第17話 世界で一番、居心地の悪い場所
ミレイユさんは楽しそうに喉を鳴らすと、悪戯っぽく片目を閉じて見せた。
「坊主、あの水晶を出された時、顔色が真っ青だったからね。『こりゃあ、ただ事じゃないな』と思って見てたけど……まさか爺さんが強行突破するとはねぇ」
「……」
「ま、誰にだって触られたくない『事情』の一つや二つ、あるもんさ。これ以上、深くは聞かないよ」
彼女はそう言って、僕の頭をポンと叩いた。
――見透かされている。
彼女は、僕が「水晶」を恐れていたことに気づいているのだ。
その瞬間。
ジャリッ……。
砂利を噛む鋭い音がして、師匠がミレイユさんと僕の間に、割って入った。
師匠の背中が、岩のように険しくそびえる。
その右手は、すでに腰に帯びた剣の柄に深くかかっていた。
「……おい、女」
師匠の声が、今まで聞いたことがないほど低く、そして微かに震えていた。
その場に、冷たい刃を突きつけられたような鋭い殺気が膨れ上がる。
それは焦りと、明確な殺意が混じった声だった。
「お前、どこまで気づいている?」
「師匠……っ!?」
もし彼女の答え次第では、この場で斬り捨てる――。
一触即発の、張り詰めた糸のような空気が路地を支配する。
ミレイユさんもまた、先ほどまでのふざけた笑みを完全に消し、真っ向から師匠の眼差しを受け止めた。
「……怖い顔すんなよ、爺さん。言っただろ、深くは聞かないって」
「信用できるか。……その口、永遠に開かぬよう塞いでやろうか」
師匠が剣を数センチ、鞘から走らせる。
キン、と冷たい金属音が路地裏に響いた。
僕の心臓が凍りつく。
「ま、待ってください師匠! ミレイユさんは、オークから僕を助けてくれた恩人なんです!」
「甘い! 疑いを持たれた以上、生かしてはおけん。……災いの芽は、ここで摘むのが鉄則じゃ!」
師匠の目は、本気だった。
僕という存在を守るためなら、たとえ恩人であろうと、世界すべてを敵に回してでも斬り捨てる。
その凄まじい執念が、抜かれかけた刀身から陽炎のように立ち上っている。
だが。
死の淵に立たされているはずのミレイユさんは、眉一つ動かさず、やれやれと大仰に肩をすくめて見せた。
「短気だねぇ、爺さん。……安心しな。アタシは元から兵隊連中が大嫌いなんだ。魔族狩りだなんだと正義面して、結局は弱い者いじめしかしないクズどもだからね」
「……なに?」
「アタシは、そこの坊主が気に入ったのさ。……兎一匹守るために、自分よりデカいオークに命を張れるような馬鹿を、アタシは売ったりしないよ」
彼女は、師匠の射殺すような視線を真っ向から受け止めた。
赤い瞳の奥には、嘘も偽りもない、鋼のように強い意志が宿っていた。
「……」
師匠はしばらく、その視線を逸らさずに彼女を睨みつけていた。
やがて、喉の奥で悔しそうに歯噛みすると、ゆっくりと、けれど確実に剣から手を離した。
「……もし他言すれば、地の果てまで追いかけて殺す。……よいな」
「はいはい、肝に銘じとくよ。命は一つしかないんでね」
ミレイユさんはニカっと屈託なく笑い、路地裏に満ちていた凍てつく殺気を一瞬で霧散させた。
師匠は大きく、深く溜息をつき、額に滲んだ冷や汗を乱暴に拭う。
そのまま無言で踵を返すと、僕たちに背を向けたまま大通りへと歩き出した。
僕たちは慌ててその背中を追った。
湿った静寂の路地裏から一歩踏み出し、大通りへと出た瞬間――。
そこには、これまで見てきたどの場所とも違う「異様な光景」が広がっていた。
街の中の空気は、外で感じていた威圧感よりもずっと重く、濃い。
確かに活気はある。
行き交う人々の数はマルカ村の比ではないし、立ち並ぶ石造りの建物はどれも堅牢で立派だ。
だが、それ以上に……。
「なんだ、この空気は……」
肌を刺すような、ピリピリとした『殺気』が街全体に満ちている。
大通りを行き交う人々は老若男女を問わず皆、鋭く研ぎ澄まされた刃物を腰に下げ、広場の掲示板には「魔物討伐数」の序列や、目を覆いたくなるほど血生臭い「賞金首の手配書」が無数に貼り出されていた。
ふと視線を落とすと、子供たちが笑い声を上げているのが見えた。
けれど、それは微笑ましい光景などではなかった。
「くらえ、汚い魔族め!」
「あはは、もっとぶつけろ!」
『魔族役』を押し付けられた一人の子に向かって、他の子供たちが容赦なく石を投げつけて遊んでいたのだ。
それが当たり前だと言わんばかりの、純粋で残酷な「魔族ごっこ」。
(ここは……魔族を殺すための街だ)
その瞬間、包帯の奥にある右腕が、熱を持ったようにズキリと疼いた。
僕は無意識にその腕を抱きしめる。
隠しているつもりでも、街中の視線がすべて僕の『中身』を暴こうとしているような錯覚に陥る。
四年間過ごしたあの静かな山とは正反対の、世界で一番居心地の悪い場所。
「……行くぞ、アレン。あまり立ち止まるな」
師匠の低い声に促され、僕は凍りついたような足を無理やり動かした。
だが、その時。
ふと、街の中央にそびえ立つ巨大な時計塔の頂から、誰かに見られているような視線を感じた。
見上げても、そこには誰もいない。
カラスが一羽、不吉な声で鳴いて飛び去っただけだった。
僕たちはまだ知らない。
この街での出来事が、僕たちを果てしない『逃亡の旅』へと突き落とすことになることを。




