第24話 魅入られた漆黒、獲物の烙印
「んっはぁ〜! 生き返るねぇ!」
木製のジョッキを豪快に空け、ミレイユさんがテーブルにドンとそれを叩きつけた。
僕たちが泊まるのは、一階が酒場になっている宿屋『踊る山猫亭』だ。
店内は仕事終わりの職人や冒険者たちでごった返し、熱気と料理の匂いが充満している。
「おい、ここの名物を片っ端から持ってきな! あと、このボウヤに一番デカい肉だ。パンも山盛りでね!」
ミレイユさんが店員を呼び止め、景気よくテーブルを叩く。
次々と運ばれてくるのは、脂の乗った肉塊に、湯気を上げるシチュー、そして大きなバスケットから溢れんばかりのパン。
僕が返事をする暇もなく、目の前が料理の山で埋め尽くされていく。
「ほらアレン、あんたも食べな。肉だ肉! そんな細っちい体じゃ、黒鋼の重さに負けちまうよ!」
「あ、はい……。いただきます」
僕の目の前には、皿からはみ出しそうな分厚いステーキと、見たこともない量のパンが置かれている。
修行時代は師匠と二人、木の実や干し肉をかじるだけの毎日だったから、こんな豪華な食事は……いや、これだけの『物量』は初めてだ。
「……ミレイユさん、さすがに頼みすぎじゃ」
「何言ってんだい。食うのも修行のうちさ! ほら、その鳥脚もアタシが食い終わる前に手を出しな!」
ミレイユさんはガハハと笑いながら、自分も巨大な肉を豪快に頬張っている。
圧倒されつつも、漂ってくる香ばしい匂いに胃が鳴った。
一口食べると、濃厚な肉汁が口いっぱいに広がる。
「美味しい……!」
「だろ? 働いた後の飯は格別なのさ。足りなきゃもっと頼んでやるからね!」
ミレイユさんはニカっと笑い、二杯目のエールを注文した。
師匠は渋い顔で茶を啜っているが、その目は周囲を油断なく警戒している。
僕はフードを目深に被り直し、右手はテーブルの下に隠したまま食事を続けた。
その時だった。
バンッ!!
突然、宿の入り口の扉が乱暴に蹴破られた。
店内のざわめきが一瞬で消え、静寂が訪れる。
「……なんだぁ?」
酔っ払った客の一人が文句を言おうとして、言葉を飲み込んだ。
入ってきたのは、銀色の鎧に身を包んだ一団――バルディアの衛兵隊だったからだ。
その数、十人以上。
彼らは店内に踏み込むと、殺気立った目で客席を見回し始めた。
「お、おい……何かあったのか?」
「知らねぇよ、関わるな……」
客たちが怯えて視線を逸らす中、衛兵たちの列が割れ、一人の男がゆっくりと歩み出てきた。
整えられた口髭。肉付きの良い体。
そして何より、その瞳に宿る粘着質な光が、見る者に生理的な嫌悪感を抱かせる。
衛兵隊長、スカブだ。
「……見つけたぞ」
スカブはニタニタと笑いながら、真っ直ぐに僕たちのテーブルへと歩いてきた。
「よう。随分と景気が良さそうだな」
隊長は僕たちのテーブルに手をつき、上から覗き込んできた。
「旅人か? 見ない顔だが」
「……いかにも」
師匠が静かに答える。
隊長は鼻を鳴らし、次にミレイユさん、そして最後に僕を見た。
「ふむ……。実はな、さっき市民から通報があったんだよ。『路地裏で暴れている危険な連中がいる』とな」
「へぇ? そりゃ物騒だねぇ」
ミレイユさんが頬杖をつきながら、とぼけた様子で返す。
「全くだ。なんでも、大の男を吹き飛ばすほどの『怪力』を持ったガキと、大剣を担いだ女、それに目つきの悪いジジイの三人組だとか」
隊長の目が、鋭く細められる。
「……お前らのことじゃねぇのか?」
心臓がドクリと跳ねた。
さっきの男たちが、通報したんだ。
「人違いじゃな。わしらは今しがたバルディアに着いたばかりじゃよ」
師匠が平然と嘘をつく。
しかし、隊長は引かない。
「ほう? じゃあ、そこのボウヤ」
彼は顎で僕をしゃくった。
「そのでかい剣は何だ? 子供が持つには不釣り合いな『業物』に見えるが」
「これは……護身用です」
「護身用ねぇ。……おい、そのフードを取れ」
僕は固まった。
でも、ここで逆らえば余計に怪しまれる。
僕は意を決して、ゆっくりとフードを下ろした。
「……チッ、本当にただのガキじゃねぇか。こんなひよっこが、あの報告通りの暴れ方をしたってのか?」
僕の顔を見て、隊長はつまらなそうに鼻を鳴らした。
ホッと胸を撫で下ろしかけた、その時だ。
「だが……通報によれば、そのガキは『人間離れした力』を使ったそうだな」
隊長の目が、再び怪しく光る。
