第六十八滴 お返し
雪原のような肌には、爛れも赤みもない。
日光という何よりの障害が、いつの間にか天璃を害さなくなっていた。そんな変化に、天璃自身が気づいていない訳もなく。
自覚したくなかったのか。それとも、全て分かった上で蓋をしていたのか。
口を閉じたままの天璃に、神領がそれ以上踏み込むことはなかった。
◆ ◆ ◇ ◇
珠羅に抱えられ医務室を後にした天璃は、部屋着を手に浴室へ向かおうとしていた。
血塗れの制服は処分され、今は病院着のような服を身につけている。予備の制服は用意されていたが、自室にいる時まで着る必要はない。
服を脱いだ天璃が、脇腹のガーゼを剥がす。
塞がった傷口と、斜めに走った線。あれほど出血していた箇所が、まるで幻のように消えかけていた。
もし、珠羅から逃げたくなったら──。
頭の中で、神領の言葉が反響する。
お湯の張られたジェットバスを眺め、天璃はふと、千人分の血液があっても足りなさそうな大きさだと思った。
テーブルに並べられた料理からは、食欲を刺激される匂いが漂っている。陰からひょっこりと現れたひいちゃんが、丁寧にカトラリーを並べているのが見えた。
お風呂の準備、食事の準備、眠る前から起床まで。珠羅は天璃が行動するよりも早く、身の回りのことをさらりと済ませてしまう。
天璃が一人ですることといえば、今や着替えと入浴くらいのものだった。
尽くすより尽くされるような外見をしていながら、天璃に対しては随分と献身的だ。とはいえ、珠羅が天璃に尽くすのは、献身とは程遠い理由からではあったが。
「いつもより量が多いね」
「多めに持ってくるよう言っておいたんだ〜。お昼、あんまり食べれてなかったでしょ?」
カフェで昼食を取った際、天璃は料理のほとんどを珠羅に食べてもらっていた。気遣う霊藻には“空腹でない”と答えたものの、本当の理由は異なっている。
「珠羅ちゃん、手……怪我したの?」
「ああこれ? ナイフでちょっと切っちゃったんだよね〜。まだ残ってたんだ」
手のひらの中央を横断するような傷跡を見つけ、天璃が心配そうに珠羅の手を取る。ほんのり赤みを帯びた跡は、天璃が見ている前で徐々に薄れ、やがて完全に消えていった。
「こんなのすぐに治るよ〜」
にこりと笑った珠羅が、食事にしようと促す。
どうやら、あの程度の傷であれば、数分も経たずに治ってしまうらしい。取り分けられた料理を前に、天璃がポタージュを口に運んだ。
「美味しい?」
こうして食事を共にする度、珠羅は決まって同じ質問をしてくる。そして、天璃が肯定すると、それはそれは満足そうな笑みを浮かべるのだ。
どの料理も甘くて美味しい。素材の甘さの他にも、舌が蕩けるような甘みが混じっている。
昼食を抜いた分、反動のように食が進む。警鐘を鳴らす本能を抑えつけ、天璃は目の前の料理を完食した。
食べ終えた食器をワゴンに戻していると、珠羅がリビングの方から顔を覗かせ、天璃を手招いてきた。呼ばれるまま向かった天璃に、珠羅が片手に乗るほどの箱を渡してくる。
「はいこれ。天璃ちゃんにあげる」
「これって、対抗戦の……」
クラス対抗戦での活躍も含め、MVPには珠羅が選ばれたようだ。当然といえば当然の結果なのだが、去年は微塵もやる気のなかった珠羅が、天璃のために優勝まで力を貸してくれた。
その事実が、何だかとてもくすぐったく感じた。
「ありがとう、珠羅ちゃん」
「どういたしまして」
箱をギュッと抱えた天璃に、珠羅が目を細める。
不意に、何かを決意した様子で天璃が顔を上げた。
「あのね、珠羅ちゃん」
「なあに?」
「ちょっと、屈んでほしくて……」
思わぬ言葉に目を瞬かせた珠羅が、視線を合わせるように上半身を屈めた。
「はい、どーぞ」
「えっと、目はつぶっててね」
楽しげな珠羅の頬に、天璃の両手が添えられる。素直に目を閉じた珠羅へ、天璃がそっと唇を寄せた。
カプリ、と鼻先を噛まれた感触に、珠羅が意表を突かれた顔をする。天璃はといえば、そんな珠羅の姿に、悪戯が成功した子供のような笑みをこぼしていた。
「ふふ、びっくりした?」
「期待したのにな〜。もしかして、これがご褒美?」
「ううん。これはあの時のお返し」
医務室での寸止めは、いつも冷静沈着な天璃の脳内をかき乱していった。これで少しは、珠羅も天璃の気持ちが分かったことだろう。
わざと拗ねた態度を取る珠羅に笑みを深めると、天璃は再び珠羅の頬を両手で包み込み、そのままふわりと唇を重ねた。
低めの体温が合わさり、仄かに熱が灯っていく。
飄々とした態度で分かりにくいが、おそらく珠羅は医務室での会話を聞いていたはずだ。
狩りの際も荒牙との話を知っていた珠羅が、神領との会話を把握していない訳がない。
「これからもよろしくね、珠羅ちゃん」
奥に沈んだ不安を拭うように、天璃が珠羅へと微笑みかける。天璃を見つめる珠羅の瞳は、何かを確かめているようでもあった。
「私の飼い主だからね〜。天璃ちゃんが手綱を握ってる限り、どんな願いでも叶えてあげる」
僅かな圧を滲ませた珠羅を、天璃は真っ直ぐ見返した。
心配せずとも、決して逃げたりはしない。目的を遂げるためには、天璃とて最強の武器が必要なのだ。
珠羅を手放す選択肢など、はなから存在していない。
「じゃあ、今日はクリア目指して徹夜で遊ばない?」
「なにそれ最高〜」
ゲーム機を指差した天璃に、珠羅が機嫌良く答える。
視界の端で、いそいそとコントローラーを用意するみっちゃんたちが見えた。




