第33話 十六年前の惨劇、血塗られた離宮
「……アレン。お前の母は、エレナ様なのじゃよ」
脳内が真っ白に染まった。
あまりに巨大すぎる「真実」が一度に押し寄せ、何から考えればいいのか、どこから疑えばいいのかさえわからない。
今まで疑いもしなかった聖教会の教え。
救いを求めて毎日捧げてきた、あの祈りの無意味さ。
その祈りを捧げてたのは、自分の母だったという事実。
……いや、それよりもまず、認めなければならない現実が僕を打ちのめす。
僕の中に流れる、相反する二つの血。
僕の父は、魔王ディオス。
僕の母は、聖女エレナ。
そのあまりの重さに、眩暈がした。
「……そんなっ、……僕は……、っ!」
絞り出した僕の声は、情けなく震えて洞窟の闇に消えた。
そんな僕を、師匠はどこか遠くを慈しむような目で見つめて言った。
「……信じがたいのも無理はない。だがアレン、お二人はお前を心から愛していた。——そしてこの世界のことも、同じように愛しておられたのだ」
師匠はそこで一度、失われた時を惜しむように目を細めた。
その横顔には、かつて一国の軍を率いた者だけが持つ、鋭くも哀しい威厳が宿っている。
「かつてエルディアーナ聖王国の近衛騎士団長として、あの方々の背中を最も近くで見てきた、わしにはわかる。魔族の王と人間の王女……本来なら決して交わらぬ二人が手を取り合うことで、種族の垣根を壊し、誰もが手を取り合える新しい世界を作ろうとしていたのじゃ。いつか生まれてくるお前が、日陰に隠れることなく、光の下で笑えるような……そんな未来を、二人は本気で夢見ておられたのだよ」
師匠はそこで一度言葉を切り、悔しさに顔を歪めた。
「……だが、その眩しすぎる『夢』を、どうしても許さない者たちがいた。聖教会の権力に固執する、教皇と枢機卿ども。そして―― 今や現魔王の座に就くヴァイスじゃ」
師匠の声が一段と低くなり、苦々しさが滲む。
「……和平を拒んでいたのは、人間側だけではなかった。魔族の中にも、和平を望まぬ者たちがおったのだ。
その筆頭格こそが、現魔王ヴァイス。
奴は最初からディオス様を陥れるつもりでおった。配下のザディルに『忠実な臣下』の仮面を被せて送り込み、ディオス様の側近という立場を利用して、内側から確実に破滅させるための準備を着々と進めておったのじゃ。……一方で、その不穏な動きを察知した聖教会もまた、それを『絶好の好機』とした」
師匠の拳が、みしりと音を立てる。
「王は、アレン。お前が無事に生まれた暁には、万民へ向けて魔王との和平を公に宣言するおつもりであった。
だが、聖教会の奴らは、王の決意を正面から止める術がないと悟るや、狂った手段に出たのじゃ。
……奴らは密かにヴァイス側と接触し、あろうことか魔王を封じるための『道具』を奴らへ譲り渡した。魔を討つべき聖職者が、己の権力がために、魔族に手を貸したのじゃよ。これ以上の冒涜が、この世にあろうか」
あまりに重く、汚い真実に、洞窟の空気が凍りつく。
「……十六年前のあの夜。エルディアーナの離宮は、この世のどこよりも温かな幸せに包まれておった。産声を上げたお前を抱き、ディオス様とエレナ様は、それこそ見たこともないような慈愛に満ちた笑顔を浮かべておられたのじゃ」
師匠は、遠い記憶を慈しむように目を細めた後、一転してその目に鋭い痛恨の色を宿した。
「お前が産まれる際、わしは離宮の警備をこれ以上なく厳重にした。 ……そもそも、エレナ様が子を身ごもられたことを知る者自体、国の上層でもごく僅かな者に限られておった。 その中でも、離宮への立ち入りを許したのは、わしがこの眼で見極めた、信頼に足る必要最低限の者のみ。当然、腹の底が知れぬ聖教会の者などは、徹底的に排除しておった。……そこには、いかなる刺客が束になってかかろうと、突破できる隙など一寸たりとも無いはず、だった」
師匠の拳が、膝の上で白くなるほど強く握りしめられる。
「……だが、裏を返せば、援軍をすぐには呼べない。それこそが、奴の狙った最大の策略だった。 裏切り者……ザディル。共に守護を誓ったはずの男が、内側からその鉄壁を食い破るなど、誰が想像できようか」
師匠の声が、怒りと後悔に震えた。
「……わしは、その光景をこの目で見ていたのだ」
師匠の声は低く、地を這うような怒りに満ちていた。