彼は僕の顔から視線を下げ、包帯で巻かれた右腕をじっと見つめた。
「怪しいなぁ。もしかして、中身は人間じゃなくて『魔族』なんじゃねぇか?」
―――ドクンと、心臓が凍りつく。
「魔族」という単語が出た瞬間、店内の空気が物理的な温度を失ったかのように冷え込んだ。
それまで同情的だった客たちの目が、弾かれたように「忌むべきものを見る色」に変わったのがわかった。
「……言いがかりだ」
「なら証明してみろよ。ほら、その包帯を解いて、腕を見せてみな」
隊長の視線が、僕の右腕に突き刺さる。
(……見せたくない)
この包帯の下にあるのは、今はただの「人間の腕」だ。
でも、「火傷がある」とミレイユさんに嘘をついている以上、綺麗な肌を見せれば「なぜ嘘をついた?」と追及される。
それに何より――僕自身が、この右腕を直視したくない。
いつ赤黒く変色し、脈打ち、僕を乗っ取るかわからないこの腕を、誰かの目に晒すことがたまらなく怖い。
僕が拳を握りしめ、脂汗を流して固まっていると、隊長がさらに詰め寄ろうとした。
「どうした? やましいことがないなら見せられるはずだろ」
隊長の手が、僕の右腕に伸びる。
逃げられない。
「待て」
師匠が素早くその手を遮った。
「食事の邪魔をするな。何の権限があってそのようなことをする?」
「権限? ハッ、笑わせるな」
隊長は口の端を歪めて嘲笑うと、これ見よがしに腰の剣の柄に手をかけた。
その動作を合図に、周囲の衛兵たちも一斉に武器を構える。
ジャラッ、という無機質な金属音が、店内の空気を一瞬にして切り裂いた。
「ひッ……!?」
「お、おい、やべぇぞ!」
一触即発の空気を悟った客たちが、悲鳴を上げて席を立った。
ガタガタと椅子が倒れ、飲みかけのグラスが床に落ちて砕け散る。
怒声と悲鳴が入り乱れる中、客たちは我先にと出口へ殺到し、店内は瞬く間に嵐が去った後のような惨状となった。
「この街じゃあ、俺たち『衛兵』がルールなんだよ。魔族対策のためなら、疑わしい奴をどう料理しようが自由なんだ」
客がいなくなった店内で、隊長は顔を近づけ、低い声で脅すように囁いた。
僕が覚悟を決めて剣に手を伸ばしかけた、その時だった。
「――やれやれ。せっかくの酒が不味くなるじゃないか」
ため息混じりの声と共に、ミレイユさんが立ち上がった。
「衛兵さんよぉ。アタシらはただの旅人だって言ってるだろ? それに、その子はアタシの弟分でね。ちょっと火傷の跡が酷くて、人に見られるのを嫌がってるのさ。……武人の情けってやつで、見逃してやってよ」
ミレイユさんは笑顔でそう言いながら、懐から何かを取り出し、隊長の胸ポケットに素早くねじ込んだ。
チャリ、と金属音がした。
金貨だ。
スカブはポケットの中身を確認すると、口元を醜く歪めた。
「……ほう。酒代のつもりか?」
「手間賃さ。ご苦労さん」
「ケッ、しけた金だ」
スカブはわざとらしく舌打ちをした。
だが、その目は笑っていない。
彼はくるりと踵を返しかけ――ふと、足を止めた。
そして、ゆっくりと首だけを回し、僕の方を見た。
「……」
何も言わない。
ただ、その爬虫類のような粘着質な視線が、僕の顔から――背負ったままの『黒鋼の剣』へと滑り落ち、そこでピタリと止まった。
光を吸い込むような不気味な漆黒。
僅かな光さえ反射しないその刀身に、スカブの瞳の中にどす黒い「欲」が点るのを、僕は見た。
値踏みするような、それでいて逃れられない罠にかけた獲物を見つけたような、底冷えのする眼差し。
僕が息を飲む音すら聞こえそうな静寂の中、スカブはニヤリと口の端を吊り上げた。
「……行くぞ」
彼は短く部下に命じると、今度こそ振り返らずに店を出て行った。
嵐が去った後のような静寂。
僕は椅子の背もたれに深く寄りかかり、大きく息を吐いた。
「……なんだったんだ、今の」
「ちっ。せっかくの臨時収入がパーだよ。高い夕食になっちまった」
ミレイユさんは悪態をつきながら、空になったジョッキを振った。
しかし、師匠の表情は険しいままだ。
「……目をつけられたな」
「うん……」
「あの隊長、ただの小悪党かと思ったが……去り際のあの目。金で満足したわけではないな」
「……え?」
「あれは……骨の髄までしゃぶり尽くす『獲物』を定めた目じゃ」
師匠の言葉に、僕は自分の右腕を強く握りしめた。
ただ剣を買って、通り過ぎるだけのつもりだったのに。
運命の歯車は、僕たちが望まない方向へと回り始めていた。




