第九十五滴 初心
ぽたりぽたりと、水滴が頬を濡らす。
崩れた氷に覆われ、床に横たわっていた天璃は、脳を揺らすような匂いに意識を覚醒させた。
「……しゅら、ちゃん?」
「はーい。天璃ちゃんの珠羅ちゃんだよ〜」
天璃を囲うように手をついていた珠羅が、にこりと笑う。いつも通りの珠羅の様子に安堵しかけた天璃は、頬を濡らす水滴の色に呼吸を止めた。
氷越しに聞こえていた喧騒が、一瞬で遠のいていく。
天璃の頬を濡らす赤は、珠羅の方から滴り落ちていた。
「珠羅ちゃん、血が……」
「このくらい平気だよ〜。天璃ちゃんこそ、怪我はない?」
珠羅と対極の色をした制服は、今や真っ赤に染まっている。それだけで、天璃は珠羅がどれほどの血を流したのか気づいてしまった。
「私のことより、珠羅ちゃんが……!」
口に出した言葉が、天璃の感情を切迫させていく。ぐっと噛み締めた唇に、薄く血が滲んだ。
どんな時も冷静さを失わない天璃が、動揺を露わにしている。そんな天璃の姿を見下ろし、珠羅は機嫌が良さそうに目を細めた。
「本当に平気だよ。とりあえず、ここから出ないとね」
珠羅の指が天璃の頬についた血を拭った直後、周囲の氷が弾けるように砕けた。
ひいちゃんが持ち上げた氷を、ふうちゃんが破壊したのだろう。あっという間に撤去されたシャンデリアは、ガラスの欠片のようにパラパラと散っている。
「無事か!? えらい血でとるやんけ!」
「珠羅ちゃんが守ってくれたから、私は何ともないよ。でも、早く医務室に行かないと」
淡々と話す天璃だが、珠羅の袖を握る手は少し震えている。駆け寄った霊藻は珠羅に視線を移すと、付き添いは必要かと問いかけた。
「天璃ちゃんだけで充分だよ〜。大した怪我でもないからね」
「せやか。ほな、必要になったら声かけてや」
制服を真っ赤に染めておきながら、大した怪我ではないと話す珠羅の言葉を、天璃はどこまで信じていいのか分からなかった。
霊藻も何か思うところがあったのか、青ざめた兎々の背を宥めるように撫でながら、険しい表情を浮かべている。
周囲の騒めきや注目など意に介さず、天璃は早く医務室に行こうと珠羅の手を引いた。
◆ ◆ ◆ ◇
「連絡は受けてる。災難だったな」
治療の準備を済ませていた神領は、医務室につくなりベッドの方を指差した。
「とりあえず、脱げ」
「え〜」
「えーじゃない。早く脱げ」
面倒そうな珠羅をカーテンの先に押しやると、神領は天璃の方を振り返った。
「御門もだぞ」
「私もですか?」
どこも怪我はしていないと話す天璃に、神領は赤く染まった制服を無言で指差す。一瞬、脱ぐのを躊躇した天璃だったが、医務室ということもあり大人しく服に手をかけた。
抜けるように白い肌は、新雪のように穢れ知らずだ。脇腹に走っていた傷は、跡すら残っていない。
あの時は急ぎということもあり、吸血鬼の血が混じった薬を渡した神領だったが、それが天璃だけではなく、珠羅の心境にも何らかの変化を与えてしまったことは確かだ。神領はそのことが、ずっと気掛かりだった。
吸血鬼の血にも、先祖返りの血にも、一切の拒絶反応を示さない天璃の異常さ。神領は医学の道に進んだが、もし研究者であれば何としても手に入れたいと望んだかもしれない。
目視で診察を終えた神領は、気まずそうな天璃に医務室用の着替えを渡すと、珠羅の傷を見るため手の甲でカーテンを避けた。
「怪我見せてみ……阿留多伎、おまえよくその傷で歩いてこれたな」
不穏な空気を感じ、天璃も珠羅の方を覗き込む。
ベッドに腰掛けていた珠羅は、制服の上だけを脱いでおり、黒い下着姿になっていた。
血はすでに止まっているが、ベッドに敷かれたタオルは所々が赤くなっている。珠羅の背中には裂傷がいくつかあり、上に向かうほど大きく抉れていた。腹部には貫通したような痕があり、人間であれば致命傷になり得る位置だ。
