第八十五滴 神の雫
怒っている。けれどそれ以上に、他の感情を強く感じた。
「珠羅ちゃん……」
天璃の口から、珠羅の名前がこぼれ落ちる。邪魔が入ったと言わんばかりに舌打ちをした氷雨が、冷え切った表情で珠羅を見た。
「ねえ、なにしてるの?」
重ねられた問いかけと、上乗せされた圧。天璃から離れた氷雨が、珠羅と対峙した。
「別になんだっていいだろ。お前には関係ない」
「それが関係あるんだよね〜」
「ペットのことを言ってるなら、破棄すればいいだろ。前にも言ったはずだ。お前は、天璃に相応しくない」
火に油ならぬ、闇に氷だ。かけ合わせれば、ひたすら温度が下がっていく。
珠羅も氷雨も、濃縮された敵意を理性で抑えつけている。一歩間違えれば、今にも殺し合いを始めそうな空気だった。
「おーい、天璃。大丈夫かー? ってあれ、なにこの状況……」
なかなか戻らない天璃を心配して、風吹が作業場から出てきた。三人を順番に見た風吹が、「修羅場ってやつ……?」と呟く。
「天璃ちゃん。おいで」
たった一言。珠羅が天璃に声をかけた。
縋るような眼差しで、氷雨が「行くな」と口にする。
その場から動かない珠羅を見て、天璃は珠羅の真意を察していた。
珠羅は今、天璃に対して選択肢を与えているのだ。珠羅か氷雨、どちらを選ぶのかはっきりさせろと。
真っ直ぐ、珠羅の元へ歩く。
自分を選んだ天璃に、珠羅がゆるりと目を細めた。
「帰ろっか」
にこりと笑った珠羅の腕に、天璃が腕を絡める。
「え、ちょっ。帰っちゃうの!?」
「すみません、風吹さん。また来ます」
緩んだ空気に、風吹がハッとした様子で声を上げた。
申し訳なさそうな天璃と、さっさと帰ろうとする珠羅を交互に見て、風吹が軽く息をつく。
「確かに、その方がいいかもな。またな天璃。珠羅も、今度はゆっくりしてけよ」
二人を見送り作業場に戻ろうとした風吹は、やけに寒い空気に身体をブルリと震わせた。
直後──辺りの床や壁が、一瞬で氷漬けになる。
「……んで」
パキパキと音が鳴る中、通路に氷雨の地を這うような声が響いた。
「……記憶さえあれば。いや……そもそも、なんで記憶が……」
壁に手をついた氷雨が、表面の氷を握り潰す。
氷の欠片が散る中、恐怖で固まる風吹には目もくれず、氷雨はその場から去っていった。
「おっかねー……」
ポツンと残った風吹から、深いため息が漏れた。
◆ ◆ ◇ ◇
拗ねていらっしゃる。
寮に戻っても無言のままの珠羅を見下ろし、天璃はどうしたものかと考えていた。
ソファーで膝枕をしながら、珠羅の長い髪を指ですくように撫でる。
幸いにも、天璃が珠羅を選んだことで、荒れていた感情は収まったようだった。怒りの矛先が、ほとんど氷雨に向いていたというのもあるのだろう。
人前では飄々とした態度を崩さない珠羅が、天璃の前では時おり子どもっぽい一面をみせる。
それさえも、天璃にとっては可愛いという感情に昇華されるのだから、もはや末期なのかもしれない。
「珠羅ちゃんは、何がそんなに不安なの?」
柔らかな声が、珠羅の耳朶をくすぐる。
「私はもう珠羅ちゃんを選んだから、他の人のところになんて行ったりしないよ」
「……記憶が戻っても、同じことが言える?」
目を開けた珠羅が、天璃の顔をじっと見つめた。撫でていた手を止めると、天璃が不思議そうに目を瞬く。
「記憶が戻ったら、私が珠羅ちゃん以外の人を選ぶかもしれないって思ってるの?」
沈黙は肯定だ。拗ねた態度の下にそんな本心があったと分かり、天璃は自然と微笑んでいた。
「たとえ記憶が戻っても、今の私が消えるわけじゃないよ。だから、気持ちも変わらない」
目にかかった漆黒を、天璃が指で流す。
「私のこと、信じられない?」
「信じるよ。天璃ちゃんは私に、嘘をついたことはないからね」
知られたくないことは、それらしい言葉の裏に隠して誤魔化してきた。
けれど、天璃は珠羅に──嘘だけは吐いたことがなかった。
「珠羅ちゃんは、たまに嘘つきだけどね」
「え〜、そんなことないのに」
くすくす笑う天璃に、起き上がった珠羅がもたれかかる。
「あのね、珠羅ちゃん。前に、神の雫について話したのを覚えてる?」
「覚えてるよ〜。学園を出ていく前の、足しにしたって言ってたよね」
「うん。ただ、資金にしたとかではなくて……本来の場所に、還しただけなの」
左手を持ち上げた天璃が、手首を指でなぞる。
「神の雫は、元は私の血液だったの。それが結晶化して、宝石と同じ価値がつけられてたみたい」
「天璃ちゃんの血が、勝手に出回ってるってこと?」
目を伏せた天璃が、珠羅の言葉に頷く。
「一部のマニアから、凄く人気があるんだって。調べていくうちに、神の雫のほとんどはファンタジアが所有しているって分かって、ここに来ることを決めたんだ」
神の雫を多く所有するということは、それだけ天璃の血液に価値を感じたということだ。ただの宝石であれば、同じものをいくつも揃える必要はない。
「事故を起こしたのも、血を狙った者による犯行じゃないかって考えてた。だから、神の雫を手に入れることで、記憶を取り戻すきっかけになるんじゃないかって思ったの」
「なるほどね〜」
納得した様子の珠羅が、それでと話を続ける。
「何か思い出したの?」
「今のところは何も。ただ、ふとした瞬間に頭をよぎることがあって……もしかしたら、思い出しやすくはなってるのかも」
「ふーん。じゃあこれ、天璃ちゃんにあげるね〜」
ルビーのように鮮やかな紅が、きらりと輝きを放つ。手のひらに置かれた雫型の結晶を見て、天璃が瞳を揺らした。
「これ、どうして……」
「吸血鬼の実験場に飾ってあったんだ〜。今頃、なくなったことに気づいて焦ってるかもね」
平然と話す珠羅に、天璃が「いいの?」と問いかける。
「記憶が戻っても、気持ちは変わらないんでしょ?」
天璃の手のひらで、神の雫が溶けていく。液体化した雫は身体の中に染み込み、やがて一滴残らず消えていった。
「変わらないよ。約束する」
珠羅の瞼に、天璃がそっと唇を当てた。パチパチと瞬いた珠羅が、天璃の胸元に寄りかかる。
「口にはしてくれないの?」
甘えるように覗き込まれ、心臓が破裂しそうな錯覚に襲われた。
そんな訳ないのにと苦笑した天璃は、珠羅の頬を両手で包むと、薄く開いた唇に優しく口付けた。




