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【絶望から始まる英雄譚】呪われた右腕が輝く時、世界は彼を『王』と呼ぶ 〜半魔の少年、人間と魔族を繋ぐ英雄譚~  作者: 御影 零
第一章 呪われた右腕

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第34話 名に込められた願い

 

 ――生まれてきてくれて、ありがとう。  


 母さんの最期の言葉が、洞窟の湿った空気の中にいつまでも溶けずに残っているような気がした。


 視界が滲んで、うまく前が見えない。  

 涙が次から次へと溢れ出し、頬を伝って地面に落ちていく。


 僕が「化け物」だと忌み嫌っていたこの右腕も、僕という存在のすべてを、母さんは命を懸けて守り、最期まで愛してくれたんだ。

 母さんが触れてくれた頬の温もりを忘れないように、僕は強く自分を抱きしめて、ただ震えることしかできなかった。


 そんな静寂を、ガツンッ! と岩を砕くような鋭い音が切り裂いた。  

 見れば、ミレイユさんが空になった酒瓶を、忌々しそうに岩の床に叩きつけたところだった。


「……あー、もう! 湿っぽいのは性に合わないんだよ……ったく、反吐が出るね!」


 ミレイユさんは潤んだ瞳を隠すように乱暴に髪をかき上げ、鼻を鳴らした。

 その瞳には、隠しきれない怒りが炎のように揺らめいている。


「国中がひっくり返ったっていう、あの大事件の裏側に、こんなドロドロした泥溜めが隠されてたなんてね。……おい爺さん、あんたよく今まで黙ってられたね。あたしなら、こんなクソみたいな話を聞かされて、黙って座っていられるほど気が長くはないよ。今すぐ王都まで殴り込んでやりたいくらいさ。……あぁ、胸糞悪い」


 彼女は割れた瓶の破片を放り投げると、僕の頭を、励ますというよりは「しっかりしな!」と活を入れるように乱暴に撫でた。


「表向きの話じゃ、エレナ様は『魔族の襲撃から民を守り、清らかな祈りの中で散った救世の聖女』……。はっ、傑作じゃない。教会が御大層に飾ってる肖像画の裏で、その教会自身が魔族と手を取って聖女をハメてたなんてさ。これがバレたら、今頃王都は暴動で火の海だよ」


 ミレイユさんの瞳には、怒りを通り越して、ゴミ溜めでも見るような冷めきった色が浮かんでいた。

 彼女は師匠の方へ向き直り、吐き捨てるように問いを投げかけた。


「で、そのマヌケな聖教会様は、結局何がしたかったわけ? ディオス様を封じれば、自分たちの権威が安泰だとでも踏んだの?  見てみなさいよ、今のこのザマを! 新魔王になったヴァイスとかいう野郎、人間界を根絶やしにする気満々じゃない!」


 ミレイユさんは、吐き出した言葉の熱を冷ますように一度強く息を吐いた。

 だが、その瞳に宿る怒りの炎は消えるどころか、いっそ青白く燃え上がっている。


「このバルディア地区は戦場からだいぶ離れてるから、どいつもこいつも能天気なもんだけどさ。国境なんて紙くずみたいに蹂躙されて、魔族の進軍はもう誰にも止められない。  それなのに聖教会の連中ときたら、精鋭の魔法兵を王都に囲い込んで知らんぷりだ。おかげで国境沿いの街は、王都を中心に扇を広げるみたいに端から順に魔族に食い潰されて、今や内陸まであいつらの支配下だよ。  

 本当に……、一体何がしたかったんだか」


 師匠の瞳が、衝撃に大きく見開かれた。


「……この国は、そこまで凄惨なことになっていたのか」


 師匠は震える拳を膝の上で握りしめ、何かを耐えるように一度目を閉じた。

 そして、再び目を開けたその瞳には、教会に対する冷ややかな怒りが宿っていた。


「……ミレイユ。聖教会の連中は、あまりにも甘く見ていたのじゃよ。ディオス様という存在がいなくなった後の世界をな」


 師匠は、暗い洞窟の奥を見つめた。


「奴らは、自分たちの手で制御可能な『ほどよい脅威』を望んだ。絶対的な魔王であるディオス様を排除すれば、あとは残った弱小な魔物どもを自分たちが『救世主』として討伐し、民の信仰を永遠に繋ぎ止められると踏んだのじゃ。……だが、それは致命的な、あまりにも致命的な誤算じゃった」


