第七十九滴 大好き
霊藻たちが帰ったあとも、天璃はリビングのソファーに腰掛け、兎々の言葉について考え続けていた。
初めは、都合がいいと思った。
罠にかかった天璃を助け、教室で隣に座るよう声をかけてきた時──珠羅が天璃に何らかの関心を抱いているのは明白で。だからこそ、使えるかもしれないと思ったのだ。
不思議な人。憎めない人。それがいつからか可愛い人に変わり、気づけば一日のほとんどを共に過ごしている。
とはいえ、飼い主とペットという関係は、学園の中でのみ成立するものだ。当然のように一緒にいる今が、この先も続く保証なんてない。
考えれば考えるほど絡まっていく脳内に、いったん頭を切り替えようと、天璃が視線を上げた時だった。
「ねーえ。ペットのこと、無視するの?」
拗ねた様子の珠羅に覗き込まれ、一瞬でやらかしを悟る。考えに耽っていたことで、珠羅が呼んでいたことに気づかなかったようだ。
「ごめんね。考えごとしてて」
「ふーん?」
どっちつかずの相槌を打った珠羅が、天璃の隣に腰掛けた。
「天璃ちゃんに、聞きたいことがあったんだよね〜」
「どんなこと?」
「前にあげた神の雫、どこにやったの?」
──神の雫。今年の対抗戦で頂点のみに与えられる賞品であり、珠羅から天璃へと贈られた物でもあった。
唐突な問いかけに、動揺を隠した天璃が不思議そうに珠羅を見つめる。
「大切な物だから、しまっておいたんだけど……いきなりどうしたの?」
「ちょっと確かめたいことがあってね〜。部屋も探してみたけど見当たらないから、直接聞いた方が早そうだな〜と思って」
珠羅の能力をもってすれば、たとえ隠された物であっても見つけるのは容易いはずだ。つまり、珠羅は部屋に神の雫がないことを分かった上で、天璃に聞いてきているのだろう。
部屋になければ、どこにあるのかと。
「言いたくないっていったら、どうする?」
天璃自身、意地悪な返答をしたという自覚はあった。それでも、踏み込んできたのは珠羅の方だ。
飼い主とペットという関係は、一種の線引きでもあった。線の内側にさえ入らなければ、バランスが崩れることはない。触れなければ、均衡が崩れることもない。
誰にだって、秘密の一つや二つはある。口に出したことこそないものの、天璃と珠羅にとっては暗黙の了解にも等しかったはずなのに。
それなのに、なぜ今になって踏み込んできたのだろうか。
「話したくないならそれでもいいよ〜。でも、お勧めはしないかな」
「……足しにしたの。いつか、学園を出てもやっていけるように」
「資金にしたってこと?」
小首を傾げた珠羅に、天璃が黙って目を伏せる。
「出ていくっていつの話? もしかして、卒業前に学園を出るつもりじゃないよね?」
「卒業はするつもりでいるよ。ただ、その後は……」
学園が建っているのは、海に囲まれた島の中だ。身寄りのない天璃には、帰る場所もなければ、戻るための船もない。
何より、一度入学した獲物を学園側が逃がすとは思えなかった。
たとえ神領の手を借りたとしても、常に隠れた生活を余儀なくされるだろう。
学園という地獄に囚われた獲物にとって、卒業とは垂らされた蜘蛛の糸であり、免罪符なのだ。
「その後は……なに?」
珠羅の目から、一切の光が消えた。
ソファーに押し倒され、逃げ道を塞がれる。
「私のこと、捨てるつもり?」
「そうじゃなくて、珠羅ちゃんには……っ」
冷んやりとした手のひらが首に当てられ、天璃は反射的に口を閉じた。
「ダメだよ〜。一度飼ったペットは、最期まで責任もってみないと」
絡んだ指が、少しずつ気道を塞いでいく。珠羅がその気になれば、天璃の首など簡単に折れてしまうだろう。
返答を間違えれば終わる。本能がそんな警笛を鳴らす中、天璃の心は水鏡のように凪いでいた。
「珠羅ちゃん、私ね……過去の記憶がないんだ」
意表を突かれた珠羅が、僅かに目を見開く。黒々とした瞳の深さに、天璃はふと吸い込まれそうだと思った。
「数年前に事故に遭って、それより前の記憶が思い出せないの。分かるのは、その事故が意図的に起こされたもので、記憶を取り戻す手がかりが学園にあるってことだけ」
首を囲う手から、徐々に力が抜けていく。覆い被さる珠羅を見つめ、天璃は首元の手に自分の手を重ねた。
「学園が危険な場所だってことは分かってた。私一人では、到底生き残れないってことも。でも、珠羅ちゃんと会ってもしかしたらって思ったの。珠羅ちゃんがペットになってくれたら、私の目的も遂げやすくなるんじゃないかって」
兎々からの問いかけに、まだはっきりとした答えは出せていない。けれど、思考を鈍らせていたモヤが急速に晴れていくのを感じた。
珠羅には、天璃との未来が見えているのだ。または、そうあるように願っているのかもしれない。
確かなのは、目の前の可愛いペットは、卒業後も天璃から離れるつもりなど微塵もないということで。
「卒業しても、私のペットでいてくれる?」
「言ったでしょ。天璃ちゃんが手綱を握ってる限り、どんなお願いでも叶えてあげるって」
普段の完璧な笑顔とは違う。この世の甘味を煮詰めたような表情に、天璃の背をゾクリとした刺激が走った。
この関係に、好きなんて言葉は不適切なのかもしれない。
珠羅が天璃に向ける感情は、恋という言葉で片付けられるほど生優しいものではなく、天璃が抱える感情もまた綺麗とは言い難いものだ。
それでも、天璃はあえてその言葉を口にした。
「珠羅ちゃんって、私のことが大好きなんだね」
「当たり前でしょ〜」
軽く聞こえるその声には、底なし沼より暗い感情が含まれている。
けれど、多分それでいいのだろう。
雪のように儚い白を繋ぎとめるには、どんな色よりも深い黒が不可欠なのだから。