膝の上の拳は、いまにも岩を砕きそうなほど白く震えている。
「ディオス様の背後に忍び寄ったザディルが、その懐から『白い釘』を取り出した。……魔王の力を一瞬で凍りつかせる忌まわしき祭具が、無防備なディオス様の背へと深々と打ち込まれたのだ。……あの方は必死に抵抗されたがそれも虚しく、その場に膝をつかれた。……本当に、一瞬の出来事だった」
僕は息を呑み、師匠の言葉に釘付けになった。
頭の中に残酷なまでに鮮明な光景を描き出していく。
見たこともない、けれど自分と同じ血が流れているはずの、逞しい父の背中。
そこへ突き立てられた忌まわしき釘。
膝をつく父の無念が、怒涛のように僕の胸に流れ込んでくる。
最強の騎士の目が、十六年前の絶望を映し出していた。
「……だが、本当の地獄はそこからじゃった。ディオス様が連れ去られようとするのと同時に、離宮の壁を突き破り、ザディルの兵と魔物の群れが雪崩れ込んできたのじゃ」
師匠は、悔しさに顔を歪めて一度天を仰いだ。
「わしは、連れ去られるディオス様をお救いしたかった。……だが近衛騎士団長として、わしは何よりもまず、王家の血と希望を守り抜かねばならなかったのじゃ。わしは血を吐く思いでディオス様に背を向け、エレナ様の前で剣を抜いた」
師匠の肩が、激しく震える。
「……だが、お前の母上は、ただ守られるだけのひ弱な王女などではない。あの方は崩れ落ちる体に鞭打ち、生まれたばかりのお前を抱いたまま、立ち上がられたのじゃ」
「母さんも、戦ったんだ……」
掠れた声が、喉からこぼれ落ちた。
視界が熱いものでじわりと滲む。
今まで雲の上の神話だと思っていた「聖女」が、今、血の通った一人の女性として――自分を命懸けで守り抜いてくれた「母親」として、胸に刻まれていく。
「ああ。いかに産後すぐの身とはいえ、あの方は真の戦士であった。魔法を放つたび、その命の灯火が削り取られていくのがわかったが……それでも、あの方は一歩も退かなかった。押し寄せる魔物どもを、その圧倒的な光で次々と塵に変えて見せたのじゃ」
師匠はそこで一度、誇らしげに、けれど悲しそうに目を細めた。
「……だが、敵は無限。わしが精鋭の魔族に足止めを食らい、あの方の元へ駆け寄れぬその一瞬……あの方は、産後すぐの身とは思えぬ……いや、人の身には到底不可能なほどの極大魔法を放たれた。 その溢れ出した光があまりに神々しく、眩すぎた。……わしは、あの方がその身に致命の傷を負っていることさえ、その時は気づけなかった。 光が敵の大半を影すら残さず吹き飛ばした。わしはその隙を突き、エレナ様とお前を抱え、火の海となった離宮を死に物狂いで脱出したのじゃ」
師匠の拳が、みしりと音を立てて固く握りしめられる。
「……だが、森の深くまで逃げ延びた時、ようやく気付いたのじゃ。わしの腕の中で、エレナ様の息が急速に弱まっていることに。……あの方の腹部には、極大魔法を放つ前、奴らに受けた深い、深い致命傷があったのじゃ」
師匠は溢れ出しそうな嗚咽を、喉の奥で必死に押し殺した。
「わしは叫んだ。今すぐ傷を治してほしいと、こんなところで死なせないと。……だが、あの方は震える手でわしの袖を掴み、静かに首を振られた。エレナ様は自分の回復より、光の極大魔法にすべての魔力を使い切っていた。そして、自分の命が、もう、残っていないことを、誰よりも悟っておられたのじゃ。
『ガルド……この子を……アレンを連れて、今すぐ遠くへ。……生きて』
それが、王女エレナ様からわしへ下された、最期の命令じゃった。 あの方は死の淵で、お前を抱くわしの腕の中、血に染まった指先を懸命に伸ばされた。そして、お前の頬を、壊れ物を扱うように優しく、本当に愛おしそうに撫でておられたのじゃ。 あの方の瞳からは、すでに光が消えかけていた。それでも、お前を見つめるその眼差しだけは、この世の何よりも温かく輝いておった。
『……たとえ世界があなたを拒んでも、あなたは私たちの誇り。……生まれてきてくれて、ありがとう。愛しているわ、アレン』
……そう言い残し、あの方は微笑みを湛えたまま、静かに息を引き取られた。わしは主君を救えず、戦って死ぬことも許されず、ただお前を連れて逃げる……それが、わしの最大の罪であり、生涯を懸けた贖罪の始まりだったのじゃ」
僕は何も言えなかった。
ただ、静かに涙が溢れて止まらなかった。