 師匠の声が、地を這うように低く響く。


「ディオス様は、決して恐怖で支配するだけの暴君などではなかった。あの御方は、その圧倒的な魔力と高潔な意志をもって、世界を蝕む魔の本能をねじ伏せていた、言わば『理性ある秩序』そのものだったのだ。だが、その秩序を壊して現れたヴァイスは、ディオス様が守ろうとした世界の均衡までをも踏みにじった」


 師匠は、悔しさに顔を歪めながら言葉を継いだ。


「聖教会の馬鹿どもは、御しやすい子飼いの犬を求めて、この世の全てを焼き尽くそうとする『破壊の化身』に、自ら王座を明け渡してしまったのじゃよ」


 師匠の拳が、みしりと音を立てて握りしめられる。


「自分たちが生き残るために、世界そのものを終わらせかねない怪物を解き放つ。……皮肉なものよ。魔を討つべき聖職者が、己の権力欲のために、人類を二度と戻れぬ滅びの奈落へと突き落としてしまったのじゃからな」


 師匠の重苦しい言葉が、洞窟の壁に反響して消えていく。  

 世界の破滅。救いのない未来。

 あまりに壮絶すぎる話に、僕はただ圧倒され、うつむくことしかできなかった。


 そんな静寂の中、師匠がゆっくりと立ち上がった。  

 そして、それまで座り込んでいた体を静かに正すと、かつて近衛騎士団長として王の前に跪いた時のように、居住まいを正して僕を真っ直ぐに見据えた。


「……アレン。お前に、もう一つ伝えねばならぬことがある」


 その低く、けれど慈しみに満ちた声に、僕は顔を上げた。


「お前を追手から隠すため、わしはお前の名から多くのものを削り落とした。だが、これだけは忘れないでほしい。その『アレン』という響きすら、あの方々が慈しみ、願いを込めて名付けたものなのだということをな」


 師匠は優しく目を細め、まるですぐそこに二人の姿が見えているかのように語り始めた。


「十六年前……お前が生まれる数ヶ月前、あの方々は離宮の庭園で、まだ見ぬ我が子の名を相談しておられた。ディオス様は『私のような戦しか知らぬ男がひねり出した名では、この子にいささか無骨すぎる。お前が考えてやってくれ』などと、珍しく弱気なことを仰っておられたが、エレナ様は譲らなかった。……『この子は、私たちの光。二つの世界を繋ぐ、たった一つの希望よ。ちゃんと一緒に考えましょう』と」


 師匠は、深い皺の刻まれた顔を綻ばせ、慈しむように目を細めた。

 その表情は、かつての主君を想う一人の忠義の騎士そのものだった。


「そしてお二人で考えられた名が『アレン』。……古き言葉で、それは『調和』を意味する。……あの方々は、お前を単なる忌むべき混血ではなく、世界を一つに結び合わせる『くさび』になると信じておられたのじゃよ」


 アレン。      


 何度も呼ばれ、慣れ親しんできたはずのその響きが、今はまるで違う重みを持って、僕の心臓を熱く叩いた。  


 母さんの愛も、父さんの願いも、ずっと僕の中にあったんだ。


「そしてな、アレン。お前には、二人が共に考え、最後まで大切に温めていたフルネームがある。……それこそが、あの方々の愛の証明なのだ」


 師匠は一言ずつ、二人の想いを代弁するように紡いだ。


「お前の本当の名は、


『アレン・グランディオス・エルディアーナ』」


 その響きが、洞窟の冷たい空気を一瞬で塗り替えた。


「父であるディオス様の真名『ディオス・グランディア』、そしてその御名を受け継いだ『グランディオス』。さらには母であるエレナ様の『エレナ・エルディアーナ』。……魔族も人間も関係ない。二つの世界の頂に立ち、この国に希望を灯す者。……それが、お前が産声を上げる前から、二人がずっと呼び続けていた名前なのじゃよ」



