第八十九滴 梵ぐ件
「なかなか戻ってこないから、心配したよ〜」
「ごめんね。迎えに来てくれてありがとう」
漆黒の髪が風に靡く。にこりと笑った珠羅が、無事を確かめるかのように天璃の頬に触れた。
「なるほど。そういうことですか」
感情を押し殺した声に、珠羅が女性の方を見る。
「先祖返りに横から掠め取られるなど、私もまだまだ未熟ですね」
「選ばれなかったからって、自分を責めることないと思うよ〜」
珠羅も女性も互いに笑みを浮かべているが、目は笑っていない。緊迫した状況の中、先に折れたのは女性の方だった。
「記憶が戻れば、お気持ちも変わるはずです。いずれまた、お会いしましょう」
珠羅に手を引かれ、女性に背を向ける。
チラリと振り返った先の女性は、天璃を見つめ懐かしそうに微笑んでいた。
◆ ◆ ◆ ◇
誰かが泣いていた。
酷くつらそうな嗚咽の合間に、縋るような懇願が混じる。
大切な人だった。もし涙を止められるなら、どんな願いでも叶えてあげたくなるほどに。けれどその願いは、どうしても叶えることができないもので──。
苦しいのだと泣く少女の姿を、天璃はただ静かに見下ろしていた。
揺籠のような振動に、薄く目を開く。
水飛沫のついた窓から、明け方の光が差し込んでいる。夢見が良くなかったため、普段よりも早く目が覚めてしまったようだ。
隣で横たわる珠羅の瞼はまだ閉じられており、珍しい光景に天璃はそっと身体を起こした。寝ているとあどけなさの増す容貌が可愛くて、目にかかった前髪を退けようと手を伸ばす。
指で髪を流した直後、天璃の手が珠羅によって包まれた。
長い睫毛の下から覗いた瞳はいつもより気怠げで、思わず見惚れてしまうような色香を纏っている。そのまま指を絡めた珠羅が、揶揄うように目を細めた。
「寝込みを襲うなんて、天璃ちゃんのえっち」
「襲ったついでにおはようのキスでもと思ったけど、やめておくね」
意表を突かれたのか、珠羅がパチリと目を瞬く。さっさとベッドを降りた天璃を、珠羅が背後から抱き込んだ。
「ねえ〜、いじわるしないでよ」
逃れられないほど強いが、決して天璃を傷つけないよう力加減のされた腕に、心の中で白旗を掲げる。
「屈んでくれないとできないよ」
寝癖で所々はねた髪を、指で梳くように撫でていく。
手櫛で直る髪に少しの羨ましさを抱えながら、天璃は素直に屈んだ珠羅の瞼に優しく唇を当てた。
◆ ◆ ◇ ◇
「帰りたくないでござる……」
「卒業しなけりゃ、結局は餌箱行きになるだけだけどな」
「うう……」
楽しい時間はあっという間だ。本土を北から南に回っていた船旅も、残すところあと一日となっていた。
落ち込む千莉の隣では、音夢が淡々と食事を口に運んでいる。
ちょうど昼食をとり終えた天璃は、ふとレストランを出て行く朽苑の姿に気づき、珠羅の袖を軽く引いた。
「少し話してきてもいいかな?」
「いいよ〜。ここで待ってるから、終わったらゲームの続きしにいこ」
船の中ということもあり、何か起こる可能性は低い。みっちゃんたちもいるため、余程のことでない限り問題ないと判断したのだろう。
朽苑の後を追い、天璃も船の展望デッキへと向かう。
「来ていただけると思ってました」
微笑んだ朽苑の顔には、両目を覆い隠すように黒い布が巻かれている。まるで天璃が来ることを予知していたかのような発言に、天璃は納得した表情で朽苑を見た。
「梵さんは、件の先祖返りだったよね」
「ええ。おっしゃる通りぼくの先祖は件であり、その血を受け継いでいるぼくも、未来を断片的に見ることができます」
朽苑とデッキに並び、眼下に広がる海を眺める。
「こうして話すのは、対抗戦の時以来ですね。御門さんが風殿さんに交渉を持ちかけている未来が見えたため、その機会を利用させてもらいました。あの時は、話を聞いてくださり感謝しています」
「私が断らないことも、分かってたんじゃないの?」
「いいえ。未来とは一つではなく、ぼくが見えるのもあくまでその断片です。全てが見えているわけではないんですよ」
穏やかな声で続ける朽苑は、あるがままを語る詩人のようで。どこか客観的な態度が、朽苑の独特な雰囲気によく馴染んでいた。
「それに、未来を見るたびに寿命が縮んでしまうので、こうして封印の布を巻いているんです。ぼくが誰とも関わらないのは、他者と繋がることで、その人の未来が強制的に見えてしまう事態を避けるためでもあります」
意図せず寿命が削られるとあっては、朽苑からしてもたまったものではないだろう。沈黙する天璃を前に、朽苑が柔らかな笑みを浮かべる。
「そうは言っても、人間よりは長く生きられますけどね。ぼくは先祖の血が濃いので、先祖返りの中でも寿命はある方なんです」
顔の半分が隠れているため、感情が読み取りにくい。しかし、朽苑が自らの状況を悲観していないことだけは確かだった。
「御門さんは不思議な人ですね。他者を見捨てる冷徹さがありながら、情けも持ち合わせている。先祖返りのように人間を下に見るでもなく、かといって無感情というわけでもない。今もこうして関わることで、ぼくの寿命が減ることを仕方がないと割り切りながら、頭の片隅では気遣ってくれている」
デッキの柵から手を離した朽苑が、天璃と向き合うように立つ。
「御門さんと関わると決めたのは、ぼくの意思です。貴女にはなんの責任もありません。ですが、一つお願いしたいことがあります」
「どんなこと?」
「ぼくを、共犯者にしてください」
一際高く上がった波が、パラパラと小雨のように降ってくる。
布越しの視線を受け止め、天璃は真っ直ぐ朽苑を見返した。