制服が黒いため、事の深刻さに気づきにくくなっていたのだろう。想定よりも酷い有様に、天璃の呼吸が乱れた。
「私たちが人間と違うのなんて、今更でしょ?」
「……そうだったな」
珠羅の視線が、神領の後ろに向けられる。ゆるりと目を細めた珠羅が、天璃の名前を呼んだ。
「心配しなくても、すぐにくっつくよ〜」
大丈夫だと繰り返す珠羅に、天璃が黙って目を伏せる。迅速に処置を施しながら、神領が「それにしても」と口を開いた。
「深窓の麗人と言われていた夢幻寮の寮長が表に出てきたかと思えば、よりにもよって御門が通った時に……な。故意の可能性はないのか?」
謎多き寮長。猛獣でさえも正体を知らなかった氷雨が、天璃と関わったことで動き始めた。今回の件も、偶然にしては出来すぎている。
神領が疑うのももっともだ。けれど、天璃には氷雨のせいではないという確信があった。
「それはないと思うよ〜」
否定を口にした珠羅に、天璃が瞳を揺らす。
「何故そう思う?」
「私がいてもお構いなしに天璃ちゃんにアピールするようなやつが、わざわざ姑息な手を使うとは思えないんだよね〜」
「なるほどな」
厄介な相手ばかり引き寄せる天璃を内心で憐れみつつ、神領は巻き終えた包帯から手を離した。
「問題ないとは思うが、念のため治癒を早める薬品を染み込ませてある。数時間はそのままにしておけよ」
「はーい」
軽い返事に息をつくと、神領は天璃たちを追い払うように手を振った。
◆ ◆ ◇ ◇
「天璃ちゃん、一緒にお風呂入ろ〜」
「……一緒に?」
「そ。一緒に」
並んでソファーに腰掛け、コントローラーを操作していた天璃は、突然投げかけられた言葉に何度か目を瞬いた。
無言で考え込む天璃を見つめ、珠羅が腹部に手を当てる。
「なんか、怪我したところが痛くなってきたかも。このまま一人で入ったら、余計に痛くなりそうだな〜」
わざとらしい演技でも様になるのは、珠羅の容姿ゆえか。罪悪感をつついてくる珠羅に、天璃は仕方がないとソファーから立ち上がった。
「どうしたの? お風呂、行くんじゃないの?」
「本当に行ってくれるんだ」
意外そうな顔をする珠羅は、今回も断られると思っていたようだ。あわよくば、程度に言ってみたのかもしれない。
「天璃ちゃんが飼い主になった日のこと、覚えてる?」
「もちろん覚えてるよ」
「天璃ちゃんってば私が何しても無抵抗なのに、着替えとお風呂だけはダメーってしてたでしょ?」
珠羅が望むなら、天璃は大抵のことを許容できる自信があった。その考えは、あの頃と何も変わっていない。
世話をしたければさせるし、甘やかしてほしいなら存分に甘やかす。けれど、たとえ珠羅が不満を訴えても、着替えと風呂だけは絶対に譲らなかった。
「あんまり肌を見せるのは……良くないから」
「天璃ちゃんって、たまに古風なこと言うよね〜」
「そうかな?」
千年ほど前であれば似たような文化もあったかもしれないが、それが天璃の考えに関係しているかと問われれば答えは否だ。
気が変わらないうちにと珠羅に背を押され、天璃はあっという間に浴室へと連れ込まれた。
「傷、塞がってるね」
「でしょ〜」
安堵した表情を浮かべる天璃に、珠羅が柔らかく目を細める。泳げそうな広さの浴槽に浸かりながら、天璃は色づいた頬を隠すように下を向いた。
「天璃ちゃんってば、うぶだね〜」
策略を得意とする天璃が、恋愛になった途端レベル一桁の初期装備、スライムにも苦戦する初心者になってしまう。それが少し意外な反面、珠羅にとっては都合が良いことでもあった。
「大丈夫。何もしないよ」
優しさの滲む声色に、天璃が顔を上げる。
視線が合ったことで、珠羅がにこりと笑みを浮かべた。
「手を出していいなら出すけど」
「エンリョシマス」




