第27話 聖痕の追跡、霧の中の不信
(ここは……魔物を殺すための街だ)
走馬灯のように、バルディアの光景が脳裏を過ぎる。
見上げるほどに高く、威圧的な城壁。
建物そのものが「砦」になるように造られた石積みの街並み。
そして――幼い子供たちですら「魔族」という言葉を忌み嫌い、石を投げつけることを正義と教え込まれる、徹底された排他思想。
僕たちは、そんな鉄壁の要塞に喧嘩を売り、正面から破壊してしまったのだ。
ただ走って逃げられるような相手じゃない。
「アレン、空じゃ! 木々の影に入れッ!……くっ、こんな辺境に聖教会の竜騎士がいたとはっ!」
師匠の鋭い叫びと同時に、頭上の木々が狂ったようにざわめいた。
上空から大地を押し潰すような、肺が圧迫されるほどの重苦しいプレッシャーが襲いかかる。
グォォォォォォォ……ッ!
それは鳴き声ですらなく、巨大な翼が空気を押し潰し、引き裂く音。
見上げれば、森の隙間を滑空する巨大な影の喉元に、聖教会の紋章――聖印が不気味な白光を放って明滅していた。
「……展開。照らせ」
上空から氷のように冷徹な声が降った直後、枝葉の隙間を縫って白銀の魔導光が放射された。
その光は、まるで獲物を探す蛇の舌のように、地面を舐め回しながら走り抜ける。
光が触れた草木は、まるで生気を吸い取られたように白く変色し、淡い燐光を放ち始めた。
(……なんだ、あれは。凍ってるのか……?)
「アレン、光に触れるな! あれは『聖痕の刻印』……一度でも浴びれば、その体は数日間、闇の中でも白く光り続ける。そうなれば、どこへ逃げようと空から丸見えだぞ!」
師匠の警告に、背筋が凍る。
「ちっ、邪魔だねぇ……!」
走りながら、ミレイユさんが低く毒づいた。
彼女は速度を緩めず、肩に深々と突き刺さった矢を左手で掴む。
「――ッ、ボキッ!」
生々しい破壊音と共に、彼女は躊躇なく矢軸をへし折った。
溢れ出た鮮血が森の土を汚すが、彼女は眉一つ動かさず、身を屈めて深い茂みへと躍り込んだ。
「ミレイユさん!?」
「気にするな、走れ!」
肺が焼ける。
心臓が喉元までせり上がってくるような錯覚。
道なき道を駆け抜け、泥に足を取られ、木の根に躓きそうになりながら、僕たちはひたすら深い森の奥、竜の目が届かない闇の底へと逃げ込んだ。
数時間が経っただろうか。
ようやく上空の羽音が遠ざかり、サーチライトが森をなぞる白銀の光も見えなくなった頃。
先頭を走っていた師匠が足を止め、木に手をついて荒い息を吐いた。
「……はぁ、はぁ……。ここ、まで来れば……まずは大丈夫じゃろう」
そこは、鬱蒼とした巨木に囲まれた、小さな広場のような場所だった。
気づけば、辺りにはうっすらと湿った霧が立ち込め始めている。
僕たちは泥のようにその場に座り込んだ。
(……逃げ、切れたのか?本当に……)
視線を落とすと、禍々しい鱗に覆われていた右腕は、いつの間にか人間の腕に戻っていた。
けれど、耳の奥でうるさいほど鳴り響く鼓動と、全身を焦がすような熱だけが、さっきまでの出来事が現実だったのだと突きつけてくる。
あのバルディアの全戦力を敵に回した恐怖が、今になって指先を震わせていた。
「いっ……つつ……。あーあ、散々な夜だねぇ」
静寂を切り裂いたのは、ミレイユさんのひどく掠れた声だった。
彼女は木に背中を預け、折れた矢の根元が突き刺さったままの右肩を、忌々しそうに見下ろしている。
「ミレイユさん! やっぱり、さっきの傷が……」
「騒ぐんじゃないよ。……これでも走ってる最中に軸を折っておいたんだ、マシな方さ」
彼女は顔をしかめながら、傷口付近の服を破り、滲み出る血を布で強く押さえた。
「……鏃は残っちまったけど、今はこれでいい。下手に抜くと出血がひどくなるからね」
強がってはいるが、彼女の額には脂汗が浮かんでいる。
その光景を見て、僕の胸にどうしようもない罪悪感がこみ上げてきた。
あの時、僕を守るためにミレイユさんは……。
僕が……僕がもっと強ければ……。
いや、そもそも僕と一緒にいたせいで……。
「ごめんなさい……僕のせいで……」
「謝るんじゃないよ。湿っぽいのはガラじゃない」
ミレイユさんは痛む肩をさすりながら、ニカっと笑って見せた。
だが。
「……茶番はそこまでじゃ」
冷徹な声と共に、師匠が動いた。
ジャリッ。
師匠は剣の柄に手をかけ、彼女との距離を測るように詰め寄った。
「……いい加減に白状しろ。貴様の真の狙いは何だ? アレンの『あの姿』を見ても動じず、衛兵隊を敵に回してまで助けた。……普通の人間なら、悲鳴を上げて逃げ出す場面だ。 なぜ、そこまでする?」
「……へぇ。命の恩人を尋問かい? 世知辛いねぇ」
ミレイユさんは痛む肩を庇いながら、不敵に笑って見せた。
だが、師匠の目は笑っていない。
「はぐらかすな。目的は何だ。アレンの力を利用しようとする輩ならば、ここで斬る」
「おいおい、怖い顔しないでくれよ。アタシはただ……」
ミレイユさんが何かを言いかけた、その時だった。
「ッ……!?」
彼女の表情が一変した。
師匠も同時に反応し、バッと背後の闇を睨みつける。
「囲まれてるねぇ。……足音もしないなんて、さっきの連中とは格が違うよ」
ミレイユさんが小声で呟く。
その言葉通り、森は不気味なほど静かだった。
虫の音ひとつ聞こえない。
ただ、肌にまとわりつくような、湿った殺気だけが漂っていた。




