第38話 追跡者の重圧
木々が生い茂り、わずかな光が差し込むだけの薄暗い森。
その闇の奥に、異様なシルエットが浮かんでいた。
それは、小高い丘がゆっくりと近づいてくるような、圧倒的な質量の圧迫感。
「――っ!?」
いち早く反応したのは、師匠だった。
僕が声を上げるよりも早く、視界を遮るようにして師匠の背中が割り込む。
「……ミレイユ、アレンを頼む」
鋭く、そして地を這うような低い声。
僕を背後に庇いながら低く構えた師匠の体からは、かつてないほどの濃密な殺気が溢れ出していた。
近づくたびに、チリ……チリ……と金属が擦れあう耳障りな音が大きくなる。
「……ようやく見つけた。ずいぶん探し回ったぜ」
どしん、と地響きを立てて、その「丘」が闇から姿を現した。
三メートルはある巨体を包むのは、鈍い光を放つ鋼のような、どす黒い皮膚。
その全身には凶悪な黒い棘がびっしりと生え、彼が呼吸し、筋肉を震わせるたびに、チリ……チリ……と耳障りな音を立てる。
それは、周囲の空気を切り刻むような、不吉な鳴動だった。
「……ザディルが放った追手か?」
師匠の声は、凍てつくほどに冷たかった。
僕を背後に庇いながらも、その視線は目の前の怪物から一瞬たりとも離れない。
「――あァん? 人間風情が、あの方を呼び捨てにするんじゃねぇよ」
ドバルガスが鼻を鳴らすと、熱を帯びた吐息が霧のように吹き出した。
彼は見下ろすように視線を動かし、師匠の顔を見て、醜悪に口角を吊り上げた。
「……お前がガルドか。クカカッ、ようやく拝めたぜ。ザディル様が懐かしがっていたぞ? 『あの死に損ないを、生きたまま引きずってこい』ってよォ!」
「……死にぞこない、か」
師匠がその言葉をなぞるように低く呟いた。
握りしめた剣の柄が、ミシミシと軋む音を立てる。
その背中からは、鋭利で重たい殺気が立ち昇っていた。
「アレン、ミレイユ! 下がれ!」
「でも、師匠――!」
「逃がすかよォ!!」
その巨躯がバネのようにしなり、空気が爆ぜる。
反射的にミレイユさんが僕の首根っこを掴んで後方へ跳び、それと同時に、師匠は衝撃の渦中――前方へと地を蹴った。
わずか一秒前まで僕たちがいた場所。
そこへ、ドバルガスの巨大な拳が隕石のような重圧で叩きつけられた。
ドォォォォンッ!!
鼓膜を激しく揺さぶる爆音。
地面は一瞬でクレーターのように陥没し、爆ぜた土塊や石飛礫が弾丸となって周囲の木々を無残に削り取る。
「……あぶないねぇ。あと一秒遅れてたら、みんな揃ってお陀仏だったよ」
着地の衝撃を逃がしながら、ミレイユさんが鋭い視線を向けたまま呟く。
僕を背後に庇うように立つ彼女の横顔には、ひと筋の冷や汗が流れていたが、その手は大剣の柄をしっかりと、微塵の震えもなく握りしめていた。
「クカカッ! よそ見してんじゃねえぞォ、ガルドォ!」
空気が爆ぜるような音を立てて、三メートルの「小高い丘」が地を蹴った。
その巨体からは想像もつかない瞬発力。
一気に距離を詰めたドバルガスは、黒い棘がびっしりと生えた丸太のような右腕を、ハンマーのごとき勢いで師匠へと振り下ろす。
「シッ……!」
師匠が抜き放った剣が、斜めにその一撃を迎え撃つ。
ギィィィィィンッ!! と、耳の奥が焼けるような金属同士の激突音が森に響き渡った。
「――っ!?」
凄まじい衝撃波が円状に広がり、周囲の草木がなぎ倒される。
師匠はドバルガスの圧倒的な質量を真っ向から受け止めていた。
だが、重圧に耐えるその両足は地面を深く抉り、足首まで沈み込んでいる。
「へぇ、受けるかよ! なら、これはどうだッ!」
ドバルガスがさらに身を乗り出し、全体重を剣に浴びせかける。
全身の棘がチリチリと歓喜に震えたかと思うと、その一本一本から、どす黒い魔力が激しく放電を始めた。
「ガルドォ! その細い剣ごと、すり潰してやるぜぇッ!!」
バチィッ!! と黒い火花が散るたびに、ドバルガスの丸太のような腕が、一回り膨れ上がったかのように膨張する。
「――っ!?」
師匠の足元が、さらに深く抉れる。
ギィィィィィ……! と、悲鳴を上げる師匠の剣。
ドバルガスは魔力のブーストによって、文字通り「回避不能な暴力の塊」となって師匠を押し潰そうとしていた。
だが――。
「……甘いな」
師匠の口角が、わずかに吊り上がった。
次の瞬間、あんなに激しく鳴り響いていた剣と剣の軋み音が、ふっ、と消えた。
「――っ!? なにっ!?」
手応えの消失に、ドバルガスの目が驚愕に見開かれる。
師匠は、押し込まれる力を「耐える」のではなく、あえて一瞬だけ完全に「脱力」したのだ。
支えを失ったドバルガスの巨体が、自ら放った爆発的な魔力ブーストと全体重の勢いのまま、前方にのめり出す。
師匠はそのわずかな隙間へ、流れるような動作で半身を滑り込ませた。
「力に頼れば、その力に殺される。……基礎中の基礎だ」
耳元で囁かれた冷徹な声。
ドバルガスが振り向きざまに拳を振るうが、そこに師匠はもういない。
師匠はまるで「無」の影のようにドバルガスの懐を通り抜け、すれ違いざま、その無防備な脇腹へ向けて、鋼の刃を閃かせた。
ギィィンッ!!
火花を散らし、ドバルガスの硬質な皮膚が初めて深く、鮮やかに切り裂かれる。
「ガアアアァッ!!」
苦悶の咆哮を上げる怪物。
「くそッ! ちょこまかとゴミがぁぁッ!」
ドバルガスが吠え、休む間もなく連撃を繰り出す。
振り下ろされる丸太のような剛腕。
それを紙一重でかわし、鋭いカウンターを叩き込む師匠。
火花が飛び散り、空気が震え、地面が次々と爆ぜていく。
「すごい……」
目まぐるしく入れ替わる攻防。
あの怪物のようなドバルガスを相手に、師匠は一歩も引かずに渡り合っている。
僕の胸の中に、確かな希望が灯った。
――師匠ならきっと勝てる。
「……ダメだね、これは」
前に立つミレイユさんの、冷徹な一言が僕の希望を切り裂いた。




