第九十四滴 夢幻
夢幻寮の中に足を踏み入れると、涼しげな空気が漂ってきた。
山の湖畔にいるような清らかさと、氷山の一角に取り残されたような鋭さ。静と動。二つが混じり合った空気を、天璃はどこか心地よく感じた。
「天璃さま! 来てくださったんですね!」
扉に向かう天璃たちを、明るい声が呼び止めた。駆け寄ってきた舞宵の表情は、喜色に染まっている。
「阿留多伎さまもご一緒のようで。あの、そちらの方々は……?」
「同じクラスの友人だよ。一緒に見にきたんだ」
「そうでしたか!」
霊藻たちに向けて、舞宵がぺこりと頭を下げた。同じように頭を下げる兎々の隣で、霊藻が「よろしゅう」と口にする。
「ああ、そうだ! 今年の出し物は凄いですよ! この三年間で初めて、氷雨さまがやる気を出してくれまして……。これも全て、天璃さまのおかげです……!」
ウルウルした目で感謝を告げる舞宵に、天璃が苦笑を浮かべた。
「ゆっくり見ていってくださいね!」
食堂の前に着いた舞宵が、両手で扉を開く。
ふわりと舞う冷気の先に広がっていたのは、全てが氷で作られた世界だった。
壁も、置物も、階段も。何もかもが氷でできている。水晶のような表面がキラキラと光を反射し、まるで童話の世界のように幻想的だ。
ふと氷の花瓶に飾られた花を見つけ、天璃はその場で足を止めた。
『もう秋なのに、まだ暑いくらいだね』
『あー、分かる。湿っぽくてだるいよな』
どこからか、声が聞こえる。
『ちょっと待ってろ。……ほら、これで良くなっただろ? 氷が溶けることはないし、冷気も抑えてあるから寒くないはずだ』
『うん。ちょうど良いよ。ありがとう、氷雨』
『どーいたしまして』
目の前に見える光景は、ここではないどこかを映していた。
壁や床が氷で覆われ、星々のように煌めいている。満足そうに笑った氷雨の手には、一輪の氷花が握られていた。
天璃の方に手を伸ばすと、そっと氷花を髪に差し込む。
『やるよ。天璃によく似合ってる』
髪から離れた手が、そのまま頬を愛おしげに撫でていく。
くすぐったさに身を震わせると、天璃は氷雨を見つめ柔らかく微笑んだ。
「天璃ちゃん?」
ハッとした天璃の視界に、現実が戻ってくる。天璃を覗き込んだ珠羅が、額に手のひらを当てた。
「なんや、具合でも悪いんか?」
「あっちに椅子……あるよ」
心配そうな兎々が、休めそうな場所を指で示す。
「大丈夫だよ。少しボーッとしてただけ」
平気だと首を振ると、天璃は額に触れていた珠羅の手を優しく包んだ。
どこかの城内を再現したような空間には、氷の絵画や調度品なども飾られている。ふとそれに気づいた兎々の表情が、パァッと明るさを増した。
「スイッチ入ってもうたな。すまんけど、ちょいと別行動になるわ」
「時間はあるから、ゆっくりでいいよ」
兎々に付き添い、霊藻が展示物の方へ向かう。珠羅と手を繋いだまま、天璃がテラスでも見に行こうかと考えていた時だった。
「阿留多伎さま」
駆け足で近寄ってきた舞宵が、遠慮がちに声をかけてくる。
「実は、入口の方で結解先生にお会いしたのですが、阿留多伎さまを探されているようでして……」
「結解先生が?」
「はい。阿留多伎さまに、お話ししたいことがあるそうです」
申し訳なさそうな顔の舞宵が、「お邪魔してすみません」と眉を下げた。
「私はここで待ってるから、珠羅ちゃんは結解先生のところに行ってきて」
「すぐ戻るね〜」
面倒そうな空気を滲ませる珠羅だが、相手が教師のため断るわけにもいかないのだろう。しぶしぶ離れた珠羅を見送り、天璃は室内をぶらりと回ってみることにした。
氷の蔦が伸びるテラスに出ると、見覚えのある後ろ姿があった。振り返った朽苑が、天璃の名前を呼ぶ。
「梵さんも来てたんだね」
「ぼくの寮はここなので、ついでみたいなものですが」
黒い布の下で、形のいい唇が笑みをかたどる。
「催しは成功したみたいですね」
「成功するって分かってたからね」
正確には、見えていたと言うべきか。
霊藻の幻術、希杏のリスト。そして、朽苑の未来視。この三つが揃ってこそ、今回の出し物は真価を発揮することができる。
リストを手に入れた天璃は、とある目的のため何パターンかの仮説を立てた。深層心理の中でも、特に探られたくない部分。当たりを引くために、必要な情報をいくつかに分けて用意したのだ。
朽苑の未来視は、他者と関わるほど相手の未来を多く見ることができる。天璃は朽苑にリストを渡し、「私がこの結果に満足してるかどうか見てほしい」と言った。
見える未来は、どの時間軸でも構わなかった。要は、成功したかどうかが分かればいい。
満足した場合、身体のどこかにそれと分かる装飾品をつけておく。未来の天璃がそれを身につけていれば、成功というわけだ。
もし朽苑が一つ目の未来に首を振れば、そのリストは破棄し、次の候補に移るつもりだった。何度か繰り返せば、いずれ最適解に辿り着く。
初めは混乱していた朽苑も、天璃の目的に気づいてからは積極的に協力してくれた。
「ぼくの未来視をあんな風に使ったのは、御門さんが初めてですよ」
楽しそうに話す朽苑は、寿命が削れたことよりも、天璃という人間を知れたことの方が嬉しいようだった。
誰とも関わりを持ってこなかった朽苑にとって、天璃は今や唯一の話し相手だ。どこか特別に思ってしまうのも、ある意味、自然なことだったのかもしれない。
「早く探し物が見つかるといいですね」
「そうだね」
失った記憶。取り出された血液。そして──。
胸元を握った天璃が、空を見上げる。氷に反射した日差しが、やけに眩しく感じた。
室内に戻った天璃は、懐かしさの滲む光景をぼうっと眺めていた。
自分が何者なのかも分からないまま、感情だけが欠けたものを求めて暴れている。軽く息をついた天璃は、不意にぞわりとした気配を感じ、反射的に辺りを見回した。
ピシリ、と嫌な音が鳴る。
身体に影が落ち、天璃は頭上に視線を向けた。
「……え?」
巨大な氷のシャンデリアが、天璃を目掛けて振ってくる。
甲高い音が響いた直後、辺りに生温かい鮮血が散った。




