋼のように硬い声で言った。
「アレン。お前はただの逃亡者ではない。かつての覇者の血と王族の血を引く、正当な王位継承者だ」
「……っ!?」
「逃げ続けるだけでは、いつか追い詰められ、その火は潰える。ならば、占領されている街を一つずつ解放して歩き、民衆にお前の存在を認めさせ、味方を作るしかあるまい。……それが、お前に課せられた『王』としての歩みだ」
王位継承者。街の解放。民衆。
あまりに巨大な言葉の数々に、僕の頭は真っ白になりそうだった。
肩には、ずっしりと重い修行の荷物の感覚が残っている。
けれど、師匠の言葉は、それ以上に重い「宿命」となって僕の全身にのしかかってきた。
「……僕に、そんなことが……できるんでしょうか」
「できるかではない。やるのだ。そのための、その左手の光、そして右手の力だ。……行くぞ。まずは『バラム』で、その覚悟を研いでもらう」
師匠は再び歩き出す。
その後ろ姿には、迷いも、妥協も一切なかった。
僕は急いで重い荷物を背負い直し、左の指先に、再び黄金の光を灯した。
ミレイユさんもさっと後に続いた。
「バラムってのはここからあと三日も歩いたところにある、アタシの根城さ。まずはそこまで行けば、まともな飯も食える。……あんたの持ってるその予備の靴も、この三日で履き潰すだろうからね。あそこに着いたら、魔族とまともにやり合える『戦士の靴』を新調してやるよ」
その横顔には、僕を追い込む厳しさと、それ以上に「間に合わせなければならない」というプロの戦士としての焦燥が、微かに滲んでいるように見えた。
しかし―――三日。
今の僕にとって、それは果てしなく遠い時間に思えた。
「王」なんて、まだ一ミリも実感が湧かない。
けれど、この肩に食い込む荷物の重さも、消してはいけない左手の熱も、今はすべてが「王になるための試練」なのだと師匠は言った。
(……一歩。まずは、次の一歩を出すんだ)
僕は泥だらけの靴で、一歩先を行く師匠の鋭い背中を追った。
老いた体に鞭打ち、五感を研ぎ澄ます師匠。
魔族の血を震わせ、肉体の限界を押し広げるミレイユさん。
(……負けて、たまるか)
僕は指先の小さな、けれど確かな黄金の光を見つめた。
右手の「破壊」を、左手の「慈愛」で飼いならす。
この両極の天秤を、僕は二度と手放さないと誓いながら。
――だが。 彼らが去った遥か後方。
バルディア南に広がる、日の光さえ遮る深き森。
その奥深くに、不自然なほど巨大な更地が口を開けていた。
ひび割れた地面。
抉り取られた木々。
そこには生命の気配はなく、ただ暴虐な力の爪痕だけが刻まれている。
そしてその中心には、見るも無惨に半身を消失させた、巨躯の魔族の残骸が転がっていた。
それらを見つめる、一つの鋭き眼光。
風に揺れる白銀のマントの影が、死臭の漂う戦場を静かに見下ろす。
「……見つけたぞ。赤黒き稲妻の主よ」
その呟きは誰に届くこともなく、森の闇に溶けていった。
追手は、すぐ側まで迫っていた。