 ――アレン・グランディオス・エルディアーナ。



 十六年前、幸せな光の中で、父さんと母さんが笑い合いながら僕に贈ってくれた、世界で一番温かな贈り物。


 僕は、自分の右腕をそっと目の前に掲げた。    

 先ほどまで「化け物の腕」だと忌み嫌い、自分から切り離したいとすら願っていたそれは、今では全く別の意味を持って僕の視界に映る。


(グラン……ディオス……、エルディアーナ……)


 僕が生きていること自体が、二人が種族を超えて愛し合った、何よりの証なんだ。    


 そう思った瞬間、心臓の奥がドクン、と大きく脈打った。

 右腕の奥に燻っていた「熱」が、疼きが、今はまるで温かく感じられる。


 僕はゆっくりと顔を上げ、二人を見つめた。


 そして強く思った。


「僕はもう、この腕を隠さない」


 そこには、穏やかに微笑むミレイユさんと、そして、込み上げるものを堪えるように僕を凝視する師匠の姿があった。


「……良い目になった。これならば、あの方々も安心されるじゃろう」


 師匠が、掠れた声でそう呟いた。  

 彼はゆっくりとした動作で、僕との間に一歩分の距離を置く。

 そして、重厚な音を立ててその場に膝をついた。


「し、師匠……?」


 あまりのことに動揺する僕を、師匠――いや、老騎士ガルドは、厳かな、けれど誇らしげな眼差しで見上げた。


「……かつて、わしはあの方々に誓いました。いつかこの子が自らの運命を受け入れ、前を向いたその時、わしは再び『騎士』に戻ると」


 ガルドは居住まいを正し、拳を胸に当てて深くこうべを垂れた。


「アレン・グランディオス・エルディアーナ様。……我が主よ。二つの高貴な血を継ぎ、エルディアーナ聖王国の正統なる後継者たるお方。老骨ガルド、この命が尽き果てるまで、貴方様の剣となり盾となり、その王道を切り拓くことを誓いましょう」


 その言葉は、冷たい洞窟の空気を震わせ、僕の胸に真っ直ぐに突き刺さった。


「…………」


 言葉が出なかった。  

 今までずっと「師匠」の、その背中を追い続けてきた。

 けれど、今目の前で跪くその姿は、これまで以上に頼もしく、僕の行く末を護る巨大な城壁のように見えた。


 あまりに重いその誓いに、なんて言葉を返せばいいのか分からない僕をよそに、師匠は静かに立ち上がった。


 彼は、その鋭い視線を傍らのミレイユさんへと向けた。


 先ほどまでの慈愛に満ちた「師匠」の顔ではない。

 それは、主の安全を脅かす懸念を一切許さない、冷徹な「武人」の眼差しだった。


「……さて。ミレイユ、これで隠し事は一つもなくなった。アレン様の出生も、聖教会の闇も、わしが知るすべてをお前に話した」


 師匠は、岩壁に背を預けていたミレイユさんを、正面から射抜くように見据える。


「わしはお前を信じ、すべてを語った。……ならば、お前も本当のことを話してくれるな?  

 ――貴様は、一体何者だ」


 洞窟の隙間から差し込み始めた朝日が、彼女の横顔を白く照らし出す。  

 その光に目を細めながら、ミレイユさんの表情が、一瞬で「戦士」のそれへと引き締まった。


「……はぁ、やっぱりそうくるよね。まぁ、ここまで聞かされちゃあ、あたしだけ知らんぷりってわけにも、いかない……か」



 ミレイユさんは一瞬だけ、遠くを見つめるように視線を彷徨わせた。



 だが、すぐに何かを断ち切るように小さく首を振ると、僕と師匠を交互に見つめ、静かに口を開いた。


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