第七十八滴 明日
貴重な品を数多く保管している有栖川は、日頃から人間人外を問わず幾度も狙われてきた。
特に、一人娘である兎々への被害は酷く。誘拐未遂や世話係の裏切りなど。何度も危険な目にあったことで、兎々の精神は次第に傷つき、擦り減った綱のように弱っていった。
「ほら兎々、ご挨拶して」
「……あ、ありすがわ、ととでしゅ……っ!」
思い切り噛んでしまい、恥ずかしさから顔を上げられなくなる。俯く兎々の前に、自分より少し大きな手が差し出された。
「九重 霊藻や。よろしゅう」
おそるおそる顔を上げた兎々の目に、鮮烈な金が映り込む。水草のように鮮やかな青緑の髪が、冷たい容貌によく似合っていた。
「しばらくの間、兎々の護衛をしてもらうことになったんだ。仲良くするんだよ」
吊り上がった切れ長の目が、見定めるように細められる。
同い年だと聞いていたが、とてもそうは思えない雰囲気に、兎々は自然と圧倒されていた。
「絵画みたい……」
「は?」
怪訝そうに寄せられた眉が、眉間に深い皺を刻む。
傾国の美女もかくやという容姿に、思わず呟きをこぼした兎々は、血の気の引いた顔で口元を塞いだ。
「すまないね、九重さん。兎々は少しばかり、独特な感性をしているんだ。不快に思っても、どうか許してやってほしい」
「べつに、怒ったわけや……」
言いかけた言葉を呑み込み、霊藻が差し出していた手を戻す。
兎々の頭を撫でた父は、仕事があるからと、早々に二人を残して出かけていった。
◆ ◆ ◆ ◇
「堪忍な。怖がらせるつもりはなかってん」
「……え?」
唐突な謝罪に、驚きで身体の震えが止まる。
庭園に流れる穏やかな春風が、兎々のふわふわした髪を靡かせた。
「うち、目つき悪いってよう言われんねん。あいそ笑いとか苦手やし、世辞だらけの言葉も好かん。親にも、ぶあいそすぎるって言われるくらいや」
「……おこって、ないの?」
「逆に、なんで怒ると思うん?」
純粋な疑問なのだろう。悪意を感じない声に、兎々の緊張がじわじわと解れていく。
「へ、変なこと言うな、とか……ちゃんと喋りなさい、とか。あと……」
「もうええ。大体分かった」
げんなりした様子の霊藻が、それ以上は不要だと遮る。
「またそないなこと言われたら教えてや。うちがなんとかしたる」
念押しで見つめてくる霊藻に、兎々はコクコクと首を縦に振った。
「動きが小動物みたいやな。兎々って名前もピッタリや」
「たっ、霊藻ちゃんは……うさぎ、すきなの?」
「兎なぁ。あんま考えたことなかったわ。せやけど、今好きになったで」
家の敷地からほとんど出ることのない兎々のため、屋敷内には父親の買い与えたウサギが暮らしている。何気なく聞いた質問だったが、霊藻の答えに兎々は赤らんだ頬を隠すように俯いた。
「この時間は、いつも何しとん?」
「えっと、絵を見たり……花を摘んだり、チェスをしたり……?」
「ほーん。ほな、したいことしにいこか」
護衛としてきているため、兎々のそばから離れる訳にはいかない。屋敷に戻ろうと足を進める霊藻の隣で、兎々が身体をふらつかせた。
「もしかして、寝れてへんの? しんどそうな顔してんで」
「あ……ご、ごめんなさい……」
「謝らんでええ。ちょいと休んでくか」
霊藻に呼ばれ、近くの木陰に並んで座る。幹を背に空を見上げた霊藻が、「困りごとでもあるん?」と口にした。
「……寝るのが、怖くて……」
黙って耳を傾ける霊藻に、兎々は溜め込んでいた感情をポツポツと吐露していく。
「起きたら、どこか知らない所にいたり……怖いものに、囲まれてたり……ほんとうはもう死んでて、わたしが気づいてないだけなんじゃって……たくさん、考えちゃうの……」
「うちが傍にいたる」
喉の奥でつっかえた言葉が、徐々に引き攣っていく。泣き出しそうになる兎々に、霊藻ははっきりした声でそう告げた。
「こう見えて、けっこう強いねんで。せやから、兎々が安心して寝れるように、うちが傍で見張っといたる」
幼い頃から一人で寝るのが当たり前だった兎々にとって、霊藻の言葉は衝撃そのものだった。固まる兎々の頭を、霊藻がポンポンと撫でる。
「ちょうど昼寝日和やな。試しに、目つぶってみ」
促されるまま閉じてみると、庭園に咲く花の香りがした。
春風の優しさや、花の美しさ。他者の温もりを思い出し、兎々の目から涙がこぼれていく。
服越しに伝わる体温が、兎々のひび割れた心に染み込んでいくようだった。
少し肌寒くなった風を感じ、目を覚ます。いつの間にか、霊藻に寄りかかって眠っていたようだ。
「おはようさん」
「……お、おはよう、ございましゅ」
眩いばかりの金が、兎々の瞳に映り込む。
起きて一番に目にした光景が、暗闇ではなく太陽だったことに、兎々は再び涙をこぼしそうになった。
「ぼちぼち夕飯らしいで。家ん中戻ろか」
「あ……もう、そんな時間……」
「やり忘れたことでもあったんか?」
「えっと、先生から渡された本……まだ、読んでなかったから……」
家庭教師からの宿題なのだと話す兎々に、霊藻がそんなことかと言わんばかりの表情を浮かべた。
「ほな、また明日やな」
「……あした?」
「せや。本なんて、明日読めばええやろ」
当然のことのように話す霊藻を、ただ呆然と見つめる。なにも言わない兎々に、霊藻が眉を顰めた。
「なんや、うちのこと首にするつもりか?」
「えっ、ああの、ちが……っ!」
「冗談や。行くで、兎々」
揶揄われたのだと分かり、兎々はパチパチと目を瞬かせた。沈んでいく夕陽が、二人の影を伸ばしていく。
差し出された手を、今度は握ることができた。
◆ ◆ ◇ ◇
「わたし……またね、って言葉が苦手だった。またなんて、来ないかもしれないのに……わたしには真っ暗な未来が、みんなには見えてるんだって思えて……」
一日一日が、兎々にとっては奇跡のようで。同時に、最後の一日のようでもあった。
「でも、霊藻ちゃんがまた明日って言ってくれた時……初めて、未来が見えたの。わたし、明日も霊藻ちゃんと一緒にいるんだって思ったら、眠るのも、怖くなくなったんだ」
霊藻だけが、兎々に明日をくれた。
何気ない霊藻の一言が、兎々にとってどれほど救いになったのか。きっと、霊藻は知る由もないのだろう。
「この先もずっと、霊藻ちゃんと一緒にいたいって思ったの。霊藻ちゃんの隣にいられる未来が、ほしいって……」
霊藻との記憶を宝物のように語る兎々は、ファンタジアという学園にいながら、誰よりも幸せそうに見えた。
「天璃ちゃんは……阿留多伎さんと明日も、その先も、一緒にいたいって思う?」
兎々からの問いかけに、天璃の瞳が揺れる。
いつか学園を去る時がきても、珠羅の手を離さずにいられるのか。天璃の未来に、珠羅は存在するのか。
沈黙する天璃の姿を、兎々は静かに見守っていた。




